■ アップル・ピー / 鈴原 順 ■

 

 

 

 

 

「い、痛いじゃないのお」玉江の声がおれのこめかみの辺りで爆発し、ただでさえ高感度なおれの耳は素直にこれを受信したものだからたまらない。漫画のようにおれは目を白黒させた。驚きのあまり、あやうく玉江のまん丸な乳首を噛み切ってしまうところだった。

「あたしの乳首返してよお」おれはどきりとして口内を舌頭で確認したが、肉片はない。若干、鉄の味がするだけだ。玉枝の胸を見ると、そこには僅かに血に濡れた桃色の乳首が乗っかっていた。おれは、正直言って、ほっとした。しかしそんな様子は露にも見せず、静かに言った。

「そこに付いているじゃないか」僕は一瞬間を置いて言った。「所定の位置に、さ」言ってからすぐに、しまったと思った。相手が冷静さを欠けば欠くほどに、僕は冷静になっていくのだった。そして僕は慌てふためく相手に対して、極めて冷静に言葉してしまうのだ。当然相手はかっとする。僕の悪い性格だった。

「知ってるのよ、あたし」案の定、玉江はヒステリックに喚いた。「あなた食人願望があるんでしょ。そうなんでしょ」

「そりゃあどういうことだい」

 掠れる声でそういうことが精一杯だった。僕は耳の痛みを一瞬に忘却してしまうほどの衝撃を受けていたのだ。それは級友に「おっぱい小僧。おっぱい小僧」と、戦前のエロティシズムを髣髴とさせるようなあだ名で囃し立てられて以来の感覚だった。あまりに多くのことが一度に喚起させるために頭が処理不能になったのだろう、すっと身体から何かが抜けて下っ腹が冷えていくような、そんな感じ。頭ってばかだなってことがよくわかる。

「おっぱい小僧」と囃されたのは小学二年生のときのことだったから、そう、もう十四年前のことだった。

 そう考えると、ぐんと懐かしさが僕に切迫してきた。

 思えば遠くへ来たもんだ、などという言葉が浮かぶ。

 本来ならば僕はこういったちょいとした情動とか心情をいじくりまわし、それに関連する記憶まで辿り、そうやってそれを堪能することが好きな性質なのだが、残念なことに今はそれどころではない。僕の快楽を無視して玉江は口を開いていた。だから嫌なんだ、ひとりじゃないって。

「私知ってるんだからね」玉枝は叫んだ。気のせいか(気のせいに決まっている)彼女の唇がぐいと厚みを増したようだ。「あなたの肉食願望のこと。全部お母さまがお聞かせ下さったわ。あの子は食人願望があるから、特にセックスのときには気をつけるのねって。ご親切にお母さま、婚約した日に教えて下さったのよ。あなた、幼稚園のときに偶然お父さまとお母さまがセックスで同時にいかれるところを見てから食人願望を抱くようになったそうね。お父さまがお母さまを食べている、そんなふうに思ったんでしょ。あるいは逆かしら。ううん、でもやっぱり、それがどんな場面にしろ、マザコンの気のあるあなたにはお母さまが食べられるように映るんでしょうね。

小学生の時には図画の時間、食人の絵を描いたそうじゃない。『syokujin-hyakusyu』とか題して。小学生の癖にローマ字表記なんて小洒落た真似をしちゃってさ。その絵ときたら目玉の串焼きに始まって、大腿部のお狩り場焼き、脳のブラッド煮、膀胱の肉詰め、脾臓のはさみ揚げって具合で、そりゃあ食人にご執心だったそうね。あたしも拝見したいものだわ、その食肉尽くしを。おほほ」狂騒的になっていく玉江。そんな人間味溢れる姿に僕は思わず口元がほころびそうになるのを必死に押さえ、顔を俯かせた。誰だって火に油注がれたい。最早僕は傍観者にして優秀な演技者だった。

 玉江は僕の姿に力を得て早口になる。今度は唇が赤みを増したようだった。ははあと僕は納得する。そりゃあ唇は厚く、赤くなるよね。だってコミュニケーションって奴は喰ったり喰われたりの世界だもんね。

 またもや玉江は僕の思いを無視し、喋りだした。

 聞きながら思う。それにしても、こんな風に事象の端々に感慨を覚えるような生き方、僕固有のものなのだろうか。どうも玉江をはじめ他の人を見ていると、さも過去も将来もない、現在眼前で進行している物語だけに没入しているように見える。それとも生きる術として、そういう風になったのかな。だとしたらそれって成長だよね。ああ、成長なんかしたくないな。

「同じく小学生のときに、お母さまの乳首を噛み切ったこともあったそうね。っていうかそもそも小学生になって母乳を飲んでいたなんて、しかも妹の母乳を横取りするなんて、そりゃあ『おっぱい小僧』って虐められもするわね。くすり。このおっぱい小僧。乳首を噛み切られ悶絶するお母さまを傍目に、あなた、乳首を咀嚼したそうね。味わい尽くすように。くしゃりくしゃりって。で、どうだったの、そのお味は。お肉の味に混ざってほんのりミルキーな風味でも楽しめたかしら。

 うふふ。あたしね、他にも色々と知っているのよ、あなたの食人にまつわる奇行をね。もろ、もろ、もろ、と」

 もろ、もろ、もろ、じゃないよ、と僕はぼんやりと考えていた。玉江の言葉は表象を失い、音楽のようだ。いちいち感慨に浸る僕は多弁が苦手だ。

 いつしか僕は、他者とまともなコミュニケーションできなくなるのを覚悟の上で、言葉を音楽として知覚するようになっていった。それは思惑通り僕を切なくこそすれど、保身した。誤算があったとすれば、以前に比して僕が人気者になったということだよ。でも考えてみれば、それって必然だった。誰だって頭をなでなでされたいだけのことだろう。もし僕が評論家だったらそれは訓戒の対象だったのかもしれないが、幸福なことに僕はそうではない。

「だから」とそれまで次第に和やかになっていた声色を玉江は再び張り上げた。「さっきもあたしの乳首、食べようとしたんでしょう。だったら」

 そして懇願した。「早く食べてよ、あたしのお豆」

 

 

 

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