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【開放的人間観】    

〜コミュニケーションを導入に〜

村上 翼

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第一章・世界とのコミュニケーション

 第一節・コミュニケーション世界観

 

 

本章では人間と世界とのコミュニケーションにおいて、社会的な手段を安易に盲信することの危険性を明らかにする。

第一節ではコミュニケーションの理解を容易にするコミュニケーション世界観という概念を提示し、言語への過信の危険性を明らかにしようと思う。第二節では言語に留まらず、社会的というだけで安易に用いられる受容手段への危惧を述べ、それを超越する概念である実存的ニヒリズムを紹介することにする。

 本論では世界をコミュニケーション世界観に基づいて認識する。よってここではその説明から論を進めよう。

コミュニケーション世界観とは人間と世界の関係を、コミュニケートし合うものであると定義することによって、人間の生様態を明らかにする概念である。

コミュニケーション世界観とはハイデガーMartin Heideggerの世界内存在概念を基礎におく。世界内存在概念は彼の大著である「存在と時間」などで展開される、彼の重要にして複雑な概念であるのだが、ここではコミュニケーション世界観の理解を助ける範囲で簡潔にそれを説明することとする。

世界内存在概念において人間は他の動物と異なって、今ここにこうして存在する自分を相対化することが可能な存在者として把握される。「今ここにこうして存在する自分」ではない自分を無限に想像することが出来るのが人間の特権であり、それを実行することが本来的であると彼は言う。誰か別の人の気持ちを想像し、時には犬や猫、草木にさえ感情移入し、過去や未来に思いを馳せる。つまり「今ここにこうして存在する世界」を「環境」(マックス・シェーラーMax Scheler)として捉え、時と場を越えて、我々はその上位に存在する「世界」に生きているのである。また「世界」を基準とし「環境」を回顧することも出来る。

ところが人間以外の動物にとっては「今ここにこうして存在する自分」と「今ここにこうして存在する世界」が唯一無二の存在なのだ。ライオンにとって獲物は食物でしかない。勿論、それは脳細胞が一定以上に増大することによって為しえたことなのであるが、これこそが人間と他の動物とを区分けする最大の差異であることに変わりはない。

これは哲学史に燦然と輝く概念であるが、コミュニケーションを主題にしたときには、コミュニケーション世界観を準拠枠としたほうが、理解が容易になるだろう。それは世界内存在概念が存在を解き明かす文脈で語られたのに対し、コミュニケーション世界観が世界に対峙する存在として把握する人間を解き明かすための用語だからである。

コミュニケーション世界観においては、常に世界はふたつ存在することを想定する。それはイデア的で究極の世界と、我々個人がその内に所有する世界とである。

イデアとは元々英語のideaやドイツ語のideeにはじまる言葉である。プラトンPlatonは事物の原型としてこの用語を用いた。ここではその理想性を意味するのではなく、究極性を意味する用語として使用した。つまりイデア的世界とは内的世界の集合体であり、逆説的に言えば内的世界はイデア的世界の断片である。

人間と世界とのコミュニケーションとは、このイデア的世界と内的世界の関わりのことなのだが、これは認知心理学の表象概念で理解することも可能である。しかしその主張は論を追って展開することとする。

神経生理学者のリベットBenjamin Rivetteの研究によると、五感などを通じて我々が取り入れることの出来る情報量は一秒間に一千万ビットに上るという。しかしそれに対して、我々が実際に意識することが可能な情報量は四十ビットがせいぜいだと言う。加えて世界が、我々が把握する一千万ビットを遥かに超越した膨大さを誇っていることは容易に想像出来るところだろう。この数字はコンピュータと比するとき驚くほど小さいことを実感できるが、この研究はコミュニケーション世界観という認識を肯定している。

つまり我々は日常的にパーフェクトなイデア的世界を意識的・無意識的に切り取り、その一部を内に取り入れ、それを世界であるというふうに認識しているのだ。コミュニケーション世界観におけるコミュニケーションとは、このふたつの世界の間で為される縦型コミュニケーションと、内的世界同士の横型コミュニケーションのことを指す。(本章の対象は前者であり、後者は第二章で扱う)

イデア的世界を世界内存在概念に換言すると、それは「世界」のことであり、そこから切り取られた内的世界は「環境」ということになるだろう。

よって人間の差異とはこのイデア的世界に臨む、その切り取り方の差異に相違ないということになる。だからあらゆる考えは相対的であり、それは僅かな容量しか所持しない人間の世界に対する生様態なのである。我々はイデア的世界と、言語などを媒介として接し、それを内的世界に反映するという形で世界を俯瞰している。

フロイドSigmund Freudが幼児期の性的虐待経験に関して、それが事実であるかそれとも幻想であるかを重視しなかった姿勢は、この意味で正しい。人間にとっての世界とは内的世界であり、仮に水か利害の全ての人間によって認知されている客観的事実も、あるいは自らのみが抱く幻想も、当事者がそれを現実として把握している以上、それは内的世界で実際に発生した出来事なのだからである。これは様々な場面で我々が経験することである。

例えば神経性無食欲症は「自分の身体の重さまたは体型を感じる感じ方の障害」(DSN―W)と定義されているが、彼らは他者の言葉によって、あるいは自らも自分が過度に痩身であるという認識を持ちながらも、同時に肥満しているような感じを抱くという。そして彼らは拒食を続けるのだが、これはコミュニケーション世界観概念ではこう説明出来るだろう。彼らが痩身であるのはあくまでも外的世界においてであり、内的世界においてはあくまでも肥満しているのだ。だから彼ら自身も自らの異なった認識と、結果的に肥満しているという思いに捉われる自分に対して戸惑い、あるいはそれを原因として自己評価を低下させることになる。自己評価の低さとは彼らの多くに共通する特徴である(ロバート・L・パーマー・2002)。

アイデンティティの固着とは、イデア的世界をそうと把握しないことによって齎される内的世界への過信に由来して発生すると言える。この詳細は第二章や第三章で触れることになるだろう。

それでは我々はどのようにしてイデア的世界を切り取っているのだろうか。本章のテーマである言語こそが、世界に対峙する人間が生み出した、それを切り取る最たる術なのである。言語によってイデア的世界は分化され、それにレッテルを貼ることが可能であり、この過程を経て我々は認識することが可能となっているのだ。

この、人間における言語の重要性を我々は認識しなければならない。例えば日本語において七色と表現される虹だが、英語では六色、インドネシア語では二色と表現される。これを言葉の差異に限って考えることは、言語の重大性、延いてはその危険性を顧みないこととなる。実際にインドネシア語を操る者にとって虹は二色に見えているのである。

このようにして我々の世界、すなわち内的世界は言語によって構成されているのだ。

認知心理学者のハンソンHanson.NRはその著書「知覚と発見」の中で、表象概念についてこう語っている。「あるものをXとして見ることは、それがXが行うあらゆる仕方で振舞うことを期待しうるだろうということを見ることなのである」我々は単純に世界を傍観しているのではなく、それとコミュニケートし、固有の世界を内に所有しているのである。

言語とは人間が環境の高次に存在する莫大なイデア的世界と渡り合うために、僅か四十ビットという微小な己の許容量に合わせて、それを切り取るナイフである。

これは人間にとって偉大な発明であったが、それが世界を自らとは異なった、いわば異物として把握することを前提としていること、そしてそれが世界を縮めているのであり、目視できるものは環境に過ぎないのであるという事実を踏まえて使われなければならないという制約を負うことを忘れてはならない。ナイフは諸刃なのである。

日常的に我々は内的世界を唯一絶対の世界と思い込んでいる。だからこそ社会的逸脱者は存在するのだ。逸脱者とは世界がイデア的である以上、本来は存在し得ない。もしコミュニケーション世界観に立脚するのであれば、世界の範囲を制限することが、言語などを媒介として世界に対峙する人間によって為されている人造的にして後天的なものであることを知るはずだ。内的世界を唯一絶対の世界として認識することで、逸脱する者も存在し、「区別」でない「差別」、あるいは排除が発生する。排除や差別は近年加速傾向にある。歴史的にそれは姿を消しているように感じられるかもしれないが、それは排除や差別がシステム化されているからである。例えば実際に罪を犯していないが自らと似通っていない者を危険視する態度にそれは顕著だ。

このような、世界を限定視する姿勢が様々な弊害を生み出しているのである。言語は我々の生活に根差しているから、その有用性の限界は存在しないかのように感じられ、その点が、言語が危険であるということなのである。

またこれまでの論調と逆説的に述べるのならば、言語は世界をシステム化する上で視界を遮るように機能する。それは言語がそうすることによって人間の把握を担っている以上、必然だ。つまりそれを否定することは出来ず、重要なのはリスク・マネジメントを併用するということなのである。(システマイズの重要性は第二章第一節)

言語はレッテルと同義であり、アイデンティティを固着させるように機能する。我々は、臨床的に考えるのならば自明なことである多様性を、例えば「老人」という名の下に固着させる。あるいは歴史的に見て、聾者という言葉は彼らへの理解、そしてアシストを困難なものとしてきた。聾者は単純に言ってもその様態において「難聴者」、「重度の聴覚障害者」、「金つんぼ」、「全聾者」に大別され、更にその聴力喪失時期に応じて「言語獲得前聾者」と「言語獲得後聾者」に分けて考えるべきなのだ。その状況に応じて対応も変わってくる。

ところが、特に学問においてはこれまでレッテルを重視するあまりカテゴリーとしてしか対象を扱えなかった。それを反省する形で、近年、臨床的な視座の重要性が問われるようになってきたが、これはとても意義あることであろう。

加えて言語の危険性には、それが社会性を帯びているという点も忘れてはならない。社会的であるということは、我々が無意識的にそれを盲信する可能性を有するということに同義である。

言語は我々が生得的に獲得しているものでも、自ら創造したものでもなく、我々が生まれる以前から存在していた体系である。我々は言語を通じて自らに社会性を与えるのだ。言語がそのように後天的なものなのであることを忘れてはならない。つまりこうして獲得した言語は、元々、我々とは異質な存在であるのだ。だから言語によって分化された世界は非自己的となりがちであり、そうして出来た内的世界に対して違和感を覚えるのだ。

よって言語を媒介とするイデア的世界の認識と内的世界への受容は有限であると考えられる。特に受容することが困難な出来事に対しては、言語は有効な媒介手段とはなり得ないのではないだろうか。その媒介は内的世界を自らから疎外する危険性を秘める。

この社会性を帯びた手段の危険性は次節で明らかにする。

そのような中において、寧ろ相対的に未分化な、すなわちコントロールの不自由な非言語的コミュニケーションがより力あるコミュニケーション、他者を他者として受け入れる可能性を多数孕んでいるのではなかろうか。未分化と言うことは主体的な関わりが許容されているということなのである。

言語への全幅的な信頼が、自らに対しても他者に対しても危険性を内包しているのは、これまで見てきた通りだ。ところがこれは全くといっていいほどに現在認識されていない。その根は深く、特にキリスト教圏では聖書に「はじめに言葉ありき」とあり、また言語は神と人の対話を可能にする唯一絶対の手段として称揚されていることにまで考えを深めなければならない。これは言語を口話言語と認識する中で、聾者に対する長い苦難を強いてきた(詳細は第二章第一節)

本節の最後に、言語コミュニケーション重視の問題を教育現場に見てみよう。

元々人間が言語を用いて構成した学問を教授する際には、言語を介して為すことにさしたる支障は見られないが、特に児童に対して、修身・道徳を説く際には、言語への過信は重大な問題となる。修身・道徳を理論化することは倫理学の分野で為されているが、理論化とは言語を介して為すシステマイズのことである。コミュニケーション世界観に基づく限り、人類がギリシア時代から希求して止まない真理を獲得することは不可能だろう。これはニヒリズムを強いているのではなく、様々な人間の視点を集合的に把握することこそが、それを最大限引き寄せる手段だと言っているのである。よってあらゆる絶対的真理と思しき考えもそこへの道程の一に過ぎず、それを尊重し過ぎることには警戒しなければならないというわけだ。よって様々な視点を獲得する手段としてのみ、理論化することは意義あることとなる。

しかし道徳・修身は児童に対して為されるのであり、単一的価値として認知され易い。そこで教授される修身・道徳がひとつの考えであることを前提として教えない以上、それはマインド・コントロールと何ら変わりない。

また他の教科がイデア的世界の事象を説明するのに対して、修身・道徳は内的世界に直接訴えかける教科である。修身・道徳は言語によって構成されているが、それは本来言語によって構成されるものではない。そのようなものを言語によってのみ教授する姿勢は言語への盲目的服従のスタイルであり、それは危険なのである。

修身・道徳の授業とは、実際に様々な立場の人間と、言語に頼らず、直接触れ合う機会を与えることによって成立するだろうと考えられる。

 

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最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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