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 M A I L ? M A G A Z I N E  V O L . 2

『肺』 
        第2号

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   C O N T E N T S :

 「DERRIER LE MIROIR」(2):シナリオ:秋元悠輔

 「目を潰した王さまの話」:(2):童話:鈴原順(完結)

 「地に人、マッタの託宣――ロベルト・マッタの版画」(1):美術評論:緩瀬洋一

 「書物鑑」(2):翻訳:ヴァレリー著/緩瀬洋一・鈴木清一郎訳

 「編集後記」:秋元悠輔

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             DERRIER LE MIROIR 2
             秋元悠輔


●カット:真っ白い部屋にはいつになく賑わいを見せている。件の所蔵品展が開催されたらしい。といってもその光景はとても虚ろだ。絵画に食い入る人。ワインをきこしめして、椅子に寄り掛かる者。子供を連れ込んで話をする者。それを、部屋の中心を時計回りにトラベリング・ショット。絵画を見ることは愉しむこととは意味が違う。そしてそれらの群像がバルチュスの「大通り」のオーヴァーラップを重なって静止する。

インサート:客「外は陰惨だ。つねに夜との同居を強いられる。《夜の画家》とはよく言ったもんだ・・・・・・。だが夜を描く画家は陰惨ではない。」

カット:二人の客。そして画廊主。客はなにか額縁に掛けられた肖像を見ている。ズーム。すると実はそれは鏡。男、おもむろに振り向く。もう一人の客と画廊主に話を振る。

インサート:客「ムーランルージュを描く画家?」
客「違う。そこは夜であっても昼に近い」
客「恋愛をも考えています。女と男。名前?それは関係のないことですか」
客「名前もまた夜を考えている」
客「夜とは名前ではなかったか?」
客「『そら鵺が飛んだ!秘密も飛ぶのか?』」
(やや間をおいて)
客「夜とは秘密のことです」

カット:鏡の前で講垂れる男、男はライティングによって、顔の半々がうまく陰影をかたどっている。そしてその鏡に映りこんだ男の背中。そこに、またマグリットの「自画像」がオーヴァーラップ。男と鏡のショットがズーム・アウトしつつ、鏡を頂点にして三角形を形づくる封にして底辺右側に男と画廊主、そして底辺左側に女とその友人がいる。そしてそのショットもズーム・アウトしつつ、女たちのその顔は例によってライティングによる、くっきりとした陰影を刻み込んでいる。

インサート:女「『盲目は愛によってのみなしうるを措くあたわず』とはアルトーもよく言ったものね」
その友人「戦禍というやつよ」
女「きな臭いものね」
(ここでインサートのバックが、黒からベルメールの写真〔S/M,p.93〕にオーヴァーラップする)
その友人「弾丸を頭に受けたそうよ。二年もヴァル・ド・グラスに入りびたりで。あれじゃむしろサナトリウム行きだけど。あれはどこだったかしら・・・・・・カールスルゥーユ? そうね。酷い場所でね、死体の山、《死体派》というのかしら、俗にね。山も森も川も死体だったわ。前哨隊、白兵、塹壕、土嚢。墓にも掃射はつづいて、二度殺される。夜ももちろん殺されるわ。南の方はもっとひどいのよ。放射能で、人が猫だったり虫だったり・・・・・・アポリネールがこんなことを言っているわ、『太陽、その刎ねられた首』。あの人も頭に一発もらったわけだし。とにかく娼館街からスラムから屠殺城から、ランスからジャコブからサン=クルーから、あらゆるところから血が流れたわ。」
女「『死んだ真似をしなきゃ、殺られちまうぞ!』」

カット:女の笑っている顔。その笑いは大上段に構えた大笑いというよりは、どこか斜め横にとらえて、ブラック・ジョークを愉しむといった感じ。ここで、二人の女の手から手にコクトーの「詐欺師トマ」が手渡される。女、それを繙く、が、やはりそこにはなにも書かれてはいない。

インサート:その友人「『だが彼にあっては、架空と現実は二にして一であった』」
女「じゃあ、あの人死んでいるのね」
その友人「亡霊だわ、絵のね」
女「だから夜ばかり語るのね」

●カット:女、その友人と、画廊内の隅で一杯呑んでいる。どうやらもう画廊は閉めたようだ。なぜかさきほどの鏡が嵌めこまれた絵画は黒く塗りつぶされている。それはまるで夜のようだ。そのすぐ横では、男と、酔いつぶれたのか項垂れたままでいる戦争帰りの客と、女たちとは距離をおいて呑んでいる。(キャメラはそれを先に撮りつつ、やがてダウンして、女たちを撮る。)女、男、両翼のうち、前者はなんとも愉しそうに呑んでいる。いっぽうは悲劇的な様相をうかがわせている(その雰囲気はライティングの効果を計りたい)。

インサート:女「アポリネール、刎ねられた太陽」
その友人「じゃあ、あたしたちは刎頚の友、というわけね」
(間)
女「ミラボー橋の下 セーヌの流れる」
その友人「わたしたちの恋の流れる」
女「せめてにと想うのは」
その友人「悩めるのちの喜びの逢着」
女「夜よ来い 鐘よ響け」
その友人「日々は過ぎ去り私はとり残され」
女「手に手を取り合って向かい合って」
その友人「こうしていると」
女「わたしたちの腕の橋の下」
その友人「つかれた波濤の永久のまなざしが過ぎ去る」
女「夜よ来い 鐘よ響け」
その友人「日々は過ぎ去り私はとり残され」
女「恋は過ぎ去る この流れる水のように」
その友人「恋は過ぎ去る」
女「なんと人生の歩みはのろく」
その友人「何と希望は激しいのだろう」
女「夜よ来い 鐘よ響け」
その友人「日々は過ぎ去り私はとり残され」
女「日々は過ぎ去りいくえもの週もまた」
その友人「過ぎ去りし日々も」
女「くさぐさの恋も戻ってはこず」
その友人「ミラボー橋の下 セーヌの流れる」
女「夜は来い 鐘は鳴れ」
その友人「日々は過ぎ去りわたしはとり残され」
(以上はアポリネール「ミラボー橋」からの引用)

カット:俄づくりの机の上にアポリネールの詩集がおかれ、その上に腕が重なり合っている。その腕は猥褻な動作で絡み合っている。ちょうど「わたしたちの腕の橋」のくだりに沿うような形で。ワイングラスはその腕の下で、倒れ、中身は零れている。詩集は汚れている。なにやらほかの菓子類なども散乱し、まるでセーヌ川の汚らしい光景を諷刺した風でもある。その光景から上へとキャメラは登っていき、女たちがなにか符丁をあわせるかのような、あるいは共謀を結ぶかのような、視線を撮る。そこにゆるゆるとたおやぐような川の蜒りのシーンがオーヴァーラップ。そこに女、やおらグラスを掴むや、そこにわずかに残っている中身をカメラ(あるいは川)に向かって、投げつける。

インサート:女「私たち、共犯ね。」

カット:キャメラは黒塗りにされた額縁と、客、男――この三つを並列させて、フレームにとどめる。客、まだ酔いつぶれている。男、煙草をくゆらせながら、しどけなく傍観。突っ伏していた男がふと何かを思い出したように顔をやおら上げる。

インサート:客「セーヌ川の底には黄金がある」
男「錆びついた船がある」
客「宝石がある」
男「戦の武器がある」
客「セーヌ河の底には、死体がある」
男「セーヌ川の底には、涙がある」
(以上はモーリス・マーグル「セーヌ川哀愁歌」)

カット:客、男から煙草をねだる。男、煙草を渡す。客、それに火をつけ、一服。

インサート:客「男と女の関係は不毛だ。その関係が生まれた途端、時間はそこに百年の孤独を強いる。時間は報復者の右腕。国もまた孤独なものだ。なにも国だけが犠牲を蒙ったわけではないし、時間だけが一方的な悪人というわけではない。私が弾丸を受けたとき、それを私は犠牲者と見なしうる証拠立てと思うことはしなかったし、そこに孤独が襲ってきたという自覚もない。クービンの『首吊りの木』を知っているか?あの木は報復者だったか?それとも孤独なものだったか?絵画、それを記録すること、記録すべき事柄を記録すること、エクリチュールをこえて、シーニュの姿のままに、光速で伝達すること、伝達不可能なものを、音さえもこえて、伝えること。・・・・・・弾丸のように。」

カット:男の顔、それはなんともいえず困惑しているような表情をかもし。

●カット:男と女、椅子やらグラスやらを片付けている。どうやら、所蔵品展が終わったもよう。女、額縁から絵をとりだして、カルトンにおさめ、しまう。ふと、そのガラスケースを外した額縁をもちだして、男を眺める。男は立ち上がる。それはかつてのマグリットの肖像そっくりである。そして振り向く。キャメラは女の滑稽な姿を写す。

インサート:女「ミロよ」
男「ミロだ」
女「そうよ」
女「わたし、ミロよ」
男「じゃあ、ぼくはマグリットだ」
女「ちがうわ!」

カット:女、なぜか憤慨する。男、ひるむ。

インサート:女「あなた、だれ?」

カット:男、アップ。とても困惑している。そしてやがて、憤懣やるかたないといった表情に。しかし、なにも言い返そうとはせず、立ち去る。女、額を振り下ろし、破壊。そのショットはとても象徴的でありたい。破壊された額。


(以下、次号)


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目を潰した王さまの話 2 (完結)
鈴原順


 そして準一はその日のうちに正式に王さまとなり、猛然と働き始めました。まず準一はさして広くない領土を歩き、国民に挨拶して回ることにしました。
「こんにちは。今日から王になった準一です。よろしく。何かあったら遠慮なく言ってくださいね。みんなの為に頑張りますから。」
 はじめは王さまに気軽にものを頼んだり出来ないと言っていた国民ですが、準一が心から役に立ちたいと願っていることを知ると、それではと沢山の人々が準一に頼みごとをしました。仕事は山とありました。あらゆるところで人々は困っています。
 川岸の柵を取り付けて欲しいという要望が早速出ました。目の見えない人々がこれまでに誤って五人も川に落ちているのです。準一はすぐさま大工道具を持って駆けつけました。
農民からは作物の色を毎日教えて欲しいと頼まれました。彼らは長年の経験から作物の色で水や堆肥の加減を調節しているのです。準一は言葉巧みに彼らに作物の色を伝えました。
加治屋さんからは目が見えないので誤って金槌で指を潰してしまう、とはいえ恐る恐る力を弱めてしまっては仕事にならない、どうにかして欲しいという意見が寄せられました。そこで準一は鉄で出来た指抜きをつくりました。これを嵌めていれば例え誤って振り下ろしてしまっても、怪我の心配はありません。
お医者さんからは薬棚のどの引き出しにどの薬が入っているのかがわからない、これでは間違った薬を処方してしまい大変なことになってしまうが何とかできないだろうかと相談されました。準一は考えた末に加治屋さんと協力して立体の文字をつくりました。そしてこれを引き出しに貼り付けます。こうすれば文字を手で触れることによってどの引き出しにどの薬が入っているのか一目瞭然です。
また狩人からは目が見えなくては山を歩けないし狙いもつけられない、下手をすれば人を撃ってしまうという話しがありました。どうしたものかと準一は悩みましたがこれだけはどうしようもありません。狩人たちに他の仕事を紹介し、準一が狩りに出ることにしました。
農場からも要請がありました。家畜の出産を手伝って欲しいというのです。普段の仕事はなんとかこなしていた彼らですが、さすがにデリケートな出産は難しいのです。準一は農場の人と協力して、無事元気な赤ちゃん牛を取り出しました。
あるいは近衛兵からも頼み事をされました。彼らは言います。われわれはこの国を守るべく鉄砲を持っているのですが、目が見えなくなってしまってはどうしようもありません。万が一、敵が攻めてきたり、山から野獣が現れたりしてもわれわれは何も出来ないのです。近衛兵の隊長は不甲斐ないと言って、涙を浮かべていました。そこで準一は城壁の周りや山の周囲に呼子を張り巡らせました。こうすれば侵入者にすぐに気づくことが出来ます。完全とはいえませんが、あとは近衛兵を盲目でも俊敏に動けるように訓練するしかありません。
準一は国民の多くの頼みごとを誠実に確実にこなしていきましたが、その一方で国王としての仕事も疎かにしていません。税金を集めたり、不正を取り締まったりします。盲目の生活に慣れないみんなは、それまでだったら笑って済ませていたようなちょっとした行き違いでも、大事になってしまうのです。その度に準一は仲裁に入りました。
また重要な仕事といえば外交を忘れてはいけません。この国には海がないので、海に面した隣国と活発に貿易をしていました。塩や海藻といった海のものを食べずに人間は生きていくことは出来ませんし、また鮑や海胆は国民の好物でもありました。また近衛兵が盲目になってしまい国の防衛が上手く出来ないのですから、周りの国々と仲良くしておいたほうがいいでしょう。何かあったときには助けてもらわなければならないのです。準一は隣国へ出向いたり、隣国の王さまを招いたりして、いい関係を守り続けました。
準一の釈迦力の頑張りに応じて国は徐々に活気を取り戻してきていました。もちろん盲目のままですから、まだまだ不便も多く、そのちょっとしたことに、また自分たちの身の上に起きた不幸を嘆き悲しむこともあります。しかし生活は着実に改善されているのです。彼らは盲目の中で生きていくことを受け入れ始めたように準一には思えました。
そんなある晩、準一が寝室でうとうとしていると、ドアをノックする者がいます。それは今は隠居しているヤラベ翁でした。
「どうしました。何かお手伝いしましょうか」
 準一は疲れているのを悟られないように明るく言いました。しかしそれに反してヤラベ翁は、暗い声で重々しく言いました。
「準一くん。身体の具合が悪いんじゃないかね」
 準一は突然の質問にぎくりとしました。実はヤラメ翁の言うとおり、準一の体調は非常に悪いのでした。毎日毎日働き続け、余りに忙しくって食事さえ満足に取れていないのです。睡眠時間も僅かに三時間という日が続いています。
しかし準一はそれを認めるわけにはいかないと思いました。自分の体調に構っている暇はないのです。まだまだ国民は多くの場面で準一を必要としています。「そんなことないですよ」
「そうかね」その言葉とは裏腹にヤラベ翁は準一の言葉が嘘であることを見抜いているようです。「それならいいがね」短い沈黙が流れました。
 そしてヤラベ翁が言いました。
「君は何をむきになっているんだね」
「むきになってなどいませんよ。私はただみんなの役に立ちたいのです」
 準一の本音でした。
「それならいいが。どうも私には君が無理をしているように見えるんだよ。そして準一くん。もしそれが私たち盲目の者を哀れんでいるからだとしたらそれはお門違いだぞ、準一くん」
 ヤラベ翁は準一の返事を待たずに部屋から出て行ってしまいました。
 思わぬヤラベ翁の言葉に準一は呆然となりました。自分が全盲のみんなを哀れんでいるなどということは、考えたこともないのでした。しかし言われて見るとそうなのかもしれないと準一は思いました。自分がこれほどまでに頑張っているのは盲目のみんなを可哀想だと思ってのことなのかもしれません。だがそれは間違っているのではないだろうか。
ヤラベ翁の言葉が頭をよぎります。
「もしそれが私たち盲目の者を哀れんでいるからだとしたらそれはお門違いだぞ」
 準一はこれまでずっとみんなを哀れんできたのでしょうか。そして健常者の自分が障害者を助けなきゃと、我武者羅になっていたのではないでしょうか。
考えているうちに準一は自分がどうしようもなく汚く思えてきました。準一は無意識のうちに自分以外のみんなを哀れんでいたのです。準一の顔がさっと青ざめます。哀れんでいるというのは、相手を見下しているということです。準一はこれまでの自分を顧みて、なんて傲慢な姿勢だったのだろうかと思います。
準一はこれまで自分がみんなの役にたっていると確信していました。盲目のみんなはどこも悪くない自分を必要としていると。でも、もしかしたらそれも間違えなのかもしれません。助けられていたのは、実は、準一の方だったのではないでしょうか。自分が正しいことをしているという思いはなかなか愉快なものなのです。
これまで自分はみんなを助ける立場にいると考えていました。だからこそ頑張ってきたのです。しかしそれは間違えなのではないでしょうか。盲目の人間は盲目だからという理由だけで、盲目でない人間に手助けされなければ生きていけないのでしょうか。準一は間違っていたのでしょうか。
いやそんなことないぞと、準一はかぶりを振りました。準一が来るまでこの国はどうしようもなく荒んでいたのです。しかし準一はそれを救ったではありませんか。やはり盲目の国民には健常者である準一が必要なのです。
しかしそう考えている傍から、別の考えが浮かんできます。準一が来なければ、本当にみんなはどうしようもなかったのでしょうか。もしかしたら彼らは準一がいなければいないで、自分たちでなんとかしたのではないでしょうか。お互いに手を取り合ったのではないでしょうか。彼らはただ目が見えないというだけなのです。決して愚かな人間なのではありません。だからいつまでもこの国が絶望したままであったとは考えられないのです。しかしと準一は考えます。自分が来たせいで彼らがもともと持っていた自立のエネルギーが殺がれてしまったのではないでしょうか。だとしたら。準一は苦いものがこみ上げてくるのを感じました。準一は彼らの足をちょんぎってしまってのではないでしょうか。
 でも、そうだとしたら、どうしたらいいのだろうと準一は考えます。自分は今、どうすべきなのだろう。
方法はひとつしかないと準一は思いました。いくら考えてみても、それ以上の答えは思いつきません。準一は決意しました。準一は引き出しの中からナイフを取り出しました。それは見ているだけで恐ろしくなるような、先の鋭いぎらぎら光っているナイフです。準一はそれを手にすると、ためらうことなく右目に突き刺しました。ぷつんと目玉にナイフが吸い込まれていきます。準一は激しい痛みを覚えますが、途中でやめることなく、また悲鳴をあげることもなくナイフを根元まで突き立てました。そして引き抜いたナイフを、今度は左目に押し込みます。やはりぷつりという手ごたえがしますが、今度は痛みは感じません。準一はナイフを抜くとすぐさま目に薬を塗りつけました。細菌が入るのを防ぐ薬です。そして包帯を巻きます。お医者さんが例の立体の文字に慣れるまで準一はお医者さんの助手を務めていたことがあります。だからその手つきは慣れたものです。
 こうしておけば細菌も入らず、血もじきに止まるはずです。そして数日すればみんなと変わらない盲目になれるのです。準一は満足でした。これまでの誰かに追い詰められているような焦りが消えていくのがわかりました。これで自分ははじめて本当の王になれると思いました。
 こうして準一は盲目の王さまとなったのです。
 このお話はここで終わりです。
それではみなさん、さようなら。


(了)


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  地に人、マッタの神話――ロベルト・マッタの版画 1
                    緩瀬洋一


《目を閉じてものを見ること》・・・・・・暗黒の沈思の世界で明滅する光線、それは原風景にたちこめる光の粒子、それをほとんど非確率論的な自由さで掴みとり、それが描き上げる軌道、現実やそこにいたるまでの歴史の、直截な、或いは歪んだ個人的思い出・・・・・・それらが縦横無尽にそれを見ようとする欲望という名の鏡の地獄を、さらに突き破ってみせ・まじわらせる、その一点、現実と超現実とのはざまの一点はかような欲望のまなざしで潤色される・・・・・・。



ロベルト・マッタの絵画は未来的であり原初的である、こう端的に述べて私は臆することがない。とくに初期のものは、ときにはこうした曲線と直線の収斂が、一種機械化時代の終末地点のそれであるかのような幾何学的未来世界を描いてみせ、不毛で澱んだ、青や灰、焦茶や黒の背景の下で、主軸をうしなって所在なげに宙吊りにされ、その余白をただ不穏に管理しようとしているかのようである。――たとえば或る一枚・・・・・・
まるでそうした余白、沈思という意識の鏡にうつる二次元の世界――ただしそれはけっして薄っぺらな現実をのみうつしだすものではない――を、欲望によって陶冶しようとするがごとく、うつろに中心を切り裂くように太く刻み込まれた軸。それをめぐって同心円をえがく球体や、その輪郭さえも知覚しえない動体、さらにその変動線、だが、あえて進言させていただければ、その変動線はいうまでもなく、画家がそれを捉えようとしたからうまれたもので、現実にはその軌道が光の粒子を綿密に組織してたちあらわれるわけではない。まさに《不在の中心としての恒星を巡る衛星郡》(ブルトン)のようだ。そしてその軌道上にそれさえも支配しようとする無数の鏡のような平面が、平行励起し明滅している・・・・・・。一九六二年刊行された銅版画集『意味ありげな言葉のごとく』COME DETTA DENTRO VO SIGNIFICAND,Lausanne Editions Meyerを見よ。さようのとおりマッタには銅版画がこの上もなくよく似合う。そしてさらに十年の歳月をへて上梓されることとなる『解放された右の腕』DROITES LIBEREES,segherth,1971に至るまで、その背景はつねに平坦で、虚無的だ。奥行きのない、どんよりと澱み、あまつさえ腐蝕しかねない、時間さえ凍結した、絶対零度の想い出、そのまなざしの彼方で化石化し形骸化した現実・・・・・・幼年時代のとりどりの品が無尽蔵に集積し、増殖する氾濫の過去とその合わせ鏡の未来。
マッタに曰く、「私は幼少時代の時に、画家が往々にしてそうであるような、絵画に対する飽くなき追及を、ついになさなかった」と。まさに《目を閉じて》ものを思い描いた少年。「私はこの絵が自分のものだということも、或いはそれを自分が制作していることさえも、感じてはいない」・・・・・・或いはこうとまで託宣するマッタのうちには、けだし作品の完了とともに画家とその作品が完全に別個のものとして、ひとつの世界の終焉と完了をみることへの、ダダっ子のような? 否定があるに間違いあるまい。作品と画家、虚偽と超現実の邂逅と訣別のたえざる相姦めいた因果。「仮に私が嘗て生きていたというのなら、おそらく今は小説の中の登場人物になっていよう」。
また一つの興味深い断章をご披露さしあげたい。マッタは、自身によれば、その文学的モチーフにかんしてはレーモン・ルーセルによって決定的啓示を受けたを語っている。「私が画家としてではなく、寧ろレーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』のように、生の地図と世界の地図を探し求めていることは自明の理だ」。この『ロクス・ソルス』、『アフリカの印象』の画家、機械崇拝の狂信者。その『ロクス・ソルス』の芝居を観劇した、矍鑠謹言のカトリック、フランソワ・モーリャックの周章狼狽ぶりがうかがえる一文で語られた世界ほど、マッタ以外にあてはまるものなどいようか。「犢の肺臓でできた鉄道線路、オルセット鯨骨でつくられた車輛、軍服の飾り紐の中に息を吹き込んで喘息もちの参謀将校を治療する場面など・・・・・・そしてここには不条理の中に一種陰鬱な熱狂がひそんでおり、それにたいして私は完全に無感覚ではいられなかったことを告白いたしたい」。こうしたミシェル・カリュージュによれば――かのマルセル・デュシャンの未完の大作になぞらえて――《独身者の機械》とも喩えられうる脱自然脱性交の幼児性の具象化が、のちにマッタによってきわめて壮麗で大掛かりな倒錯の人工楽園を創世する経緯は、今断言するのは控えるものの、きわめて示唆的なものをルーセルによってえていることは明白だ。たとえばルーセルが『アフリカの印象』の原形である短篇「黒人の中で」にて、billard(撞球台)とpillard(盗賊)という一文字のデペイズマンによって「古びた撞球台のクッションに書かれた白墨の文字」「老盗賊の一味にかんする白人からの手紙Le letters du blanc sur les bandes du vieux billard Le letters du blanc sur les bandes du vieux pillard」という二文を作り上げ、それを始点と終点とする一つの作品を描くこと、恐るべき速度でもって既成の概念から隠喩と換喩を抽出し構成すること、すなわちオートマティスム自動筆記の方法をマッタはルーセルから受け継いでいる。



なかにはマッタのタブロー郡のなかにイヴ・タンギーのそれを想起する向きもあろう。だが、タンギーのそれが、たとえばアンドレ・ブルトンのいったような「羽毛の球と鉛の玉が同じ重さになり、すべてのものが飛び立つこともできれば潜ることもでき、また衝突もなしに、正反対のものがぶつかり合う」、静謐に包まれながらも、はげしい混沌と生成のあわいで揺曳する、たえざる変態の磁場であるとすれば、マッタのそれは時間をめぐる合わせ鏡の《平坦な迷宮》、思索の軌跡の場にも喩えられよう。だいいちタンギーのそれは、地平線さえ描ききれぬ広大な肥沃と頽廃とをあわせもつ砂丘や海底の上で、《すべてのもの》の原初形があくまで輪郭をとどめたままでゆるゆらとたゆたっているのにたいし、マッタのそれは時間停止の世界で運動体そのものがうつろに中心を埋めている。
或いはミロ。だが、彼のタブローには、マッタのたえざる軌跡のそれとは一線を劃す、女や月、星、鳥などふんだんに盛りこんだ、大地への賛歌、スペイン風のたおやかな・暖かい寓話が愉しげに描かれていて、やはりマッタとはまた違った魅力をもって息づいている。「単純さから複雑さへの、装飾のなさから過多(ほとんど、塗り重ねられた落書きからプリンプセスト〔すでに書かれた文字を消してその上に新たな文字を書いた羊皮紙〕のような)への、日常的なものから幻惑的なものへのたえざるゆりかえし」を描く、ミロがそこにいるばかりだ。このすぐあとに登場をひかえているマッソンに対する、もうひとつのミシェル・レリスの言葉――「ミロは、寓話の作り手であって、たとえばアンドレ・マッソンのような神話の作り手ではない。彼は私たちを、「昔々あるところに・・・・・・」とか「動物達が口をきいていた時代に・・・・・・」ではじまる、おば馬の熱心な愛好家だった」。
「わたくしたちは宇宙の中に存在している。芸術を通じて自分がどこに存在しているのか知らしめようと」画策するマッタ。だがここでいう《宇宙》とは時間や温度の凝結し、その埒外に追放された、或いは解放された超現実にほかならない。



だが、やがてそうした物質の軌跡としての曲線を輪郭として、或いは沈思の宇宙にただよう塵や滓のあまたのなかで柔らかい色彩がほのめきたち、あからめつつ、脈々と時間と歴史を紡ぐ生命体となって、記憶の化石のなかで、見え隠れしはじめる。一九七〇年代のころだ。たとえば『解放された右の腕』翌年の版画集『解放された言の葉』MOTS DESSERRE‐FREINS,Editions Georges Visat,1972や七四年の『中心の結び目』CENTRE NOEUD, Alexander Kahan,Georges Visat,1974をご覧になるといい。それは太古の三葉虫時代に凝固し化石化した樹液――すなわち琥珀の中に閉じ込められている小さな羽虫のように凝固し、そしてそれは現実と超現実のあわいに生じた亀裂や断層、罅をまるで鏡面効果の相乗を狙っているかのごとく、その姿態を無数に、きらびやかに、とりどりのタブローに、反復させはじめる――ナスカの地上絵のように、あるいはラスコーの壁画のごとく、といっては言い過ぎになろうか。
かのミシェル・レリスがアンドレ・マッソンへのオマージュを草したおりに、かれの絵画を前に《グラフィト》、すなわちグラフィック落書絵のように、岩の壁面に稚拙なまでに――それゆえに真摯さをます――原始人たちが刻みつけ、その一条の傷痕、彫りこまれた血脈に血をそそぐように彩具をほどこす、かの壁画を垣間見たように、マッタもまた、そうした――むしろウィフレート・ラムのような、原初世界を紡ぎあげていく。原初世界の創世、神話。「おそらくは線ligneというよりは系譜lignee」の画家、マッソン。先ほどのレリスのみごとな言葉のあまたを念頭におきつつ、もう一つ彼がマッソンに捧げたオマージュを引こう。「稜線lingnes de faite/砲列線/力線/たしかに水平線や分水線はない/地口はいっさい抜きにして/境界線や国境になるくらいなら、ほかのなんにでも――神経、動脈、血管、アンテナ、波、繊維、轍、動脈――になるであろう線」。これがマッタにはあてはまらないと誰がいいえようか。


(以下、次号)

※尚、この評論は公式HP内「肺々」欄にて全原稿を先行掲載してあります。ぜひともご高覧下さい。

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           書物鑑 2
               ヴァレリー著/緩瀬洋一・鈴木清一郎飜訳


純白の紙

白は、たとえば蝿を靡いて、おびきよせ、狂喜狂乱させる。あまつさえそこでかれらはそのちいさな手でなにかを書こうとしてみせる・・・・・・。
白はまた、かの幾千のちいさなエスプリ精らさえも懊悩させる――そしてその幾千のかれらこそ、それらいちれんの騒擾と結合、さらに闘争によってエスプリ精神というものをつむ纂ぎあげているのだ。
絶対の純粋はかれらをいらだたせる。わたしたちの目を介してなにひとつかかれていない純白の紙をみるや、かれらは世界が永続的であるかぎり大成はもはや己が掌中にあったも同然とさえ自負するさまざまなものにとってかっこうのねじろ牙城ともいえるこの無垢の砂礫を、自分たちの結合、たわむれ遊戯、うたげ宴で満たしてやりたいと思わずにはいられない。
かれらはこれらを前途洋々なことがらだと自負しているが、その実それはこの砂礫を汚す破目にもなろう。
さらに忌憚なくいって、純白の紙はその純白さによって、なにものをも存在しないということほど美しいものはない、ということをわたしたちに告げているようなものなのだ。その白いひろがりの、あやかし妖の鏡の上に、魂は記号と線とをもちいて纂ぎうるとりどりの奇蹟のさまを、それを前にしてみいだすのだ。
不在のものの、この現前こそが、ペンによるかようなとりかえしのつかぬ行いを、烈しく刺戟するとともに麻痺させるわけだ。
ありとあらゆる美は、そのうちに触れることを許さぬ禁忌性を秘めており、そこから或る神聖なものがほとばしり、金縛りにし、今まさになにかをしようとしかねぬものを戒める。
だが終に手は英断する。そして、競技者が潔くその卓上の上にカードを擲つように、或いはチェス盤の上でピオン白歩兵の一手を打つように、人は、与えられた純粋さ、まごうことな全き可能性の領域にいさみいで、呪縛を解き放つ言葉や線をつづるのである。


書物の容姿

書物、この奇妙な存在は、開閉の如何によっていとも容易くその性質を、百八十度変貌させてしまう。
わたしたちがそれを繙こう、その途端書物はおもむろに語りかけてくる。そしてそれを畳む、すると書物は眼前には最早物以外のなにものでもなくなる。してみると、これほど人間に似たものもないともいえよう、何故というに人間とは一概には、一個のすがた容貌であり、色彩であるのだから。だからその声にわたしたちは胸打たれ、畢竟、その声に言霊が宿るや、わたしたちのそれと溶けこむのだ。
人間には容貌が、すなわち眼で見、肌で感ずる姿形があり、それは書物も然り。たとえば卑近なものがあったり、独創的なものや、醜いしろもの、なごむもの、退屈なもの、はたまた瀟洒なものもあるわけである。繙かれた刹那に弄されるその声とは、してみると頁のための紙、頁における版面、版面を形成する活字、そのほどよく稠密な、ほどよく調えられた活字が一躍収斂されたその容姿ではなかろうか? しかのみならず、書物の声は、すべての声がままそうであるように、屡々人々をあざむくこともあろう。すなわち読書行為が開始され、版面の内に込められた精神が曝けだされるや、あの初めのころの薫陶がすっかり霧散するというわけである。

装幀家の職業とは、これすなわちかような閉ざされた書物の容姿の創造にある。装幀家はまず第一にその一個の書物がやがては負うこととなりうるくさぐさ種々のおもに負荷に耐えうるだけのつくり造形を、一つの肉体を受肉させねばならない。ゆえに装幀家の役目は明瞭に限定される、すなわち先述したような声や精神とは完全に一線を劃した機械的作業内に。してみるとどのような書物の装幀をしているのかさえ自覚せずとも、或いは文盲たれども、一個の書物の装幀にはなんら差し支えあるまい、いっぽう読者は、その効用性、堅牢さ、そして値段以外に鑑みることはあるまい。書物とはたんにのぞみ要求に応えるものであり、これについては、読者も創造主も斉しく異論はなかろう。だがこの時点では、視力と触覚は、二次的或いは平俗的役目をしか果たしていない。しかし乍らわたしたちの精神は、めいめい異なった命を授かり、異なった食指に導かれている。一端眼が自分自身にとっての書物という視座をもつや、装幀の芸術は、その職業的役目から解き放たれる。こうした段階をもってこその芸術なわけだ。

若かりしころ、一年以上ものあいだ装飾のことがわたしの心でその首を擡げていた。ありとあらゆるところから自然発生的に、まさに破竹の勢いで頭角をあらわす、このとりへだてて原始的な産出行為以上に、悩ましいものはない。雑草のごとく道具や器具、建築物に武器に衣裳にと、あらゆるものにはびこ蔓延り、風土や人柄によってそれは十人十色の貌をみせる。それは、あらゆる生命やものごとなど斉しく原始的で自然発生的な存在を象りたいと思う神秘的本能が、たとえば竪穴式住居爾来、わたしたちを、それら人や獣をみごとに描いてみせるようと駆りたてたという点で、ご納得いただけよう。
けだ蓋し、わたしたちの眼というものは、虚空や、まっさらな穹窿、いちめん真一色の平面をそぞろにぶらつくことにもどうやら耐えられぬとみえ、一点の曇りもないそこに、わたしたちの眼ざしがそうみえてほしいと思うものを顕現せしめんことを、いわば反作用的効果を、そのうちに秘めているようだ。これは普遍的現象であり、蓋し、これこそわれわれの感受性の一法則にも挙げられよう。独りぼっちで、なにもすることのない人は、そのやるせなき倦怠にあらがおうとする。想い出、歌、独り言、そしておそらくは哲学――これらは現実的目標にむけて実行にうつす要がないことのゆえん所産である。
しかしここにこそ驚愕すべき結合が生まれる。かような倦怠、閑暇、矢鱈にうつろいゆく時間が一方であのまっさらな穹窿であるとすれば、それは初めは単調な行為を孕むだろう。反復、或いはたんなる平行線、散在する点、それに伸びゆく唐草模様、――これらの総体がこれらを支えるものの外見を豹変させ、つつましやかなまでに同じモチーフの反復のみによっても、一種の充足感を狡猾にも導きえるだろう。さよう、冴えぬ風土、淡黄褐色や灰色の瓦礫の上に芽ばえた一株のちいさな苗が、はぐくみ、すみやかなサイクル循環運動で眺望をたちどころに一新させ、満たし、とりどりに、花やぎ、風にそよ戦ぐ、家畜群にとってすこやかな安住の地となりうるのだ。

《わたしたちの眼ざしがそうみえてほしいと思うもの・・・・・・》
これこそ装飾の純粋かつ簡潔な原理である。眼はなにも識らない。眼が色彩や光の粒子に作用するのにたいして、その睨下に物体や用途を識別するのは眼のそれではないからだ。それはさながら、耳について、異国の言の葉を弄され、それゆえその調べにのみ審美がいくばかりで、理解の是非を問う演説の意味に際しては、耳が無縁であるのと同様、はなから意味、作用、識別のいずれにかんしてもなんらその責務を負わない。かような無垢なるばあいから端をはっしてこそ、芸術とは創造をつかまつ仕り、我が鍾愛の品々をこの目に灼きつけたい、かような欲求により終ぞ己れの掌中にあるまごうことな全き一世界を見いだすことができるのだ――すなわちシンメトリー対称や、コントラスト対照、ヒエラルキー階位に顛倒、明暗、相似といった世界、たえずうちふるえつつ、己れのうちに凝結した宇宙。そのうちにおいて欲求は己れの欠乏を充たす。だがよしんば・・・・・・
ひととき一瞬の夢だけではことたりぬとのた宣もうのなら、こうした貪婪が充たされる否かについては、断言は控えさせていただきたい。だがいずれにせよ、その刹那にわたしたちの五感の餓えが癒されることはあるまい。わたしたちが歓喜と呼んで久しいこの奇妙な、神秘的な糧が、畢竟眼福となろうためにはまずもって行為が先に千余しなければならないからだ。原材料とわざ匠、力と抵抗が現実世界にたぐいまれな一物体、たぐいまれな一配置を作らしめんとこと沙汰を始めねばならない。それは現実的用途からはなれた、創造にたいする歓喜によってしかなしえない――なにごとも歓喜によってな成就しうるとしての話だが――物体乃至配置なのである。

芸術とは行為にある。だが例外的行為にそれは宿る。そして外的条件の如何によって芽の出るものとはいえない、あまつさえ喰っていく上での必要上によって、或いは有効性の云々によって。いわば無用ということにこそ積極的性質がみいだせよう。他方、芸術的行為は自由意志の如何にかかわることであり、それを凌いでこそ勝ちどき鬨をあげることができるのだ。畢竟、わたしは芸術家の意図乃至努力は副次の必要性と有効性、この創造にあると、その核心を突くために、敢えてここに託宣申し上げたい。すなわち第一に無用の用たること(或いはそれがなかろうが生きていく上でいかなる支障をもきたさぬ非―存在性)、第二に、天下一孤のものであると思わしめること、こうした感覚的物体、それをわれわれは美という。
以上のことがらと、それを躍起させんとつとめる創造的行為は、まずなにをおいても人間性と動物性とを二分する二つの神秘的特長であり、これらによって人間自身もまた、これを欲し、思い、創造しようとするか否かで二つの類型にも分けられよう。動物は奢侈贅沢なんぞに身を窶さぬ、遊びなんぞいわずもがな――動物のそれは本能と密接にかかわっているゆえ、ゆめゆめ過ちをまねくこともなく、また徒労や失敗をまねくこともない――だが、こうした筆禍は芸術という名の遊びに興じる人間には屡々おこりうるものである。芸術家は足を踏み外しやすく、それどころかなにごとかをおこなう人間のうちでも俄然あやま禍ちをまねく類型でさえある。あらゆる面でとらえどころがなく、挙句の果てには、いいしれぬ、成功というものがオートマティスム自動性という志しをその心から奪いさる。

とは言え、この志しは先述のことがらと相い容れねばならない。先のことをかいつまんでいえば、装飾とは、その五官が銘々虚空を前に自由に感応する、己れの潜在意識内特有の行為、その感受性の自発的所産であるといえよう。それは、とりどりの色彩の総体が矢継早にその補色となってひらかれてゆく、或いはまた殆んど知覚することさえままならぬほどの変容をたどってうつろいゆく、濃淡から濃淡へ、やがては色価から色価への、そのたおやぎにも喩えられよう。さよう、運動性の領域でもそれはじつに単調なリズム律動だ、だがそれはおしなべて自動性を有している。意思が反映されることはまずありえない。これらのかしら中心に鎮座する権威者は、はじめ己が手をわずらわせようとはしないのだ。人は気贐に想いを巡らし、無意識下にひそむテーマ主題をなんとはなしに口ずさみ、さしたる宛てもなく、とりどりの糸をつむ纂ぎあげる。そのさなか五官と行動器官とのあわいで容喙するものなどいはしない。ゆえにその行いのうちに停止もなければ停滞もない。もしなにがしかのおり、人がこの自由意志であるとともに機械的な――すなわち、その器官的機構においては、なんら束縛されていない――手すさ慰びの歴々を鑑みるや、己れの行いを内省し、一層の向上につとめんと胸にいだくこともありえよう。そしてここで芸術自体がはらむ諸問題が姿をあらわす。これらは相反する難儀な二範疇に峻別できよう。第一は、すべてが曖昧模糊とした企図にたいしての、精神の破棄不可能な自由にかんするもので、なんら必然性のない、いや寧ろ、刺戟された想像力が未知数に形成し変容した可能性がそこにある。第二に、現実的行動、そして物質的・慣習的条件がその枷にもなる束縛がある。


(以下、次号)


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     編集後記
                    秋元悠輔

遅ればせながら「肺」の第二号をお送りする。
さて、ご高覧いただければおわかりのとおり、本号の殆んどが連載作品の続稿で占められ、いささか片手落ちの感は否めない。だが拙作はともかくとしていずれも前号の内容・質にも比しうる粒揃いの内容であることは、まあ例によって評価のほうは読者がたに委ねさせていただくものの、編集としては自負している次第である。とりわけ吉川順の『目玉を潰した王さまの話』は小品ながらも吉川独特のレトリックで小気味よいつくりとなっており、たとえばこうした文学上の形式が、ややもすればありきたりな教訓を言って聞かす、いわばビルドゥングスロマンとしての退屈さを露呈して久しいもののそこはやはりといったところか、読者の期待を裏切らぬ展開とセンスで飽きのこない良品にしたてあげており、編集としてこの作品の完成を見たことは望外の喜びといえる。
だが編集面において悩ましきは、やはりメールマガジンという枠組みでの表現上の限界である。とりわけ緩瀬・鈴木の翻訳には全編夥しいルビが振られているが、そうした日本語への翻訳をおこなう上での、大上段な言い方をすれば「冥利」をいかほども表すことができていない。いちおうそのシステム上、ルビに相当する部分がその当てられた単語の前に付されてはいるが、やはり醜さの面でとりわけこの《書物》を巡る重要な論考を台無しにしている。それらは公式HPにて、DOCUMENTファイルによるダウンロードをおこなうことで品性質上のバックアップをする予定ではあるが、なんとも残念である。
なお、今後は、各執筆者らによる対談のほか、「肺」の前身である「風飛葉日」の諸作品の復刻も考えられており、その稚拙ながらも、いずれも荒削りであるがゆえに純粋なかたちとして浮き彫りとなっている、各執筆陣の《妙味》をご堪能いただければ幸いである。

また、「いさびの会」は現在、著しい財政難に直面している。こうしたことをさらけだすのは当方の趣味ではないが、読者各位にもぜひともご賛同いただけるようここにあえて進言申し上げたい。すなわち次号からは広告を載せさせていただくので、お手を煩わせぬ限りでかまわないので、ワン・クリックのほどよろしくお願いしたい。情けのない話であることは承知の上、恥を忍んでお願い申し上げる。


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○メールマガジン「肺」 第2号
・発行日:2004/07/15
 ・発行人兼編集人:秋元悠輔(「いさびの会」内「いさび出版部」内「電脳班」内編集部帰属)
 ・発行母体:いさびの会
 ・製作:いさびの会「いさびユビキタス」計画局「肺」製作委員会
 ・同委員会委員:清水隆弘、松島由峻、村上翼
?ご意見・ご質問・ご感想および投稿にかんするお問い合わせは → qisabi@yahoo.co.jp
 (※ 尚、このアドレスで直接扱いとなるものは「肺」の編集の前後にかかわることで、投稿作家の作品の性質に前後するものは、こちらのアドレスから作家へと通知されます。ご投函のおりにはその旨を明記してください。)
「いさびの会」公式HP→http://www.geocities.jp/qisabi/hyoushi.htm
・このメールは『まぐまぐ』を利用して発行しております。
  変更・解除は必ずご自分でお願いします(代理解除には対応しておりません)
  → http://www.mag2.com/m/0000133424.htm
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