■■■「肺」の観念■■■■■■

 

発行人兼編集人・秋元悠輔

「たとえばここに肺がある。
あなたはこれを肺であるというだろうか。
「これは肺ではない」とマグリットのようにいうだろうか。
ミロのように「これは私の夢の色である」というだろうか。
あるいは肺であることを否定してみせるだろうか。
肺とは思わないのかもしれない。
あなたは、と問いかけるわたしはどうだろうか。
わたしだったら、それをわたしの胸元におき、肖像画のようにたって、
「肺」というふうにカッコで括りつけ、
わたしとともに「これは『肺』ではない」というだろう。
さて、あなたはどうだろうか。あなたは「肺」ではなかったか。」

 

製作委員・清水

「―――なぜ 肺 なのか
 タイトルとしては、この一文字は明らかに恣意的過ぎる。

―――なぜ 肺 なのか
 タイトルを決めた編集会議に出席できなかった俺には判らない。
 そして失礼を承知で言えば、おそらくあなた達にも判らない。
 なぜ俺はそんな 肺 に作品を載せていくのか。
 なぜあなた達はそんな 肺 を読んでいるのか、読んでいないのか。
 これも俺には判らない、あなた達には判るだろうか。

―――とりあえず、このループからは退散しよう。
 改めて考えた俺は「なぜ 肺 なのか」ということよりも
 「肺 であること」が重要なのかもしれない、と気づいた。
 肺 というシーニュが俺達、あなた達を繋ぐ限り
 肺 は 肺 である必要があるのだろう。」

 

製作委員・松島由峻

(近日公開予定)

 

製作委員・村上

「肺である理由について。

肺とは肯定の言葉、「はい」と同じ音を持っている。
それは受容するスタンスを明確に示す。
肺とは物質ではなく、その空間である。
その筋肉や細胞だけが肺なのではない、肺を満たす空気さえ含めて、肺だ。
それは受容のスタンスである。

だから、肺とは器なのだ。肺とは母性を象徴している。
そしてその中で父性を持った私たちが存在する。
システムとしての器、それが私たちの肺である。」

 

 

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