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【開放的人間観】
〜コミュニケーションを導入に〜
村上 翼
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第一章・世界とのコミュニケーション
第二節・実存的ニヒリズム
社会性を帯びた手段によるイデア的世界や外的世界の受容、すなわち内的世界への反映における危険性は言語に留まらない。イデア的世界や外的世界を内的世界に受容することは、正に生そのものであり、それは時として差別など負の側面を生み出すが、同時に人間のアイデンティティそのものでもあるのだ。だからこそそれは自らの手で為さなければならない。
本節ではイデア的世界や外的世界を内的世界へ受容する際に、それが社会性を帯びた手段を介して為されることの危険性を、宗教やモーニング・ワーク、脳死を例に見ていくこととする。
イデア的世界や外的世界を内的世界に受容する手段として言語と並んで危険視しなければならないのが宗教である。宗教と聞くと日本ではあまりその影響力はないように感じるが、実はそう感じるからこそ、その危険性も相対的に大きいのである。
宗教の問題性はその盲目性にある。そしてそれはその宗教が形骸化し、無意識のレベルで自覚なく発動するときにその危険性を最たるものにするのである。
コミュニケーション世界観に基づくならば、我々は字義通り無限な世界に対峙し、それを切り取るという形で世界を目視しているのであった。この際、重要なのはあくまでもその世界がイデア的世界の一側面であることの認知と、しかもその切断はかなり恣意的に行われる可能性を孕むというリスクへの配慮であった。この認知と配慮を怠る危険性については前記した通りであるが、ここでは自らの手を汚す必要性を明らかにしたいと思う。
それはあらゆる可能性の果てに存在する現実性として「今ここにこうして存在する自分」を認識することに端を発する。コミュニケーション世界観の文脈で言えばイデア的世界や外的世界と内的世界の差異を認識し、受け入れ難い出来事さえ受容していくということだ。それはつまり自らに対する責を十全に果たすことである。端的に言って自らを超え出た存在者に自らが操られているという認識を断つ事なのである。
このスタンスを本論では実存的ニヒリズムと呼称したい。
ハイデガーは、世界内存在としての本来性は、日常が断裂した際に自然と生起するものだと考えていたようだが、本論ではより主体的に獲得するべきだと論じたい。自然と発現するには現在はあまりに非本来的である。またリベットが明らかにしたようにそれは器質的にも困難なことなのではなかろうか。我々の言動はスキーマ(人工知能研究ではスクリプト、社会行動学ではスクリプト)に基づいており、そうして認識する他者はいつだって他我であるのだから。寧ろ、器質を超越することこそが人間の本来性であろう。
日本においては非実存的ニヒリズム性が極めて深く、しかも超越者による関与という認識が無意識的レベルに染込んでいて、これを断つ事は困難を極める。しかし我々はそれをやり遂げなければならないだろう。そうでなくては内的世界がイデア的世界や外的世界から乖離してしまい、それは第三章で明らかにする人間の根本的な欲望を決して充足させなくなるという点で、実に不健康なことである。
西欧では超越者が宗教という形で顕在しており、ニーチェFriedrich
Nietzscheのようにそれを「殺す」こともまた相対的に容易である。ところが日本人の多くは自らを宗教者ではないと実感しているのである。実際我々はキリスト教や仏教といった明確な信仰対象を意識することは少ないが、それは非常に危険なことなのである。
これが、宗教が日本においては、宗教の力が強い国や地域におけるそれ以上に悪魔的であるということの所以である。我々が自らの宗教性を実感する場面は葬儀や墓参りくらいなものではないだろうか。そのような通俗的な日常が断裂したとき、我々はその生を直視せずにいられない。ハイデガーも主張するようにそれは本来性への回帰の好機、すなわち最大の進歩の好機なのである。
しかし我々はそれを社会的な手段で安易に通過してしまっているのではないだろうか。
元々、葬儀などは社会性を帯びているのだが、近年ではその社会化に拍車がかかっている。それは死を外的な出来事として目視する立場を形成しているわけだ。つまり宗教は人間の生における最大の学習機会を疎外するような形で機能しているのである。
納得し難い出来事、例えば身近な者の死という絶対的喪失を眼前にして、我々はそれをどのように受け入れるのだろうか。
ひとつはそれを否認するという形に基づく。もうひとつは否認するのではなく、受容するという態度であるが、これはそれを受け入れる手段によって下部選択肢を持つ。社会性を帯びた手段か、あるいはオリジナルな手段かという点によって区別されるのだ。
否認するということはイデア的世界や外的世界から乖離するということであるが、それは前記したように極めて不健康な手段であると言えよう。
また社会性を帯びた手段こそは本論で危惧するところだ。死に臨んだとき、我々はそれを通夜からはじまる儀式の内に受容するという形式をとるのだが、それは本当にその受け入れがたい事実を受け入れることを可能としているとは言えない。社会的なモーニング・ワークはその任を果たすべく、十分に機能しているとは言い難い。フロイドは絶対的喪失からの回復をモーニング・ワークと呼んだが、それは非内的世界で起きた受容し難い出来事を、内的世界にも起こしてやることなのである。受容という言葉には能動的なイメージが少ないが、実際に受け入れ難い出来事を受容することはかなり能動的でなければならない。
つまり近親者の死の受容とは、近親者を内的世界で殺すことなのだ。
また脳死を人の死とする危険性についてもこれまで述べた社会的受容手段への危惧を明らかにする上で、好テキストである。
脳死状態の当事者は心停止を基準とした旧来の死者とは様々な点で異なる。彼らは暖かく、当然のことながら心臓も動いている。生命維持装置に繋がれているとはいえ、爪や髪は伸び、涙を流すこともある。あるいはラザロ兆候というものがある。これは脳死者が両手を胸の上に持っていき祈るような姿勢を取ることである。また麻酔をせずにメスを入れると急激に血圧が上昇することもあまり知られていない事実である。
このような脳死者を我々は死者として内的世界に受容出来るのだろうか。
仮に出来るとするのならば、それは言語を媒介とする手段への過信である。
近親者の死は何よりも苦痛であるからこそ、オリジナルな手段で直接触れ合う必要があるのだった。端的に言って、それは五感を通じて死を感じることだ。それが出来ない脳死を人の死とすることは、あまりに人間を機械的に捉えすぎているが故の誤りであり、断固として拒否しなければならない。
そのような状態で脳死者を死者としてしまえば、我々はそれを内的世界で起きた出来事として把握出来ず、乖離した非内的世界に戸惑う。それは人間の存在定義である社会性を疎外する正に不健康なことなのであった。(尚、脳死については別のアプローチをとって第二章第一節でも扱っている)
これに対してオリジナルな手段とは社会性を帯びているからといって安易にそれに受容を託すのでなく、自らに最適な受容手段を選択するということである。その手段はより世界、イデア的世界や外的世界に深く触れることになる。安易に通俗手段に傾倒することは社会性を疎外することになるが、現在はあまりに社会性を帯びた手段に媚び過ぎているのである。
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