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【開放的人間観】    

〜コミュニケーションを導入に〜

村上 翼

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第三章・アイデンティティの浮遊性と固着性

  第五節・アイデンティティの固着様

 

 

第五節・アイデンティティの固着様

 

本論の最後にアイデンティティの固着様の重要性を述べようと思う。これはこれまでの議論に反するように感じられるかもしれないが、固着と固着様は大きな差異を持つ。

本論の随所で、特に第二章第二節と本章第四節では直接的に、アイデンティティの浮遊性の重要性を説いてきたが、それは決して超越者を理想として人間を変革しようという試みではない。そもそも第一章第一節から繰り返しているように、完全なる浮遊性を取得出来るというように人間を認知することは傲慢でしかない。本論の主張は固着から浮遊性へのシフトであるが、より現実的な文脈で捉えなおすのであれば、固着から浮遊性を前提とした固着様へのシフトということになる。

仮に人間の存在定義たるアイデンティティの浮遊性を完遂したとすると、そこに存在するのは、最早人間ではない。それは我々が神と呼ぶ存在者である。

ところが人間は、これまた繰り返すことだが、非内的世界を内的世界へと切り取ることによって世界を俯瞰しており、イデア的世界をそのまま我が物とすることは構造上、不可能なのであった。その意味で我々は神になることは出来ない。

固着とは自己の内的世界への絶対的な信仰であったが、固着様とはそれに疑いの目を向け、常に他のナイフの動きを模索しながら、自らの内的世界を生きることである。

アイデンティティを固着しているとき、我々が為す言動、それは全て社会性を帯びるが、恣意的である。

ところが固着様の段階に歩みを進めると、言動は恣意性を帯びることなく、社会性を抱く。それは相対的に自らの内的世界を他者に開示し、積極的に社会的な立場から社会に対して関与することである。

固着様に至ると、我々は社会に対して自発的に関与せずにはいられなくなる。それは社会が自らそのものであるからだ。これは共同的人間観に根差した人間にも見られる様態であるが、彼らが社会を自らの所属体として、自らの存在に先立って前提視しているのに対し、開放的人間観では社会は絶対ではない。それは人間の幸福の為に存在していると捉えることが可能となる。だからひとりひとりの幸福に先立って社会を重視するような状態には至らない。

アイデンティティの固着様とは、その切り取り方の固有性を個性として発揮することである。

アイデンティティを固着様に持って行き、オリジナルな世界を他者に開示することこそが、人間の社会性を顧みた、その生様態の本来生なのである。ナイフを振るうことを恐れず、より華麗に振り回すことを、もっと我々は知らなければならないのではないだろうか。

 

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最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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