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【開放的人間観】    

〜コミュニケーションを導入に〜

村上 翼

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第二章・コミュニケーション不全

 第一節・ケア場面におけるコミュニケーション不全

 

 

本節では、ケア場面におけるコミュニケーション不全を述べるが、それと同時に本節はケアへの異常な関心の高まりをテーマに、そこに見る近年の人間の生様態を詳らかにする第三章第四節への布石でもある。

 ケア当事者たる社会的弱者の考察から始めることにする。

社会的弱者とは、あらゆる弱者に対する正当な呼称である。我々が時として、絶対的弱者として把握する人々は、あくまでも社会的という限定詞を伴って把握されなければならない。コミュニケーション世界観に基づく限り世界に絶対的な優劣は存在せず、今我々が目視し得る優劣はあくまでも現行社会上のものなのである。よって弱者は総じて社会的であり、あくまでも限定的な視座によって認知されることにより弱者と成り得るのだ。そして所謂強者の強者性にしても、あくまでもそのアイデンティティの一部に関しての形容に留まり、必ず弱者としてのアイデンティティをも、我々は内包しているのである。

我々が絶対的強者に見えるとすれば、それは現行社会がその弱さを補完するような形態で無意識的に機能するからである。それはこれまでの歴史上、社会がほとんどマジョリティのみによって、彼らに適する形で、形成されてきたからである。逆に言えば弱者は社会が無意識的には補完しない部分、意識的に補完する部分に弱さを抱えた人々のことであり、彼らをケアすることは特別なことでもなんでもない。全ての人間は常にケアし、ケアされているのだ。よって一部の社会的弱者に対するケアが他のケアよりも目立つという点で、既に社会の不完全さは露わとなっている。

ところが日常的に社会的強者は社会的弱者を絶対的弱者として認識し、ケアにおいては当事者を絶対的ケアの対象者として扱う。

このような中で社会的弱者は自らが絶対的弱者であるということを学習していく。それは社会から要請されたアイデンティティに固着していくと換言出来るかもしれない。これはIPSモデルとして認識できるだろう。人間は他者からの扱いを以ってして自らを認識していく。それは我々の有する内的世界が、常に外部の世界を受容するという形で発現する以上、必然のことである。社会的弱者は絶対的弱者としての扱いを受けるうちに、自らのアイデンティティを絶対的弱者というポジションに固着させてしまうのだ。

だから彼らはいつもコミュニケーション能力を低下させている。コミュニケーション能力は、一度それを十分に認められない場合、スパイラル状に低下していくのだ。その理由は第三章第四節で明らかにする。

社会的弱者の声は小さい。しかもその声は敏感な他者、「耳を傾ける謙虚な人格」を前にしてはじめて紡ぎ出される。と、いうように社会的強者には映る。しかし社会的弱者の側からすればそうではない。固着されたアイデンティティを振り切り、声を挙げることが出来ても、彼らの声は届きにくい。それは正にコミュニケーション不全なのである。

そもそもコミュニケーション不全とは、当事者の問題ではなく、そのコミュニケーションに対応出来ない社会的強者たる我々に責ある問題なのである。それは第一節で考察した病床においても共通している。我々はこれまで、あまりに傲慢であったのではないだろうか。

我々は社会的弱者を絶対的弱者として扱い、言語コミュニケーションを苦手とする者を、その現実と異なって意思を持たない者として接する。それが何よりもの問題なのだ。彼らが社会的な弱者である以上、その口を封じた社会及び社会的強者にとって、その聴き取りにくい声を聴き取る努力は義務となる。

いつもコミュニケーションが社会的に幅を利かせるマジョリティな手段たる言語を媒介にするという幻想、コミュニケーションは誰もが顕著な形で図ることが出来るのだという幻想、それらを唾棄しなければ彼らの声を聴き取ることは出来ないだろう。

社会的弱者を誤解することなく、社会の構成員として認知すること、加えて彼らを顧みた社会の改革は、それが彼らを吸収するというスタイルを取らない限りにおいて、その限界を拡大するという意味においてのみ、社会及び社会的強者にとっても有益である。それは勿論、有益である前段階として義務なのであるが、同時に社会的強者のあくまでも強者性が社会的なものであるおうことを露わにするという点で有益である。それは第三章で展開するいくつかの人間の本来的な能力を開花させることとなるのだ。

 ところで近年の、そのような社会的弱者に対して為されるケアへの関心の高まりは異常であるとも言い得る。心理学や社会福祉学を専攻する学部・学科への人気は高まり、介護士の成り手も増えている。また介護職に就くことを志す小中学生の増加も報告されている。幼い子どもが飛行機のパイロットやケーキ屋さんに憧れる時代は終わったのだと言えるかもしれない。このようなケアへの関心の高まりは不景気な中で需要の高い、あるいは今後高まると予想される介護職を安定という面から志望しているのだと考えることも出来るが、それ以上にケアを通じてケアされたいという欲望を満たそうという意識的・無意識的な背景が存在するのではなかろうかと考えられる。そしてもし仮にそれが事実であるとするならば、それはケアの本質を疎外することであり、問題視されるべきだろう。

本節の延長として為されるこの考察は、いくつかの概念を確認することにより明らかになると考えられる。そこで次章第四節で再度、このケアに関する問題を扱うこととしよう。

 

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最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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