【あいりん的小娘登場】  鈴原 順

 

 

 


第一章「暴力的な方に賛成」○第二章「鈍らなローマ」○第三章「僕が欲しいのは君ではない」○第四章「連想としての姿に泳ぐ」○第五章「ハカバカシキ日々」○第六章「鎖骨で呼んでくれ、駆けつける」○第七章「夢のカルフォルニア」○第八章「首から上だけ愛してる、その前」○第九章「首から上だけ愛してる」○第十章「首から上だけ愛してる、そのあと」 ○第十一章「首から上だけ愛してる、もうひとつ」○第十二章・「東京・スクランブル・ペンギン」○第十三章「誰がパンを焼くのか」 ○第十四章「すごく怖い人」○第十五章「ファッキン・ウルトラ・デコード」○第十六章「額を喰う新宿手前」○第十七章「あの色を忘れない」○第十八章「切断せよ、このアキレス腱」○第十九章「膝と膝、寄せ合って」○第二十章「メイドさんの庭仕事」 ○第二十一章「前の汗、後ろの吐息」○第二十二章「ぐちゃりと行けよ、きみ」○第二十三章「あの柔らかな白く薄い皮膚」 ○第二十四章「病室」○第二十五章「あなたは無恥な人」○第二十六章「あたる膝、漢字の書き取り」○第二十七章「東京デカダンス」 ○第二十八章「ファッキン・130円」○第二十九章「わが霊的聖母」○第三十章「縛られたいんだこの手どこまでもきつく」 ○


 

第一章「暴力的な方に賛成」

 僕はいつもの癖で爪の甘皮を噛みながら、「何も動物は、食物を、これ全て自分の身体とするわけではない。当たり前である。人間においても一食食事をするごとにその分、体重が増えてはたまったものではない。(以下、三十余行に渡る自分のダイエット経験と世の痩身女性への呪詛、中略)ところで人間以外の動物においては、どのような比率で体重を増やすのであろうか。例えば鶏肉一キロに三キロほどの餌が必要だし、同じく豚肉一キロには五キロほど、牛肉一キロには八キロほどの餌がかかっている。その意味で、鶏肉は極めてエコロジカルな肉であると言い得る」なんて一文を読んでいる。

 

第二章「鈍らなローマ」

あるいはきみが鳥瞰的に僕を眺めたならば、僕の腰がどろどろにくびれているのを見るのだろうか。現実的に考えて、世界には僕と比して年長者が多いのだから、たかだ二十四でと言われるのかもしれないが、どうも世界ってのは適度にユーモアを解すような気がする。そんな気がする。少なくとも、誰も見ていないところで僕の腰がどろどろに溶けていても、僕は歓声こそあげど、目を疑ったりしない。それほど下衆ではないさ。

 僕はこたつの中に腕を差し込み、手探りで目盛りを見つけると、少しそのひねりを弱めた。

 すっと熱が引くのを体感するのと同時に雨音が薄く聞こえてきた。いつから降っていたのだろう。研究室から帰ったときには降っていなかったはずだが。考え巡らせて、すぐに止めた。自明のことだった。雨は、今、降り始めたのだ。

今時、木製の窓枠に往年の薄い紗の入った硝子という窓のせいだろうか、かたかたと鳴る。降水に決着をつけた僕はあの、と頭上三メートルに位置しているはずの風見鶏に思いを馳せた。

五色に身体を染め抜いた、鶏冠のばかでかいその風見鶏はこの強風に翻弄されているのだろうか。くるりくるりと目を回しているのだろうか。そんなとき、艶っぽい貴婦人のような瞳は今、どこを見ているのだろう。

ただでさえまほろばまほろばなどと呟きつつ、首の二つみっつも振りたくなるようなレトロなこのアパートのモダニズムさを倍化させ、僕を含めた住人の心を魅了しているこの風見鶏は、少し変わったポーズをしていた。一般的な風見鶏の姿と異なり、彼女は着陸姿勢をとっているのだった。羽を広げ、足を地につけようとしているのだ。禿かけたフェルメールブルーが少し気障な瓦屋根に、そんな恰好の鶏という取り合わせは、さして親しくない住人間でのお定まりの話題となっていた。特に駅で出会った際などにはアパートまでの十分以上、ふたりきりなわけだが、風見鶏の変わった姿についての独自の解釈を互いに披露し合い、笑い、悪意のない解釈に対する解釈の応酬を繰り返していれば、さして気まずい思いをすることもない。(勿論、あの失墜の姿を見るたびに自分の身の上と重ね合わせてしまってね、と苦笑しながら語る程度のユーモアは誰しも持っていることが前提となる)最近、住人の間でよく話題に上がるのは、このアパートは大正期に作られた洋館を改造してアパートにしたというだけあって風変わりな作りをいくつか持つのだが、そのひとつとして屋根裏部屋から屋根へと出る階段があり、管理人がそこを経て、半年に一回の屋根掃除をしていて、風見鶏で手を切ったというものだった。聞くところによると風見鶏は日夜、風雨に晒されているくせに、錆びることもなくその片鱗は鋭利だったのだという。

 僕はコタツを抜けると寝室にしている畳敷きの部屋に行き、カーテンから外を覗いてみた。曇った窓を掌で拭うと冷たくて心地よい。これは手だけではもったないないと、額をくっつけてみると確かに心持はいいのだが、口から吐く息によって吹いた傍から窓が曇ってしまうので、思い切って掌でふき取ってしまった、

 

第三章「僕が欲しいのは君ではない」

 ぱんと乾いた音がした。それはボールペン程の大きさだったが、その発生元が僕のすぐ傍であることは瞬時にわかった。拳銃がそういう音を立てると聞いたか読んだかした記憶があるが、それよりも爆竹が弾けるような音だと思った。

 僕がそれだけ考えたところで、先の音と比してかなり大きな音が覆いかぶさってきた。今度はものが崩れるような騒がしさを持っている。さすがに読みかけの本から目を上げ、聞こえて来たほうに目をやると、ははあ、すぐに音の発生源は明瞭となった。僕が寛ぐ居間の西側の壁が吹き飛んでいるのだった。

 僕はさして驚天することもなく、よいしょと胡坐をかいて事態の進展を傍観することにした。そんな日常性を脱しない自分にも驚きはしなかった。

眼前で発生した出来事が非日常的な度合いを高めれば高めるほどに反比例して僕が普段は掛け心地の悪さを感じている日常性へとどっぷりと潜入する性質であることは知っていた。二十四年も生きていれば自分の性質のひとつやふたつ、認識していて当然だ。とはいえ、きみ、仮にきみが二十四を超えて、尚そういった認識を持っていないと言うのならばそれはそれで構わないのさ。無理して自分を知ろうだなんて醜い真似はよすことだ。僕だって必要に迫られてこうなったんだから。

 僕がひとつ感心したことは、壁の破壊具合が綺麗であるということだった。黒煙や塵がもうもうと舞うというようなお定まりの展開はなかった。少し靄が掛かっているといった程度で、こんな空模様ならばサンシャイン60の展望室だって開館しているだろうという程度だ。ところでそこはちょいと想像すればわかるようにカップルばかりだからマゾ的な快楽を知っている君は是非ひとりで行くべきだ。居た堪れなくって念慮を実行できるよ。

首だけ伸ばして、壁の断面を覗き込んでみた。ははあ、壁の断層とはこのようなものであったか、と僕は感心したりする。白色の壁材に挟まれた断熱材や綿などが断層のように広がっている。実に暖かそうで、これならば鼠でなくとも住みつくわな。

 薄い埃の下にはこれまたメスなこともなく、綺麗に壁の残骸が積み重なっている。しかし木片と思えるものが僅かにその場を乱しているのが可愛らしい。なかなかつぼを押さえた爆破だ、と思ってみたりする。

埃の向こうは、隣人の部屋が広がっている。生憎と電気が点灯していないので奥は判然としないが、僕の部屋の電灯がネージュ色の絨毯や小振りのテーブルを僕に目視させている。

僕はこの爆破が果たして誰に為されたのかを考えていた。僕の部屋に、まさか爆破してまで奪い取りたいものがあるとは考えられないし、僅かに見える隣室の様子からすると隣人がガス自殺を図ったわけでもないようだ。あるいは隕石やマンホールの蓋が降ってきたと考えることも出来るが、音からして火薬物による破壊と想定される。もっと突飛な考えとしては壁の間に僕の関与しないことだが爆発物が隠匿されていて、何らかのきっかけでそれが爆破したということも考えられる。しかし薄っぺらな壁に爆発物を潜ませることは難しいだろうし、大体きっかけって何だ? 

僕が塵を吸い込まないように息を詰めながらそんな風に考えるのにも飽きてきた頃、タイミングよく事態は変化を迎えた。

隣室の暗闇にふっと人影が浮き上がったのだ。人影はすぐに僕の部屋の電灯に照らされ、足から膝へ、そして腰へとエロティックに登場を開始した。僕はその人物を迎えるべく立ち上がった。とは言ってもそれはその人物を警戒してのことではない。例えそれが誰だとしても胡坐で出迎えるだなんて失礼千万だろ?

人影は瓦礫をぴょんこと飛び跳ね、僕の部屋の畳を踏んだ。

「こんばんは」少し低めの元気な声が僕を包んだ。「アオイくん、お邪魔します」彼女は僕の前に立つとえへへへとはにかんで手を振った。その手には煙草が挟まれていた。煙草からは紫煙がくゆり、彼女の髪に紗を掛けていた。

 吹き飛んだ壁とその瓦礫、可愛い女の子と紫煙、そしてここで佇む僕。ごった煮のような光景。これは噴飯ものだ。解釈云々を気にする諸君、まずは笑い給え。

 彼女の左手には近所のスーパーマーケットのものと思しきビニール袋が握られていた。僕が何の気なしにそれに目をやると、彼女は、はいよ、とそれを差し出した。

「これお土産だよ。一緒に食べようと思ってさ」

 僕はああ、と二三度頷いて、そんな様子に彼女はくすりと唇を撫でた。僕が黙っていると彼女はまだ?という表情をちらと浮かべ、煙草を口にやり、深く吸い、吐くと、やはり元気よく言った。

「どうだった、私の発破は」

 彼女は瓦礫を一通り眺め回すと、満足そうに頷いた。「なかなかの腕前じゃない?」

「ああ」と僕は言った。「埃はあまりたたなかったよ」

「そうでしょうそうでしょう」

「発破、得意なの?」本当は、爆破は君がやったの?と聞いてみたかったのだが、自明の理として話す彼女を見ているとそんな下衆な質問は出来なかった。

「そうだね。あまり経験はないけど、そこは知識でカバーしているし、結構自信あるよ」あははと笑った。「今回も発破に当たっては『発破』なんて雑誌を一応読んだし」

「そうなんだ」

 僕もあははと笑って、恵ももう一度あははと笑った。

 

第四章「連想としての姿に泳ぐ」

 僕はアパートの住人同士の会話の例に漏れず、とりあえず風見鶏のことでも話そうかと思ったのだが、恵はそんな気はないようだった。

「ところでもう夕飯は済んだ?」

 僕は応えた。「まだだよ。これから食べようかと思っていたところ」

「それなら丁度よかった」彼女がよしよしと今にも頭をなでなでするような調子で、頷いた。「一緒に食べようよ。お酒や肴もあるよ」そう言ってビニール袋を振って見せた。「それにお鍋をあるんだ。もう私の部屋でいい具合に煮えてるよ」

 

第五章「ハカバカシキ日々」

「お怪我はありませんこと」

 鍋を中心に日本酒の一升瓶といくつかの肴をテーブルに配置すると僕たちは向かい合うことなくテーブルに付いた。そして恵が言ったのだ。

えっと聞き返した僕に恵は続けた。「下敷きにはなってなかったようだけど、何かがぶつかったとか」

「ああ。いえ、ご心配なく」

「あら、それはよかった。ほら、私も思い悩んだのよね。万一にも怪我をしたら大変だけど、でも爆破を予告してしまっては面白みがちょっとね。それは嫌だったの、わかるでしょ。だから思い切って爆破したんだけど、怪我してなくてよかったわ。それにしても私、いまいち豪胆さが欠けているのよね。それがこれからの改善点」

 僕が「なるほど」というと恵は言った。「よしよし。鍋、いい具合だね。ぐつぐつ言っているよ。やっぱり冬はコタツに入りながら鍋、そして日本酒だよね。堪らん」

「せっかくだけど僕はアルコールのアレルギーだから、遠慮するよ。メロンソーダで付き合わせて貰うよ」

 ええっと恵が目を丸くし、ふうんと笑った。

「遠慮しないで飲んでね」

えっと恵は意味を分かりかねるというような顔をしたが、すぐにああと微笑んだ。微笑んだだけでくっきりと笑窪が浮かんで、とてもチャーミングだった。僕はここまで克明な笑窪を見るのは二度目だった。

「大丈夫大丈夫」

 そう言って恵はおもむろに酒瓶を傾けると僕が普段使っているコップを満たし、一気に飲み干して見せた。「染み入る染み入る」

 恵は目を閉じ、「今お酒はここです」と艶かしく白い首から胸、腹と指を立てていった。

「酒、好きなんだ」

「好きっていうか、飲まずにはいられないわけさ」あははははと笑窪が浮かぶ。「毎晩飲んでるよ」

「そりゃあ、本物だ」

「いやいや。それよりも私、家でメロンソーダを飲んでいる人ははじめてだよ」

 あははと今度は僕が笑って、さっきの恵のように飲み干して見せた。恵が手を叩く。

「好きなんだ、これ。なんだか薬っぽい味が懐かしくってね」

「懐かしいって。ミツヤサイダーを歯磨き粉の味と共に懐かしむのは、私たちの親の世代じゃない」

 

第六章「鎖骨で呼んでくれ、駆けつける」

「ところでね」と恵はいった。自分の話をすることによって相手の同テーマに関心を抱いていることを通知するというのが、彼女のコミュニケーション手段のようだった。それは非常なバランス感覚を要するもので僕などは恐ろしく敷衍すらする気にはならないけれど、成る程、上手く使用すれば会話を盛り上げる有効な手段のようだ。

「私の夢を聞いてよ。ううん、夢なんて空漠としたものじゃなくって、将来だな。将来に対する目標を聞いてよ」

「よし聞かせて貰おう」と僕は膝を揃えて見せた。彼女は一拍微笑んでから言った。

「あのね、私の目標は、障害児を産むことなの」

 えっなんだって、と言ってしまってから僕は動きを止めた。果たしてこの話題は気楽な返答に彩られてしかるべきものなのか。深刻な話をオブラートに包み、さしも気楽なことのように話しながらも、実は本人にとってはかなり重大なことであり、相手が気楽な様子を見せると傷つくというタイプは想像以上に多いものだ。

僕はそっと恵の横顔を窺った。だが彼女は葱間の解体に熱中していて、その表情は窺い知れなかった。

「障害児よ、障害児。障害児を産むの」そう言って照れたような表情で僕を見た。その口振りも不安定で、言葉にした途端に失われる情性を悲しんでいるようでもあった。やはり額面どおり捕らえてはいけないかもしれないと思い、以後僕は、翌日あたりから後悔することになるのだが、大胆さを失った。

「障害児よ障害児」と恵は繰り返す。

「障害者。どうして障害者なの」じゃあ僕が父親を引き受けようか、とでも言おうかと一瞬思ったのだが、結局無難に応えた。パラレルな世界において、「じゃあ僕が父親を引き受けようか」という自分がいることは理解できるのだが、それは大変不思議なことでした。

「だって」恵は、今度は世の摂理を説くような口調になった。「自分の子どもの幸せを願うことはそんなに可笑しなことかしら。これからの世の中で愛されるのは障害者なのよ。時代とか社会とか、そういったみんなが障害者を渇望しているわけ。そうでなくてどうしてこれだけ社会が福祉に傾倒するのよ。知ってる?今や子どもたちに最も人気のある職種は福祉関係なの。つまり子どもたちがスポーツ選手とケーキ屋さんを目指す時代は終焉したってわけ」多弁は不安の現れ、なんて通俗的な解釈を僕は欲していなかった。

 事実だ、と僕は思った。現にアパートの住人で僕の唯一の小学五年生の顔見知りであるヒロミちゃんも趣味として休日ごとに老人ホームを慰問しているのだった。彼女は嬉々として喋る。「私ね、何十も年上の人のお尻を拭ってあげるの」

 なるほど、そんな話を聞いたことがあるよ、と僕は言った。

「ねえ、聞くでしょう。あら、そういえばアオイくんも心理系統の研究をしているんじゃなかったっけ。ある意味あなたは時代の先端ね」くすりと笑った。「あなたも障害者が好きでしょ」

 僕はどきりとした。そんな土足で踏み入ってくる質問を、僕は予期していなかった。恵は自身の密やかな目標の開示、しかも異常性を自覚している目標の開示と交換して、僕にも適度な犠牲を要求しているのかもしれない。恐らくは無意識に。ギフトは強迫に同義だからな。ホメオスタシスの解体は死を招く。

「でも」と僕は逃げを打った。「どうやって障害者を産むつもりなの。まさか産婦人科医に相談もできないだろうし」

 くすくすと恵が笑った。ほら、もうあの辛辣な雰囲気はない。

「そりゃあ相談できないわよ。だから今考えているのは市販されている薬を使う手なの。ほら、あるじゃない、妊婦の方は云々って書いてある薬。障害児について調べていたら妊娠期のいつ胎児のどの部位は生成されているかっている研究を見つけたから、それを参考に、狙い済まして服用するわけ」

「そんな法則性があるんだ」

「うん。ちょっとした発達心理学の本や医学書に載ってるよ」

「で、どこを狙うつもりなの」僕はもしかしたら無意識的に話を抽象性な方向へ抽象的な方向へと走らせているのかもしれない。「手?足?」

「まだ迷っているところ。アオイくんはどこがいいと思う」

「考えたことないからな」当たり前だ、と突っ込みをいれてみる。「無難なところでいけば指の数が多いの少ないの、そんなところだよね」僕は恵が冗談で言っているのでないことは、彼女の語勢でわかっていた。でもそれだから、何か僕が変わるわけではない。そして結局に質問に対して斜な答えを導くのがせいぜいなのだった。

 僕はそんな面白くもない答えをしているようでは恵に軽蔑されると思うのだが、その一方で恵が、僕のさっきからの毒にも薬にもと言ったような返答に満足そうな様子であるのを見ていると、実際は僕の言動は恵の期待に沿っているとも思えた。結局は相互補完なのだろう。僕は恵の鋭さに憧憬を抱き、恵は僕の鈍らさに憧憬を抱く。コ・インデペンデントの一丁あがり。

「私はね、性器がいいかなって思うの。アナルしかない女児とか、機能は十全としているくせに肥大し過ぎて生殖に役立たない男性器とか。どうかな」

「素敵だと思うよ」と僕は短く評した。

歯痒い。僕が伝えたいことはこんな陳腐な思いなのだろうか。大層ぶっていても、所詮、だなんて悟りきって見せていても、結局僕はタイタニックに泣いてしまう男なのだ。愚かなのはタイタニックではなく、僕だ。せめても、と僕は付け足した。「夢がある」

「ありがとう。でもね、いくつか頭が痛いこともあるのよ。まず顔ね。まともな生殖が出来ない人間の素敵さってその美貌さにかかっていると思うのよ。美男や美女で生殖の相手は容易に見つかるの。ううん、希望者がいっぱいいるくらいなの。それなのにまともな生殖は出来ない。その乖離さっていうのかしら、それが素敵なのよね。ところが美貌でない子どもが生まれてきちゃったら、あれれって感じでさ。ただのもてない子になっちゃうんだもん」

「それはかなり差別的言辞じゃないかい」

 ええ、と恵が黄色い声をあげる。

「この差別主義者め」僕は悪戯っぽく睨みつけた。恵がきゃっと言った。

 僕はコップをライト・グリーンに汚すメロンソーダを恵にぶっかけたかった。恵はきっと僕に日本酒を浴びせ返すだろう。あるいは君は部屋の中をきゃあきゃあ追いかけっこするほうが好きなのかな。

 

第七章「夢のカルフォルニア」

「アオイくんの妄想が聞きたいな」

妄想ですかと、僕はさっきからアホか。発言のリピートなど自分が白痴であることを晒しているか、もしくは相手の話を引き出そうといているみたいではないか。僕は慌てて付け加えようと思ったけれど、誰かに妄想について乞われた経験も、実際に話した経験もなく、そして僕は経験していないことへの対応が苦手だった。

「そうそう」と恵は言った。「例えば私なんて雨が降る度に、いつか全裸であの川原を駆け回ってみたいと思うけどな。それで疲れてきたらどたああってヘッドスライディングするのね」

「少し痛そうかも」

「ううん、でも興奮しているわけだから、きっとその時は痛みも感じないんじゃないかな。それできっと次の日の朝、目が覚めたら体中が傷だらけでずきずきするんだろうね」僕は実に楽しそうに顔を顰めてみせた。「しかもね、きっと顔とかお腹なんかじゃなくて、変なところにばっかり傷はできるんだよ」

 ぷっつりと血液が玉のように浮き上がった恵の乳首の映像が僕の頭を過ぎった。二連になった乳首は可笑しく、恵にその話しをしようか一瞬迷った挙句、やめた。

「そんなの、アオイくんはないの」

「そうだな」僕はふっと頭に浮かんだことを喋りだした。「雨といえば、僕は傘もささずにずぶ濡れになった制服を着た女の子を妄想するかな」言ってからすぐに、あっと思った。

恵は笑った。「あはははは。なんだか青年的な妄想でいいね」

 僕は慌てて口を挟んだ。「言っておくけど下着が透けて見えるからじゃないよ」

「うんうん。いいじゃない、透ける下着。チラリズムは、健康的な青年的欲望よ。あはははは」

 意気込んで反論を展開しようかとも思ったが、ただ苦笑を浮かべるだけに留めた。むきになるという行為自体が僕にとっては不快なのだった。そこに固着したくなかった。

 

第八章「首から上だけ愛してる、その前」

「聞いてる、アオイくん」

「うんうん」と僕は応じた。「さっきからちゃんと聞いてるよ」僕は炭酸に腹を膨らまし、いつまでも吐き気を催すこともない恵に対し、ほんのちょいとだけねたみを覚えていた。

「でねでね、ピアッサーを耳にあてがって、鏡でその位置を確認していたわけよ。そうしたらなんだかピアッサーの針が汚れているじゃない。私、慌てて耳から遠ざけたわよ。だって血液感染したら大変でしょ。幸運にも針が耳に触れることはなかったんだけど、でも腹が立ったわけよ。誰の血よって。部屋に招いた人なんて数知れているでしょ。だから私、彼らの顔を頭に思い浮かべて、誰かが私がトイレに行っている間にでも、私を驚かそうとして耳にあてがったものの、結果的に失敗したんだろうって考えたのね。ピアッサー自体は使用されていなかったから。全く、どういつよ、って思ったんだけどね」そこで恵は葱間の葱を口にした。焼き鳥は恵が鍋と共に持参したものだったが、僕らは共に菜食主義者であり、葱間の葱だけを食べていた。いい香りを発するエコロジカル且つエコノミックな鶏肉は皿に除けられていた。朝鳥にあげようと、彼女は僕が菜食主義者であることを告白すると、嬉しそうに言った。でもそれって共食いだよ。残酷かしら、でもカンニバリズムは根源的欲動だから。僕らはそれから暫くカンニバリズムについて議論を戦わせた。

「結局、誰の血だったの」炭酸に食傷した僕は死に水としてメロンソーダと果たしてどちらを採用すべきかで思い悩んでいる、メロンサイダーのライバル、梅昆布茶を啜った。

「それがね、私爆笑しちゃったわよ。それは私の血だったの。以前開けようと思ってあてがった途端に腹痛に襲われたってことがあってさ」

「じゃあそのときの」

「そういうことなのよ」

 恵の話は脈絡なく、それは僕にもそういう話を求めているようで、僕もさして多くもない日常の由無し事をかくに語った。そんな会話は百万語を交わした仲以上に親しい関係のようで、僕は嬉しかった。

僕が椎茸を摘むと、恵はその隣に浮かんでいた葱の束を掬い、取り皿に運んだ。そしてふと言った。

「こうやってお鍋を突付いているとさ、まるで家族よね」

 

第九章「首から上だけ愛してる」

「金閣寺を燃した男と、それって一緒だよ。柵なんて不要なの。どちらも神様志望」

 恵は酒が進めば進むほどに恵はよくわからない発言を増した。それは自己完結の世界だった。疎外されゆく僕だったけれど、別に寂しくも居た堪れなくなることもなかった。実際のところ鈍らなナイフほど痛いものはない。

「ライオンをキリスト教徒に改宗すべく檻に入っていって噛まれた台湾人を知ってる?彼はライオンに言ったのよ。神はおまえを祝福しているって。いま私が好きなのはこの人」

「君の言っていることは全くわからない」と僕は思ったままに言った。

彼女はすかさず言った。「それは褒め言葉かしら」

「勿論ですとも」

「光栄だわ」しかしにっこりと微笑んだ顔に浮かぶ陰影は、ヒロインに相応しくない。

しかも満足そうに微笑んだかと思うと、今度は欠伸をひとつ、ここで寝させてね、そう言って恵は横になり、とたんに可愛らしい寝息を立てはじめた。小悪魔という形容が僕の脳裏に浮かんでこびり付いた。

彼女の横顔を見ながら、僕は静かに思索に耽ってやろうかとも思った。それはひどく僕を興奮させる事態であったが、ひとり夜空に向かってギターを奏でるのと同じほどに気恥ずかしいことであり、仕方なく僕はひとりテーブルの片づけを始めた。音を立てないようにと気をつけながら燻製烏賊のパックを潰しているときに、恵の言うことが、僕が半年前まで交際していた女と似ているのだと気がついた。僕はどうも説教風味な女が好きみたい。

 恵の寝顔、薄いアイシャドーと少し開いている唇は、もしかしたら普段以上に色っぽいものかもしれない。彼女の寝息に色づく僕の部屋の空気は、艶っぽい。しかし僕は一向にセクシャルな欲求に身を支配されることはなかった。眠気のせいか、いつになく饒舌だったせいか、少し霞の掛かった頭を持て余しながらも黙々と片づけをしていた。

地域の規則に従って、ごみは四種類に分別した。

台布巾は固く絞った。もう水気はない。

元々は葱間に刺さっていた鶏肉の山は、捨てずに皿に移し、冷蔵庫にしまった。野鳥だって腐肉を食べて腹を壊してしまっては可哀相だもの。皿には匂いが移ることを防ぐべく、サランラップもきちんとかけた。サランラップは環境ホルモンが含まれていない種類のものだから、恵が明日、鳥たちの素敵なカンニバリズムのために肉はほかほかでなければならないと妥当な主張したとしても、そのまま電子レンジに放り込める。野鳥に環境ホルモンは似合わない。環境ホルモンが似合うのは人間だけだ。だから僕の部屋にはサランラップが二種類ある。狭い台所にふたつ並ぶサランラップのことを考える僕は僕のあやふやな輪郭が流れ出しそうで、愉快で、恐怖する。ただ、いま、僕の手中に救いがあるとすれば、それはきっと恵が肉の加熱を提案するであろうという確信に近い自信だけだ。

片づけが終わるといよいよ僕は手持ち無沙汰となった。手を腰にあてがってみても、手持ち無沙汰は隠しきれない。

雨も止んだようだ。車のエンジン音すらしない。いつもにも増してしんとした部屋だったが、僕の僅か隣には恵がいた。

それは不思議な光景だった。

起きているときは前髪であまり見えなかった額が露わになっている。眉の地毛とライナーの差異が明瞭だ。僕はいつまでも見ていたい気持ちに取り付かれていたが、やっぱりそれは僕には出来ないことだった。誰ともなしに恥ずかしかった。

僕は静かに煙草を吸い始めた。かちりというライターの音に恵の睫がほんの少し動き、僕ははっとした。その動揺に嬉しさを感じている自分を、すぐに笑った。これじゃあまるで自然主義リアリズムの世界じゃないか。

 

 

第十章「首から上だけ愛してる、そのあと」

僕の部屋には灰皿がない。かと言って茶碗や皿に灰を落とすことは躊躇われたので、必然的にトイレが喫煙所になっていた。便器に灰や吸い殻を落とすのは簡単だが、それをスムースに流すことにはそれなりのこつを要する。ただ単にレバーを引いても吸い殻は水流にも負けず浮き上がってくるのだ。勿論数回レバーを引いてやれば、さしものの吸い殻も勘念して流れ去っていくのだが、浮上を繰り返す吸い殻を目の当たりにするのは愉快なものではない。その理由は恐らく僕がこのアパートの風見鶏を気に入っているのと同じなのだろうと自身では分析している。

だから僕は吸い殻に向かって小便をかけてやることにしている。そうすれば彼は水分を含み、敢なく一度のレバーで飲み込まれて行くのだった。

セヴンスターを根元まで二本吸うと吐き気がしてきた。慣れ親しんだ吐き気に、昨夜から感じていた、かっちりとした服を着込んだようなこりが解けていくのが感じられた。

朝起きると恵は僕の横で小さくなって可愛い寝顔のままでいた。それでも少し不安で僕は瓦礫の山を見て、ようやくほっとした。

尿意を待ってトイレから出ると、僕はとっくに操業を開始している春間パン工場をぼんやりと眺めた。窓から工場内を忙しそうに行き来する人々の姿が見え、彼らに混じってパン作りに精を出す自分の姿を想像したりした。

暫くすると恵が起き、時計を見て、慌てて朝の支度をはじめた。

「本当は朝の余韻を楽しみたいところなんだけど」と彼女は本当に残念そうな顔をしながら、着替えやら何やらで一度壁の穴を通って自分の部屋に戻っていたのに、わざわざ僕の部屋の玄関から出かけていった。それが僕の唯一の慰めだった。

 

第十一章「首から上だけ愛してる、もうひとつ」

目白は動くのが面倒と見えて羽を器用に使って肉片をかき集め、単調な首の動きだけで食っていく。

「おかしな目白だ。無精をするな」僕は声に出してみた。小さな声が波紋も残さず消えた。

空気にも水面くらいの思いやりがあってもいいのに、などと考えていると目白がじっとこちらを見つめているのに気がついた。嘴を若干持ち上げている。さしずめ、ふんと、見下した表情とでも言おうか。

「どうした。何か言いたいことがあるのなら言ってご覧」

 僕は、恵のせいだろう、何だか黙っていられなかった。僕が再び小さく声を出すと目白は身体を二三回揺すり、そして言った。「なら言わしてもらいますけどね」ずっこけてしまいそうな甲高いソプラノだった。

「あんたねえ」と目白は吐き捨てるように言った。「そりゃあ勝手すぎるわな。手前勝手ってやつだよ。私、あなたのために存在しているわけじゃないからね」

「これは失礼」と僕は慌てて詫びた。

「大体、あんた菜食主義者らしいがね」と目白は僕の皿の中の肉片をちらと一瞥してから、尚も言い募る。言葉と言葉の端にかちかちかちとくちばしがカスタネットのような音を立てているのがご愛嬌だ。しかし、してみるとこの声は間違えなくこの目白自身の口から出ているらしいぞ。「やめえな、そんなの。病気でもない限り雑食として生まれついたことに誇りを持ち給えよ」

 目白の言葉が一段落つくと、今度は目白の背後の樫が、あの、と言った。

「その件についてはわたくしにもひとごと言わせて欲しいな」と樫が樫樫した声で、つまり硬質な声色で言った。純朴そうな樫らしいダンディな重低音だった。このふたり、ふたりの声が重なるとそりゃあ見事なハーモニーを奏でるであろうこと、自覚しているのだろうか。否、これは余計な心配だろう。一挙一動が堂に入った目白の仕草からして、少なくとも目白がそれを知らないはずがない。

「つまりだね、きみは生命を尊重する立場から肉食を断っているのだろうが、わたくしたち植物の生命をどう考えているだい。それともきみは動ける動けないで生命のあるなしを判別するのかい」

「そんな滅相もない」代理人でなく、本人にこう言い募られるのははじめてだった。

「全くきみはやりにくいわな。もっちゃりしとるな、ナイフを振るえ、ということも出来ず、かと言って返り血を啜れという台詞も適当とは思えない。どっちかにして欲しいもんだよ」目白は嘆息した。その嘆息は言葉の意味に反してもっとやれ、という煽りの気が濃厚に感じられた。

とはいえ、僕は恥じることも勿論逆上することも求められていないようなので身の振り方に困り、やりにくいのはこっちもだい、などとケーキ屋けんちゃんの声色で呟いていると、樫がとりなすように目白に言った。

 

第十二章「東京・スクランブル・ペンギン」

 僕の部屋の隣にはゲイのカップルが住んでいる。彼らは結婚していた。

「あら何それ」潰れた喉で高い声を出すのは右手に毛抜き、左手にサンマルマッチの手鏡を持って、延々三十分以上に渡って顎鬚を除去している2だった。それは彼らの日常だった。かつて、一度、エステなどで全身脱毛をすればと言ったことがある。時間が掛かる上に、相当の痛みを伴うようで一本ごとにひえひえ言っている2の様子を始めて見た時のことだった。

「あらこの子は」と2は目を丸くした。「駄目よ駄目よそんなの駄目よ」1もいやいやをする。ははあと僕は思った。これはエム的な喜びを味わう行為か。

そうではなかった。「一本一本抜くことが重要なのよ。時間をかけてね。だってアオイちゃん」ふたりは親しくなると、僕をちゃん付けで呼んだ。「私たちはセクシュアリティを破棄したわけじゃないんですからね」「そうそう。寧ろシンボルは大事にしたいわ」

 

第十三章「誰がパンを焼くのか」

 僕が僕に対して抱く嫌悪の対象は、例えば目覚まし時計に一切頼ることなく、しかもすっきりと目を覚ますということだ。どんなに夜更かししても、それに変わりはないし、体温はいつだって高めだ。

全く、と僕は煙草の一本も口にせずにはいられない。

僕も「飲まずにはいられないわけさ」などと言いたかった。

どぶりとアルコールに侵食された姿など、僕には僕に適当と思えた。酒は飲めない、ピアスを空ければすぐに膿むし、視力は抜群。

これじゃあ僕は生きるのが楽しくて楽しくてしょうがないみたいじゃないか。

そんな僕が僕は好きじゃないのだ。せめて煙草でも吸わずにはいられないではないか。その煙草だって、吸いはじめて日が浅いわけでもないのに一本も吸えば吐き気を起こすのだが。

僕の身体は僕の精神を裏切っている。

だから僕は恵が好きなのだと思う。

僕だって、自分の補完者として他者を認識することがいいことだとは思わない。倫理的というわけではなく、それは美的観点からして素敵ではない。第一、それは危険なことだ。でも、所詮、と僕は妥協を自覚しながら思う。

所詮、僕らはアンドロギュノスだってことさ。

 

第十四章「すごく怖い人」

流れる街角を、何かに固執することなく眺める。流れる景色は意外とゆっくりと見えるものだ。乗客たちの会話や電車の振動音が煩い。僕が電車会社を買収したとして、と僕は恐らくは有り得ぬであろう想像を膨らます。音楽のひとつも流すだろう。そう。Jazz a go goなどがいいだろうか。流れる風景にはjazz a go goがよく似合うように僕には思われる。あるいは普遍性のない他愛もない僕だけの感覚だろうか。そんなことはあるまい。僕は我ながら適当な選曲に悦に入る。政府も外国人旅行客を本気で呼ぼうと思うのならば、それくらいはするべきだ。

 電車はスピードを緩めホームに入った。短いタームでjazz a go goは途切れる。僕は各停に乗っているのだ。いくらかの乗客が乗り降りする。僕はドアの脇に立っている。数人の乗客と世出が触れ合う。

早くドア閉まれ、とつまらない駅の風景に僕は少し疲れが出る。そう。疲れを実感するのはいつだって停車しているときだ。それならば急行に乗ればいいようなものだが、腹の弱い母の影響だろうか、僕は各駅に乗ることが嫌いではなかった。

 ついと電車が走り出し、何の気なく車内を眺めると、吊革に掴まったひとりの女の横顔に目が留まった。ぼくはどきりとする。その女性の右頬には黒子がみっつ並んでいるのだった。勿論エマニュエル・ベアールがキッチュなスーツに身を包んでいるはずもない。すっきりした頬のラインは似てないこともないが、あんなに姿勢が悪いはずもない。僕はすぐに視線を窓の外に戻した。しかし僕の頭はエマニュエル・ベアールに占められていた。

 エマニュエル・ベアールもこの瞬間生きているのだなと思うと嬉しくなって、僕は踊りのひとつも踊りたくなってきた。ダンスといっても激しい類のものではなく、軽く身体を揺する程度のチークタイムに踊るやつだ。そんなもの踊ったことないが。

 夢想の中で僕の相手を務めるのは、なぜか頬にみっつの黒子をくっつけたヒロミちゃんだった。

 

第十五章「ファッキン・ウルトラ・デコード」

どういうことかわからないけれど僕は地上を走る電車と比して、地下鉄が好きだ。低い天井とどうしてくぐもった様な空気、これに煙草が吸えれば何も言うことはないのだが。僕は車内で煙草を吸えたという父の若い時代、ぽいと窓から吸殻を放り投げたものだという話を思い出していた。

 向かいのホームではホームレスと思しき恰好をした老人が、ホームの、恐らくは清掃用であろう蛇口を捻り、直接口に水を落としていた。周囲の人々はそっと彼の動向を見守っていた。誰しもが退屈な時間を彼に注目していたが、彼ががぶがぶといつまでも水を飲み続けていると四十台の主婦らしき女性は一歩彼に近づき一層凝視し、二十台のサラリーマンは一歩下がってその様子を目で追っていた。

「あなた」という声が僕に掛かった。さっと声のほうに顔を向けると、小さなジャージと小さなジーンズも纏った少女がすぐ傍に立っていた。

「あっ、やっぱり。アオイさんだ」

 アパートの住人で、「ヒロミだよ」そう、ヒロミちゃんだ。祖父であるというダンディなエナメル氏とふたりで暮らす小学五年生。

僕は知っているというように柔和な笑顔を浮かべ、頷きかけた。そこへ待ってましたとばかりに電車がすべり込み、僕は渡りに船と一端会話をやめた。ヒロミちゃんがそんな僕を微笑している姿が目の端に映った。僕は急速になんだか居た堪れなくなってきたが、その時ヒロミちゃんがさっと手を握ってきたので、そんな思いは消し飛んだ。僕はその柔らかで少し暖かい掌を少しきつめに握り返した。

「どうして向こう側の座席ばかり埋まるか知っている」

 とヒロミは座席に着くや否や言った。確かに進行方向左側の座席はいっぱいであるのに、僕らの腰掛けた右側は隙間が見えた。

「どうしてだろうか」と僕は言った。

「それはね、この時間だとこっち側の席は日差しが当たるからだよ。しかもただ日が差すだけではなくて、ビルとビルの間から差し込む光だから、ぴゅんぴゅん照っては消えて照っては消えて、そりゃあ目に悪いのよ。読書をする人は勿論、眠る妨げにもなるわけ」

 そこまで喋るとヒロミちゃんは、向かい側に座っていた紳士にねっという調子で頷きかけた。六十代の男性で、ハンチングを被った彼は少し照れたように頬の筋肉を操り、それだけでヒロミちゃんに応えていた。

それにしてもと僕は思った。傍目から僕たちは如何様に見えるのだろうか。僕とヒロミちゃんの年齢差は十四だ。兄妹とはいくまい。かといって僕は童顔な方だし父娘には見えないだろう。仲のいい親戚と見えなくもないだろうが、生憎と僕らは手を握り合っているのだった。十一という年齢は手を繋ぐには行き過ぎている。僕は面白くなってきた。

と、考えると最も妥当なものはロリコン青年と被害者娘というところか。ロリコン青年として期待されている行為といえばやはりスカートの中に手を差し伸べることなのかもしれないが、残念ながら、僕にそれは出来ない。

 

第十六章「額を喰う新宿手前」

 僕は毎朝定刻に部屋を出て、電車を乗り継いで研究所へ行き、幾許かの時を過ごす。僕はいま、教授の助手という扱いで、彼の研究の一環である実験を繰り返しているのだった。その実験はここ一年ばかり同じだった。そしていつもそこから得られる結果は同じなのだ。気象や日時で左右される実験でもないのに、執拗に繰り返す理由を僕は知らない。しかし教授はいいというまで繰り返すように僕に命じたのだった。それは嫌がらせかと勘くぐることも可能だったが、そうではないように僕には思えた。だから僕は結果を知りながら、実験を繰り返す。

「生きた兎をね、ジューサーに入れるんだ。そしてスイッチを入れる。当然だけど、さっきまで慣れぬ狭い空間にきょろきょろと動物的な円らを、ほらあの無知な、無知って僕は人間至上主義じゃないよ。憧れを込めての無知だ、その無知な動物特有の濡れた瞳だよ。そんな愛らしい瞳をしていた兎は一瞬の後に、ゲル状になるんだ。血液の赤と脂肪の白が、ぱあっとジューサーの壁に飛び散る。暫くしてスイッチを切るとゲル状になった兎が出来上がる。ちょうどミンチ肉のような外見になるんだ。ここからが実験だ。スイッチを切ってすかさずジューサーの蓋を開ける。するとどうなると思う?ジューサーの底にへばり付いたピンク色のミンチ肉が、ちょうど兎が跳躍する要領でぴょんこと跳ねるんだ。ミンチ肉はジューサーを飛び出て机に降り立ち、そこから更に逃げようとする。そのエネルギーを計測するのが僕の仕事なんだ」

 いつか恵に話そうと思っているのだが、どうも偽悪っぽくなりそうで、僕はまだ話していない。

 

第十七章「あの色を忘れない」

「あらアオイくんじゃない。珍しいお客様ね」

「いま、同性愛について話していたところよ」

「あらあら、アオイくんも同性愛に目覚めたわけ」

 僕は否定も肯定もしなかった。というよりも僕は正直言って1や2と付き合いをするうちに同性愛に対して自分がある種の憧憬を抱いていることに気がついていた。僕はそんな自分に反吐してやりたかった。

 それにしてもこれは普遍的なことではないのだろうか、少なくとも僕の眼前の同性愛者二氏は細やかな心配りをするものだ。それは相手に感じられるレベルであり、中には心遣いとは相手に感じられない程度で行わなければならないと言うのかもしれないが、鈍いのだろうか、僕には打てば響く程度までの配慮、そしてそれに対して抱く申し訳なさが丁度よかった。

 2はくすっと鼻に皺を寄せて、言った。

「アオイくんはきっともてるわよ、男に」

 僕は素直に嬉しかった。「どうしてですか」

「まずその笑窪がいいわね。微笑んだだけで発現する笑窪なんて羨ましいわ。垂涎ものよ。それに笑窪の隣の黒子もいいわね。随分といろっぽく見えるもの。ね」

 1が深く頷いた。

 黒子っていうのはつくれることをきみは知っているだろうか。2が指摘した僕の唇脇の黒子は実に人工物だった。克明な笑窪が嫌いで、その凹みを埋めようと土粘土を何度も何度も押し込んでいるうちに色素が移って出来たのだった。小学生の低学年のことだったと思う。

「娼婦みたいよ」1が言い、2がすぐに付け加えた。「言っておくけど、褒め言葉よ」

 

第十八章「切断せよ、このアキレス腱」

ぐんぐんと雲が凄い勢いで流れる妙に静かな日だった。空には鳥が舞っていなかった。

アパートは二階建てでそれぞれの階に三部屋ずつあった。一階にヒロミちゃんとエナメル氏、管理人、1と2が住み、二階には僕の部屋と恵、そしてずっと空き室になっている部屋がある。管理人は疾風の如くそれらの部屋のドアをノックして回り、僕たちは空き室に集合させられた。

管理人は劇画のように「みみみみみ水を」と息を切らせているので隣室たる僕が部屋に戻り水を一杯汲んできた。彼はそれを上手そうに飲み干すと「戦争じゃ」と叫んだ。

「駅に」と管理人は話し始めた。アパートから商店街を経て十分ほど歩くと最寄り駅に付く。管理人は野暮用で駅を通りかかったのだという。「するとな」駅前広場には所狭しと軍服を纏った強面の男たちが整列していた。「彼らの」隊長と思しき男が軍人たちに訓示していた。「これからこのアパートへ攻撃を加える方針を語っていたんだ」そして彼らは肩から銃をかけ、腰には手榴弾をぶらさげていた。管理人の話し方は、それが事実であることを裏付けていた。眼鏡の柄も曲がっていた。

「通行人はどうしたの?それにあそこには交番があるじゃない。お巡りさんは」ごくりと沈黙の部屋に相応しい音を放ってから、恵が詰めた声で言った。

「彼らはその軍人たちが存在しないかのように振舞っていたよ。お巡りは欠伸をし、烏はくずをついばむ。主婦は子どもをあやし、サラリーマンは営業スマイルを浮かべるって具合だ。そこで俺は感じたんだ。これが現実だとな」

 

第十九章「膝と膝、寄せ合って」

きゃああああ、と恵が耳をつんざくような声を上げた。何事か、と目など見開きベタな反応をして驚く僕をよそに彼女は続けた。「戦よ戦。戦がはじまるのよ」

1や2も大袈裟に叫び声を上げて見せた。ヒロミちゃんはスプリングのように涙を飛ばし始め、床に染みを作った。エナメル氏は頭を抱え込み、管理人に至っては失禁していた。ふたつの液体が僕の足元で交じり合ったがあまり気にならなかった。

死などとうに超越した連中とばかりに認識していた僕はその様子にびっくりして、逆に興ざめしていた。そりゃあこの連中だって死を恐れるには当然なわけだが。

笑え、とは言わないまでも、この混乱振りはあまりではないか。

 僕がその様子を見つめる目には若干の戸惑いと失望の色合いが混じっていたのだろう。「あなたねえ」と恵が言った。険のある言い方だった。「何やってんのよ」

 何って、と言いながらたった数日で恵の僕への態度は随分とかわったものだと僕は思った。

「みんなが恐れおののいて見せてるんじゃない。雰囲気ぶちこわさないでよ」わざとらしく嘆息した。エナメル氏と管理人は照れたように微笑みあっていた。ヒロミちゃんもぴたっと涙を止め、窓の外を窺っている。

「まあまあ」とこれまた突然いつもの柔和な感を取り戻した2が、間に入った。「アオイちゃんらしい反応じゃない」でも、と口を尖らせた恵に頷きかけて口を封じてから続けた。「勿論本来のアオイちゃんとしては」1は立ち尽くす僕の後ろに回り、はい、力抜いて、と言って手首を握った。臀部の辺りが若干気になったが、2は僕の手を頭に持っていき、その手で髪を掻き乱させた。すぐさま僕の髪はくしゃくしゃになった。

「こうしているのがお似合いね」

 僕はそんな髪を持て余し、大体戦いなんて本当にはじまるのかな、と鼻をつままれる思いだった。

 

第二十章「メイドさんの庭仕事」

 ところが軍人は本当にやってきた。三十人ばかりの軍人はアパートの前に広がる河川敷に展開し、戦闘の準備を機敏に開始していた。僕たちは窓からその様子を眺めていた。彼らは放射状に陣取ると、作戦だろうか、何かを伝達し合っていた。伝言ゲームかしら、とヒロミちゃんが言った。僕は間もなくだと思った。

「仕方がない」それまで黙っていたエナメル氏が口を開いた。「武装しましょう。私が武器を提供致します」

「おじいちゃん」とヒロミちゃんが声をあげた。「それじゃあ、やる気なのね」

「そうさ、ヒロミ。争いごとは好まぬが、降り掛かる火の粉は払わねばなるまい」

 僕を除く一同が瞳を光らせて頷きあった。今にも円陣を組みそうだった。僕はそれに漏れないよう、そっと部屋の中央に進んだ。

 武器庫には僕と1がお供した。

「この穴は私の姿かたちそっくりにつくられているんだ」エナメル氏は自室に戻ると、僕たちが見守る中、天井の板を一枚外した。するとそこにはボール大の穴が開いていた。「頭部から肩、腰を経て踵までな。何しろ私の石工を取ったくらいだからな。つまりこの建物を壊すことなしにこの部屋に入れるのは、私だけということだ」

 そんなと僕は思った。肩は頭より大きいのだぞ。

 

第二十一章「前の汗、後ろの吐息」

「私の院生時代のある友人について話していいかしら」

 2が言った。「彼はね、真理や正義なんていうカテゴリーつまりア・プリオリなものを諸現象の集約により獲得できると主張して、それに対するそれはどこまで言っても現象の集合に過ぎないという批判が飲み込めないような男なのよ」

「ずいぶんと痒いところに届くような形容ですね」

「うふふ。ありがとう。それにしてもあなたは遣りにくいわ。あなたはただの管じゃないの、下痢や便秘をすることもあるでしょうけれど、消化器なの、垂れ流してどうするのよ、消化器としての誇りを持ちなさいよ、なんてお説教でもできたらいいんでしょうけれど」

 

第二十二章「ぐちゃりといけよ、きみ」

何故か僕の頭にセーラー服を脱がさないでがリピートしていた。セーラー服を。パン。脱がさないで。パン。今は駄目よ。パン。我慢なさって。パン。

 僕がリズムに乗って発砲していると、ヒロミちゃんが「あのさ」と能天気な声で話しかけてきた。さっきまで両手拳銃で乱射していた子とは思えないいつもの可愛らしい声だ。ぷっすんぷっすん壁に穴が開き、硝子が砕ける中、見れば彼女は黄色いスクール帽子を被りリュックを背負っていた。僕はさすがに我が目を疑った。

気でも狂ったんかいの。

「私、臨海学校なの。忙しいところ申し訳ないけれど、そろそろ行く時間」

「あらそういえば」と1がスナイパーライフルの眼底から目を外すことなく言った。ぷしゅんという音ともに表で爆音が響いた。はっきりとは見えなかったが、車が数メートル飛び上がったようだった。

「あらやるじゃない。私の1ちゃん。私、あの車になりたいわ」2が腰を振った。

「この戦いが終わったら十分かわいがってあげるわよ。あなたもしっかり」1はウインクと投げキスを送ってから、ヒロミちゃんに向き直った。「今日から臨海学校だったわね。下田に行くとか」

「そう」大きく頷くと、ヒロミちゃんはさっと身をかがめた。途端に部屋の中に銃弾が飛び込み、しゃがんだ彼女の真上を駆け、花瓶に命中した。「下田だよ」

「なんたること。俺の生けた花を。おのれ見ておれ」エナメル氏が一声叫ぶと手製の火炎瓶をぶん投げはじめた。あっという間に川原が火の海となる

「おじいちゃん、やるう」ヒロミちゃんが拍手した。「二泊三日で行くの。メインは水族館なんだよ。イルカショーとか」

「あら、それは楽しそうね」窓を割って飛び込んできた手榴弾を慌てることなく、ぽいと投げ返してから2は微笑んだ。「水族館なんて、私も行きたいわ」窓の外で爆音と共に、断末魔が響いた。

「2ちゃんのぶんまで楽しんでくるね」

「まあ、嬉しいこと言うじゃないの、この子は」そう言ってヒロミちゃんの頬に2は接吻した。

「あの、ヒロミちゃん、今、あの、本当に行くの」僕は頭を低くして、言った。若干声が上ずっていることを自覚せずに入られなかったが、それでも平静を装っているつもりだった。

「うん。そりゃあ私だって銃撃戦の顛末は気になるけれど、小学生たるもの、それなりにしておきたいこともあるのよ」

「ヒロミの言う通り」火に川原を追われ、それまで潜んでいた敵が飛び出してきた。彼らは銃を乱射しながら、逃げ惑っている。大量の銃弾が部屋の中に飛び込んできて、天井の電球が割れた。天井からぱらぱらと木片が落ちてくる。首筋にはらはらと硝子が降ってきて、僕は慌てて床に伏せた。2とヒロミちゃんも僕を挟むように身を潜める。川の字の出来上がり。

2は続ける。「小学生である以上、小学生としての経験も大切にしなくてはね」

「なるほど」と僕は言ったが、何がなるほどなのかよくわからない。

そのとき顔面神経痛の如く顔を振るわせた1が横っ飛びに弾丸を乱射した。

「野郎ども、まとめて相手にしてやるわ」ぶろろろろんという音が響き、敵からの攻撃が止んだ。部屋の外と内、久々に静寂が訪れた。しかし、すかさず、ここを先途とばかりに雲雀から目白、鶯までがぴーちく狂い鳴く。

「まあ、キッチュな鳥さん」ヒロミちゃんが呟いた。

「やるじゃないかい、あんた。見直したよ」とエナメル氏が、ばあんと1の背を叩いた。

わっはっはっはと豪傑笑いをひとしきりしてから1は言った。頬が高潮して、学徒のようだった。「何のこれしき。これでも大東亜では金獅子を手にした男よ」とありえない嘘をつく。

どっこいと見栄を張った1に一同がやんややんやの拍手を送った。僕も一緒に惜しげもない拍手を送った。拍手が止むのを待って、それは相手の攻撃が再びはじまったのを意味するわけだが、僕はヒロミちゃんに言った。

「あの、こんな銃撃戦の中、本気で行くの?」

「これ、ヒロミ」とエナメル氏の声が僕の声に重なった。「早くしないと遅れるぞ」

「わかった」とヒロミちゃんは怒鳴ってから、僕ににっこりと微笑んで言った。「アオイさん、頑張って私たちのおうち守ってね」彼女は言ってきまーす、とみんなに叫びながらばたばたばたと部屋を出て行った。ちらりとスカートの裾から覗く太股が眩しい。それは妙に肌理細かい。

 

 

第二十三章「あの柔らかな白く薄い皮膚」

ヒロミちゃんが舞台から姿を消すと、待ったましたとばかりに舞台の中央に走り寄った男が一人。これまで出番のなかった管理人だ。

「ええい」と彼は腹の底から雄叫びを上げた。

その形相は無念といった風に歪んでいた。どさりと床に手をつくと、仰々しくエナメル氏に頭を下げた。「すまん、エナメル氏よ、おれにも銃を貸してくれぬか」彼は居合いの免許皆伝であり、「拙者、飛び道具の類は遠慮致す」などとエナメル氏の手から皆に銃が配布されたとき不敵な笑みを浮かべてそれを断り、いざ交戦してからは、敵がアパートに侵入してくるのを待ち、玄関脇で待機していたのだが、いつになっても通りを挟んでの銃撃戦が続いていた。管理人は痺れを切らしたのだろう。

「管理人よ、何のまねかな。さあ敵は目前、手を床においている暇などないわ。早くその銃を取れ」

「かたじけない」

 うっそりと応えた管理人は和服の裾が乱れていることも気にしない。そこから立派な小麦色の太腿が露になっていることも気にしない。彼は素早い動きで銃を取ると、一寸の躊躇いもなく、猛然と銃を撃ち始めた。その動きはさすがに免許皆伝に恥じぬ敏捷性を帯びていて、エナメル氏顔負けだった。

管理人が装填してあった弾を打ち終えると、再び部屋が拍手で包まれた。わっはっはとエナメル氏と管理人が豪傑笑いを重ね合わせ、互いの肩をばしばしと叩き合う。「お互い役者じゃのう」拍手は一層高まった。

どうやらふたりの遣り取りが演技であることを知らなかったのは僕だけらしい。賛辞が飛び交う中、僕はただ黙々と引き金を絞り続けた。

 

第二十四章「病室」

「全く言語ほどくだらないものはないわよ。この糞、言語」恵はピンを抜き、二秒おいて、手榴弾を投げた。

「これ、恵」1が僕の横に転がってきて、恵をたしなめた。「糞、だなんてお下品でしょ」

「あら1さん。素敵なお召し物。でも汚れてしまっておりますわね」1は真っ黒のひらひらなドレスを召し、しかもその頭ではてらてらにティアラが輝いていた。恵の言うようにドレスの裾がくすんでいた。

「恵さん、お話をお逸しになさるな」きっとひと睨みしてから、1はにやりと幼児のように歯を見せた。「それにしても恰好に問題があるとしたらあなたの方ではありませんの。いい?そもそも戦場とは」

「1さん、ちょっと失礼」恵はそう言うと銃を窓から外に向け、目視することもなく、引き金を引いた。さっきからパンパンとうるさかった銃声がやんだ。「どうぞ続けてください」

「そもそも戦場とは命をかける場です。いつ果てるとも知れないわけ。そういうときこそ正装を旨とすべきでしょう」

「む。確かに」と恵は言った。彼女は何故か乗馬用の前垂れをつけている以外はいたってラフな恰好をしていた。恵はそんな自分の恰好を見て、ぽっと頬を染めた。そして恥じ入るように小さな声で言った。「私、着替えてきますね」そんな恵の可愛いらしさに垂涎している僕はばかか。

 1は重々しく頷いた。「そうすべきでしょう」恵はこそこそと部屋から出て行った。

 

 

第二十五章「あなたは無恥な人」

「ところで言語を使用しないのだとして、コミュニケーションはどうするんだい?」

「例えば抱き合うとか?やってみる」

 恵はそう言って本当に抱きついてきた。「おいおい」と僕はその身体を押し返した。ぴゅんと狙い済ましたように弾丸が空気を裂く。

「なに照れているのよ。はじめてってわけでもないくせに」

「あらあら、あなたたちそういう関係なの」

「そういうことじゃないでしょ。今、銃撃戦の最中なんですよ」

 わはははとエナメル氏まで大口を開けて笑い出した。「でもコミュニケーションは異物を体内に取り組むことだからな。今はたまたま戦闘中だけど、これが台所に立っているときでもテレビを眺めているときでも、どんな状況でも不快感は拭えないものじゃないのかな」

「しかしですね、何と言おうと今は戦闘中」

「何よ。さっきまでひとりだけ白けきっていたくせに」

 恵がふふんと笑った。

 

第二十六章「あたる膝、漢字の書き取り」

「あらそれ自傷の跡?」

「本当だ。これ、自傷?」

 恵も比して高い声を用いた。みんなの視線が僕の両手の肘に集まっていた。その時、僕は珍しく半袖のTシャツなどを召していた。

「自傷癖があるの、アオイちゃん?それにしても肘とは珍しいわね」

 1の横で同じ恰好をして腰掛けている2が言った。

 戦闘は静まっていた。しかし軍人たちの動向からして、再び戦闘を開始するための布陣を引くための小休止であることはわかっていた。僕たちは1と2の淹れた珈琲を飲みながら、談笑しているのだった。

そのとき僕は気がついたのだけれど、部屋中の人間が誰しも差こそあれ一定の視線を送っていた。それは在りがちな好色な視線ではなく、苦笑したようなそれだった。自傷癖を所有する者は同じ趣味を持つものに対して同一化し易く、その際は皮肉な笑みを浮かべる、僕はそんな一節を思い出しながら言った。

「違います。これは自傷じゃなくて」と僕は喋った。若干退屈していたみんなは抑揚を持って僕の話に傾聴してくれた。それは確かに精神医学者や心理学者に言わせれば自傷なのかもしれないし、哲学者に言わせればエロス的な行為に当たるのだろう。僕が僕の肘に無数の傷を刻んだのは幼稚園生の頃、瘡蓋を収集するためだった。そして僕は瘡蓋だけを食べて生きていくことを夢見ていて、その実験として肘を傷つけていたのだ。瘡蓋を食べるという発想は甘く、あらゆる食べ物から不潔感を拭い取れなかった当時の僕には、正に至福のようだった。

「わかるぞよ」嘆息に乗せてエナメル氏が言った。彼は座っていた椅子を脇に寄せ、床に腰掛けていた。僕はその意味がよくわかっていたので、にやりと微笑んでしまった。それにしても同意して貰えたのは驚きで、正直、嬉しかった。「確かに瘡蓋って美味しいわな。ついでに究極のカンニバリズム。素敵だの」瞳は夢見る如し、ただし姿勢は一段とおかしくなっていく。

「それにしても」と2が言った。「この戦闘にもいい加減満腹」

 

第二十七章「東京デカダンス」

戦闘を経て僕たちは、家族のようになっていた。善かれ悪しかれ。

そうか、恵は祭りをしたかったのか、よし来た、任せておけと僕は思った。なんて屈折している女だ。こうなったからにはどこまでも付き合ってやるぞ。思った。祭りだって。それは僕だって望んでいたものさ。

何なら団扇の紙張りをしてもいい。幼い頃に祖父母同居していたから糊の扱いは得意なんだ。それとも神輿を担ごうか。一度褌という奴を召してみたかったんだ。神酒といえどアルコールは駄目だから、僕の枡には金粉入りの梅昆布茶を頼む。そして恵、きみのさらしは僕が巻こう。

「さあ」と僕は突然大声を出した。みんなが驚いたように僕を見つめる。「銃撃戦の次は何をするんだい。さしずめ宇宙にでも飛んでいこうか」

 

第二十八章「ファッキン・130円」

「あら、あなたヒロミに惚れてんの」

 恵が冷やかすような口調で言った。肩をすくめて見せた。「大丈夫。ここでは誰もロリコンを蔑んだりしないわ。安心して吐露することね」

「お言葉だけれど、そんな心配してないよ。ただ僕のヒロミちゃんへの気持ちを素直に告白する気はないな」

「むむ」とエナメル氏が眼鏡に手をやるというお似合いの仕草をした。「聞き捨てならんな」

「確かにあの子はいいわね」と1が迎合して見せた。「以前問われたことがあるの。性欲ってのは何かって。あの子がまだ九歳のときのことよ。」1はエナメル氏に視線を送って「私、あなたがどんな教育をしているのか疑ったわ」

エナメル氏がくすりと笑った。

「あなたもまだまだ青いわな」

「ほっておいて頂戴」

「それであなた、なんて応えたんだい」

「戸惑ったわよ。だって相手は第二次性徴前でしょ。全く共通認識の欠如したところでのコミュニケーションって厄介よね。勿論、それ故の面白さもあるんだけど。で、私がどうしようどうしようって子猫のように(1の期待通りだろう、恵が口笛を吹いて冷やかして見せた)迷っていたらあの子言ったわ。穴があったらそれを埋めたくなるのが人情。性欲ってそういうものなのだと思うがどうかってね。私ぶったまげたわよ」

むふふふふとエナメル氏が僕の肩を叩いた。「ちょっと、あんた聞いたかい」

「掛け値なしに素敵な子よ、ヒロミは」エナメル氏がべらんめえ口調で言う。「将来が楽しみだ」

「アオイくん、下卑た笑いはやめなさい」恵がとげを刺す。

「君こそ、嫉妬はやめ給え」

 

第二十九章「わが霊的聖母」

 爆音と共に浮上したアパートから覗くと河川敷に佇む春間パン工場の周囲に人だかりが出来、彼らが一様に僕たちに向かって手を振っているのが見えた。僕たちも窓からそれに応じた。工場長が帽子を振る姿は魔女の宅急便のようだった。

 アパートのあった辺りは黒土が露わになっている。そこには軍人が群がっていた。彼は僕たちの方を指差している。銃口を向けている者もいた。暫くすると彼らは何を思ったか春間パン工場目掛けて攻撃をはじめた。その頃にはもう人は米粒ほどにしか見えなかったが、どうやら春間パン工場の人に怪我人はなかったようで、うまく工場内に立てこもったようだった。少しほっとして、これから彼らの紡ぐ物語に思いを馳せてみたが上手くいかなかった。しかしどちらにしろ彼らの物語に関与することは出来ず、僕はただ僕の物語を勧めればいいのだと気付き、管理人に言った。

「調子はどうです」

「どうなんてもんじゃないよ」と彼は言った。あの空き部屋には隠しボタンがあって、それをクリックすると機械仕掛けの操縦席が現れた。管理人が運転手を名乗り出たのだった。彼は、ぐいんと操縦桿を手前に引き、「このマシンはちっとも古びちゃいない」

「ヒロミちゃんは今ごろどのあたりでしょうね」

「そうね」と1が言った。「そろそろ下田に着く頃かしら。確か水族館に直行するはずだったけど」

「わあい」と恵が万歳する。「実は私も水族館行きたかったんだ」

 アパートは雲の高さにまで浮上するとホバリングに移った。マシンに一切の不安はない、これなら全力で下田へ迎えるだろう、と管理人が言った。

「管理人さん、それじゃあ下田水族館へ飛ばして頂戴」と2が言った。

「よしきた」戦時中は少年飛行団で鳴らしたという腕前を久々に発揮できるとあって彼は興奮してるようだった。「それじゃあみなさん、安全のためご着席下さい」

 対照的にむくれているのがエナメル氏だった。彼もまた少年兵としてゼロ戦を操縦した男なのだ。しかし今回はマシンの存在を知っていた唯一の人間である管理人が自然と運転士に選出されたのだ。「そうむくれるな、エナメルよ」

 むう、とエナメル氏が言った。

「向こうへ付いたら操縦を替わるから」

 ふたりがにやりと笑った。「その台詞待っていた」

 僕たちは床に着座した。

「床に座ったまま飛べるってのはいいわね」と2が言った。「私、どうも椅子はつかれるのよね」

「しかし緊張感を楽しめないのはまた残念でもある」と1が言う。

 恵はごろんと横になり、寝煙草をはじめた。僕もポケットを探ったが、確かに入っていたはずのマイルド・セヴンは見つからない。戦闘のどさくさで落ちたのだろうか、とさっきまでの戦場を眺め回したとき、エナメル氏が発進してくれ、と叫んだ。

 管理人は発進と鷹揚に叫び思い切って操縦桿を倒した。フル・スロットルに入った。アパートは少し後ずさりをするという随分色気のある動作をしてから、空を裂き始めた。

「後ろに下がりおった」とエナメル氏が言う。「一層気に入った。早く操縦したくってうずうずしてきた」

「随分色っぽいマシンだね」と僕は煙草を諦め、恵の脇に横になった。

「あら」恵は僕の顔に煙を吐きつけてから言った。「あなたのが色っぽいわよ、あなたはそう言われることを望んでいるの?」くすり。

「なあ」と僕は笑ってから言った。「煙草を一本くれよ」

 

第三十章「縛られたいんだこの手どこまでもきつく」

「あら嫌だ」僕の顔を見るとヒロミちゃんはすかさず言った。素っ頓狂に言う。「恵の男になっちゃったの」

「え」と言ったのは恵のほうだった。「そんなことないわよ。安心して」

「本当に?」とヒロミちゃんは僕に向き直った。

「本当だよ」

 ふうん、と頷くヒロミちゃんは少し間を置いてから恵に言った。「恵って案外だらしないのね」

 せっかくだから水族館を見学しようという恵とヒロミちゃんの主張で、僕たちはきゃっきゃ言いながら、その水族館を見物した。アシカのショーも見た。そして僕たち、僕、恵、ヒロミちゃん、エナメル氏、1と2、管理人は再びアパートで飛び立ったのだが、もういいだろう。これは僕の物語だ。ビーチでの一件もオーロラを見たことも、その間の狂騒も、もう君にはわかっているはずだ。言うまでもなく僕たちは社交ダンス大会を催し、春間パン工場との再会も上空五千メートルで果たした。恵とヒロミちゃんと三人で映画にも行って「こうしていると家族みたいだね」なんてありきたりなやりとりもあった。サハラ砂漠ではあの軍人たちと再び遭遇し、今度はビリヤードで勝負した。実は管理人がゲイであることを告白する場面もあったし、南米のジャングルで負傷したエナメル氏が「獣姦も嫌いでは云々」と呟いたこともあった。1と2は相変わらず仲がよく、アメリカではゲイ協会への参加を求められて断るのに手間取っていた。

 そう言う遣り取り全部、もういいだろう?あとはきみの問題だ。きみがあいりん的小娘を見つけることが出来るか否か、悪いが、僕は、興味ないんだな。

 

(「あいりん的小娘石神井東ノ角入ル(仮)」に続く)

 

 

 

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