「ジャパニーズ・CM・ライフ・2004」・一 ●●● 鈴原 順
第一回を書くに当たって私のCM観を述べる。 なによりもCMとは芸術である。ところが現在、あまりといえばあまりにCMのニッチは低い。小生、思わず落涙せずにはいられんわ。専門の雑誌やDVDが発行されているものの、重きが一部の者からしか置かれていないことは明らかであろう。 一般的にCMはトイレに行く時間だと思っているものが多いのではあるまいか。 無念なり。 さて、ここで繰り返す。そもそもCMとは芸術なのである。 人生に重大な影響を及ぼす小説や映画、音楽、料理などといった諸芸術と同等に扱われる対象であるのだ。CMは強いて言うのならば映画のカテゴリーに入るのかもしれない。しかし映画との相違点も多く、例えばCMには何らかのモノを視聴者に伝えるという義務が備わっている点が挙げられる。あるいは製作者はその企業や団体のイメージを損なわないようにと、映画制作者以上にモラル面も注意しなければならないし、その分量は日本において十五秒と三十秒が大半と極めて短い。 CMとはこのように過度なまでの制約を伴った芸術なのだ。 ところで賢明な読者諸兄は既に気がついているであろう、そう、過度な制約を伴った芸術といえば、我が国には俳句という一大文化があるのだ。五、七、五、という短さに加え、さらに季語を必要とするという点は、CMに通ずるものがある。 偏執的な精神と鋭い視線がそこには要求される。 長年に渡り俳句を愛好してきた我が国には芸術的CMを生み出す土壌が十分に備わっているのだ。ところが、嗚呼、ところが、諸氏、現状を直視せよ。だらだらと垂れ流されていくCM群、印象に残っているCMはと問われれば人気タレントやアニメのキャラクターが登場したものばかり。嗚呼、泣くに泣けないではありませんか。 (しつこいようだが、いいよね?)繰り返す。CMとは芸術なのである。 しかもある意味では類似した芸術ジャンルである映画以上に難しいものだ。例えば映画にしろ小説にしろ、製作者としては何が悲しいったってそのストーリーと完全に乖離した状況で視聴されることほど無念のことはないだろう。ホラー小説は夜ひとりで読んで欲しい。間違っても恋人といちゃつきつつ読まれたくはない。同様にどんなに切ない歌声も夏の海岸で流れてしまえば、J-POPの仲間入りである。最高級の料理にしたって死体解剖を眼前にその美味を十分に堪能できるだろうか。否、断じて否。全て、ぶち壊しである。 だからCMは映画以上に難しい。映画は少なくとも映画館という映画のための場で視聴される。勿論、その後テレビで視聴されることもあるが、製作者としては映画館での上映を想定して作ればいいだろう。 比してCMの運命の哀れさよ。カレーの香り漂う部屋で視聴されることもあれば、それまで遠慮がちだった皿を洗う音が急に大きくなりその雑音の中で視聴されることもある。時間帯や番組で大よその視聴者層は把握できるとはいえ、正に十人十色な状況下でその身を晒すわけだ。 CMは難しい。先に挙げた条件だけでも拘束的なのに、その上いつどこで誰にどんなシチュエーションで視聴されるかがわからないのだから。 そしてそのような気が狂いそうな中で、時としてCMは爆発的な力を発揮する。あるいはそれ故に。 今後、当「ジャパニーズ・CM・ライフ」はその名の通りCMを語るわけであるが、特に、華麗なCMを賛美し、愚劣なCMには代替案を示していく所存である。 また掲載はいさびの会公式HP「うぃさび」のライブラリー「右肺」で行われるものだが、その頻度は不確定である。とはいえ、原則週一回更新という「右肺」のルールを無視していく予定なので、毎日チェックが義務である。見逃すなかれ。 さあ、賢き読者諸兄よ、今週の「ジャパニーズ・CM・ライフ」はおしまいだ、パソコンの電源なんかコンセントごと引っこ抜き、テレビを点けよう。そしてCMをやっているチャンネルを探すのだ。 最後にスカパーの大株主の方、是非とも「CM専門チャンネル」を作ってください。
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頓首。
(メルマガ「肺」製作委員会)
公開開始日:平成十六年八月二七日
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