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【開放的人間観】    

〜コミュニケーションを導入に〜

村上 翼

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第二章・コミュニケーション不全

 第一節・病床におけるコミュニケーション不全

 

 

本章ではコミュニケーション不全をテーマに論を展開することとする。人間が社会性を帯びていることは第一章と第三章で主に論じるが、本章はそれが疎外されることの危険性を、いくつかの例を挙げながら追っていくことにする。第一章が人間と世界のコミュニケーションを対象としたとするのならば、ここからは人間対人間のコミュニケーションを主に扱う。

第一節では病床を対象とし、第二節ではそれをケア場面に映す。コミュニケーション不全はこれまであまり論じられることのなかった問題であるが、医学や福祉学において重要な認識であることは間違いない。

脳蘇生学では近年、植物状態を再考する動きが出てきている。

従来、植物状態は当事者が意識を喪失している状態であると認知されてきたが、そうではなく、彼らは通常のコミュニケーション能力が喪失しているのであって、意識は有しているのではないかというのだ。通常のコミュニケーションとは勿論、言語を媒介とするコミュニケーションのことである。

植物状態の臨床研究を行うと、彼らが情報をイン・プットしていることは確実である。植物状態から回復した者がそれを証言している。またこれまでの医学界ではコミュニケーションを、言語を媒介としたものに限定して認識してきたが、研究が進むにつれ、目の瞬きや表情の微妙な変化が彼らなりのコミュニケーション手段であることがわかってきた。実際それに基づいてリハビリを進めることによって、社会復帰を果たした者もいる。つまり彼らは情報をアウト・プットすることも可能なのだ。

また、これまで、無能症児や脳死者は、意識を喪失した状態にあることが常識とされてきた。脳が機能していない以上、それは自明のことのように映る。

しかし近年、植物状態者のように彼らはコミュニケーション不全を起こしているのであり、意識は存在することを明示するような臨床研究の結果が出ている。例えば近親者が近づくと彼らは頬を染める。見知らぬ者では筋肉を緊張させる。刺激に応じて喜びに手を震わせたり、瞼を振動させたりもする。中には長年の脳死状態により大脳が流れ出て尚、脳死状態になる以前に好んでいた音楽を聞かせると反応を見せるというような報告すらある。

植物状態、無能症、脳死、これらに共通することは大脳の欠如ということである。そしてそれ故に意識の喪失とされてきたのだ。確かに大脳皮質は意識や感覚の最高中枢があり、それを喪失することは極めて重大事である。

ところがこれに対して神経内科医の古川哲雄は、大脳皮質は極めて重要な部位であるが、これに障害を来たすと、脳の他の部位にその機能が移ると述べている(小松・2004)。更にその移動は延髄や脊髄にまで至るという。こう考えると、脳への損傷を、ダイレクトに人間存在そのものに関する損傷と捕らえることが危険であることが見えてくる。

あるいは神経生物学者であるミッシェル・ガーソンMichael D. Gershonはセカンドブレインを発見した(Michael D. Gershon2002)。全身のほとんどの機能は脳の指令を受けて機能し、それが断たれることが機能不全となる。それに対して腸も脳の影響を受けるのだが、独自の思考を元に機能しており、それ故に脳から切断されてもその機能は活動し続けるのだという。これが「腸にある脳」、セカンドブレインである。だから脳死者においても、直接胃に食物を入れることが出来れば、彼らは我々と同様に消化して見せる。

これまで脳というと人間を完全にコントロールする人間そのものとして扱われてきた。その最たるものが脳死を人の死にするという考え方であろう。しかしこれらの研究はそれに異論する。

そうであるのならば、ひとつの仮説としてこう考えることも可能だろう。すなわち脳は意識や感情の絶対的な所属場所ではない。言語中枢が脳にある以上、言語コミュニケーションが脳に依存していることは疑いようのないことであるが、それは移動することが在り得る。また言語に基づかないコミュニケーションや意識、感覚はそこに由来しているのではない、と。

これらの、言わばコミュニケーション不全に関しては、十八世紀から十九世紀にかけて欧米で行われた「感覚性 sensibility」と「刺激反応性 irritability」のどちらが人間にとって本質的かという議論がある。この議論自体は明確な結論には至らず消滅してしまったが、結果的には後者に軍配が上がっていると言えよう。本節の文脈に沿うように換言すれば、前者は当事者の意識を重視、後者は当事者の通常コミュニケーション能力を重視しているわけだ。そして現在は通常コミュニケーション能力の有無が意識の有無に直接リンクしている。

しかしこの現状は明らかに是正されるべきだろう。ここにはコミュニケーションを通常的なものに限定する考えがあるわけだが、実は我々はこの誤りを歴史的に既に体験しているのである。

それは聾者に対する非聾者の態度の歴史である。ここではコミュニケーション不全を当事者の障害と見なすことの危険性を実感するために、それを振り返ることとする。

一七五〇年以前、言語を取得する前に聾者となった言語獲得前聾者に対する状況は凄惨だった。彼らは人間としての扱いを受けていなかった。

言語の働きについては第一章第一節で述べた通りだ。「相当に優秀な人間といえども」手話によって「概念」や「論理的話法」の獲得が可能となるのであり、言語を有しない状態には厳しい限界がある(以下、本節中の鍵括弧内はサックス・1996からの引用)。正に言語の獲得とは「はじめて知性への…扉が開かれる」ことなのだ。

ところが言語獲得前聾者は、そもそも言語の存在を知らない。これに対して言語獲得後聾者は例えそれが完全でなくとも言語の存在を知っているだけで十分に優位であり、体系は異なれども手話の獲得も容易だ。しかし言語獲得前聾者は言語の存在を知らず、言語を持たないことによって思考能力は低く、一般的なコミュニケーションの手段を持たないことで人間としての扱いを受けられなかった。彼らは不可逆的な器質障害を抱えていると見做されていた。

そのような状況の中で、聾者に対する態度を進歩させたのが、チャールズ・ド・レペCharles de L'Epe神父である。彼は神父という職業上、言語を知らぬが故に神と接触出来ないでいる者を放っておくことが出来なかった。また元々「耳を傾ける謙虚な人格」でもあったそうだ。

彼は自然発生的な手話を習得し、その手話と仏語文法を組み合わせた系統的手話をつくった。

こうして聾者は通常コミュニケーションが可能となった。その後もレペは聾学校を設立し、その弟子たちはヨーロッパに聾学校を広めるといった活躍を見せた。

このように歴史的に大きな意義を残したレペであったが、彼が手話を口話言語より下位のコミュニケーション手段として認知していたことは忘れてはならない。だからこそ彼は手話に口話言語の文法を与えたのだ。

とは言え、レペが聾者に果たした業績は大きく、フランスでの改革は進んだ。

一方、アメリカにおける聾者への誤解の溶解は一八一六年、フランス人であったロラン・クレールRolland Claireによって始まる。彼は聾唖学校をつくり、アメリカ人に彼らの聾者に対する誤解を気付かせた。アメリカではクレールの持ち込んだフランス式系統手話とそれまでシステム化されていなかった土着手話を組み合わせることで、アメリカ独自の手話が完成した。

このようにして欧米圏で根付き始めた聾者に対する理解であったが、アメリカにおいては一八六九年、クレールが死去すると、この旋風に陰りが見えるようになる。聾者の手話使用に対する疑問が頻出したのだ。これは社会的なマイノリティに対して不寛容な、世界的な潮流によるものだった。例えば同時期にイギリスではウエールズ人とその言語が攻撃されている。

聾者に対しては「おし直し」という非手話、口話主義の爆発的な支持拡大が起こった。

実はこの口話主義の流れは、手話の拡大の中でも傍流として脈々と存在していたものだ。彼らは発話を伴わないコミュニケーションはその対象がマイノリティに留まるという点で真のコミュニケーションとは言えず、聾者は一般社会に溶け込むべきであり、その意味で口話を重視した。実は聾者も、程度は状況に応じるが、口話することはある程度まで可能なのだ。しかし現実的にはレペが言うように、それは教育者が聾者とマンツーマンでなければ指導出来ない程に難事であり、教育を受けることが可能な聾者を縮小させてしまう。また口話教育に専念するあまり、それ以外の教育が疎かになるのであり、それは聾者にとって有益とは言い難い。

口話主義者の中には聾者のためとは言えないような考えをする者もあったが、概してその主張は善意に基づくものであり、また当時のヨーロッパにおける聾者への教育の大勢が口話主義的であったことも背景にある。

ところが時として、善意の基づくことほど害悪であるものはないというのだから、厄介なのである。

本論の論調で言えば、彼ら社会的逸脱者の社会化を促す者は、アイデンティティの固着を引き起こしているのであり、本論ではその点を批判する。それは彼らの言う社会化が、聾者の社会への接近という点で明らかである。社会化とは社会の拡大という形をとらなければならない。

このような口話主義であったが、一八八〇年、国際聾教育者会議において勝利し、教育現場から手話は駆逐された(この会議には問題があり、例えば聾の教育者は出席を禁止されていた)。そしてその結果は当然の事と言うべきだろう、悲惨なものとなった。識字能力や教育水準はそれまで手話による教育の充実によって健常者と同レベル、あるいはそれ以上にあったのに、極端に低下したのだ。聾者の社会的地位は、再び低下した。

聾者に造詣の深い心理学者、ハンス・ファースHans Firthはその著書「言語なき思考」の中で聾者と健常者に、本来的な差異はないと結論している。彼らの間の差異はあくまでも後天的、すなわち社会的であるというのだ。

この結論は本論の主張、コミュニケーション不全とその弊害に一致する。そこに存する差異は全て言語を取得していない点とそこから派生する問題に帰属される。

特に口話主義教育下ではそれが顕著になったのだ。

しかしこの低下という結果を顧みることは、聾者自身を除くと全くと言っていい程に為されず、歴史は進んだ。

その過ちに人類が気付いたのは、実に一九六〇年代に入ってからのことだ。歴史家、心理学者、そして作家がこの問題に取り組み始めた。しかしそれは平坦な歴史ではなく、例えば手指手話の導入が提言されることもあった。これは口話言語を指に置換したものであり、すなわち手話の口話化であり、手話を口話言語の下位においていた。またレペの系統的手話を再評価する者も現れたが、それも口話言語に依存している点で、その自立性を尊重していないのであった。

そもそも手話と口話言語とではその構造において大きな差異があり、口話言語への依存は手話の強い有限化に相違ない。

しかし今日も尚、手話の自立性は十分に尊重されているとは言い難い。聾学校でも手話と共に手指手話を教えることが往々にしてある。勿論、第一章第一節で述べたように聾者は一様ではないので、一概に手話を絶対化するつもりはないが、マジョリティたる口話言語への過信は顕著である。

我々は約二〇〇〇年にも及ぶ犠牲者の山の連なりからなる聾者の歴史を顧みることで、コミュニケーションについて多くを学ぶだろう。本章のコンテクストで言えば、それはコミュニケーション手段を限定化する危険性である。聾者を、意思を有さない者として把握する背景には言語を唯一の手段とする信仰があり、手話を不完全な言語と見做すことは通常的な口話言語への過信である。そしてそれは今尚続いている。

「刺激反応性」を重視するようなその様態はアイデンティティを固着させるが故に成立する態度である。全人的に自他を把握するのならば、全ての人間は他者と相違しており、その集合体たる社会が構成員に応じてその範囲を拡大することは必然なのである。社会を限定化する考えは、全く恣意的である。

 

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