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【開放的人間観】    

〜コミュニケーションを導入に〜

村上 翼

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第三章・アイデンティティの浮遊性と固着性

 第一節・自立欲望と溶解欲望

 

 

 本節では自立欲望と溶解欲望について論じる。これは本節以下のコミュニケーションにまつわる議論及び前章で保留した問題へのアプローチを容易にするだろう。またコミュニケーションのひとつの大きな意義を仮説として提示する。

それらは本論の主張たる新たなる人間観の、より実感を伴った理解を助けるはずだ。

 自立欲望と溶解欲望は共に人間の存在定義であり、これは生得的に備わっている。また欲望という言葉を使用した通り、その欲動に際限はないと考えられる。

 単純に定義するのならば自立欲望とは個人として自立し生きていく生の様態への希求である。一方の溶解欲望はその個別性を打ち消し、自らの存在を他者に、あるいはその集合体としての社会に溶解させてしまいたいという願望である。

 まず注意しなければならないのは、この二概念が二項対立で把握されてはならないということである。確かに表面を見る限りこのふたつの欲望の性質は対照的だが、それはあくまでも表面的なものであり、実際は入れ子のように複合的に存在している。加えてこの概念は理論モデルであり、現実場面では純粋な形で見られることは、まずないということにも注意したい。

 次に注意しなければならないのはフロイトのエロスータナトス概念との差異である。エロスータナトス概念と自立欲望―溶解欲望概念は一見類似しているが、異なるものである。エロスータナトス概念は、自立欲望―溶解欲望概念においては、共に自立欲望の範疇に含まれる。

タナトスは死の欲望と訳される通り、死を欲することであるが、溶解欲望はあくまでも一切の社会性を放棄する姿勢なのである。ところが死とは社会的な現象である。他の動作・状態同様に死は社会的な働きかけを持つ。純粋な溶解欲望とは、死がもたらす社会的波紋をも恐怖する様態である。だから自殺は溶解欲望ではない。自殺を、よく言われるように社会に対する自己顕著欲の表れとして一元的に解釈することは危険であるが、結果的にそれは社会的波紋を引き起こさずにはいられない。純粋な溶解欲望は人間を硬直させる。

 ところでこの二欲望は入れ子のようなモデルを取ると前記したが、自立欲望は溶解欲望を満たしてはじめて発現する様な形態をとっている。

多くの宗教において見られた祭事の際の習慣はこれを具現化する機能を負っていたと考えることが可能である。火を囲んでの乱舞や飲酒、マリファナなど薬物の使用が自他の境を取り除く働きをしていることはバタイユGeorges Batailleをはじめ様々な論者によって展開されている通りである。つまりそこでは溶解欲望を充足させ、非日常場面で日常場面を補償するというシステムが成立していたのである。ところがユダヤ・キリスト教的宗教はそれを禁じ、その広がりによって人々はいよいよ溶解欲望を獲得しにくくなった。

溶解欲望を満たす形態で最も日常的に見られるのは母親による幼児への愛である。人間ははじめ、母親と溶解した世界に所属するが、成長するに連れそこから分離せざるを得なく、その後も様々な分離を経験し、一個の自我を有した存在へと成長していく。こうして内的世界の不完全性、すなわち去勢を獲得するのだが、その自立に際して重要なのが、前提として十分な愛を獲得してきたかということだ。勿論ここでいう母親とは象徴的な言葉として認識すべきだ。

彼らは何らかの後ろ盾を必要としている。つまり溶解欲望は世界と自分とがリンクしているという自信への欲望だと換言出来るかもしれない。その自信を有する者は、恐れつつも「世界」を、あるいは恣意的に切り取り、内的世界を形成し、そして「環境」から離脱し「世界」の視座へと至る。

 ところがこうして内的世界を形成した人間も、時々は、特に非内的世界の内的世界への反映が痛みを伴うときには、後ろを振り返ることになる。そして自らが肯定されていることを再確認する。その頻度は人によって異なるだろうが、その被肯定感の確認作業、すなわち溶解欲望の充足のための行為の代表が、性行為なのである。性行為はコミュニケーションのひとつの究極的な形態であり、特にそれは非言語コミュニケーションであることによって、意義が大きい。被肯定感は言語のような中立的で日常的な手段よりも、より破壊的で非日常的な方が体験し易い。

 つまり溶解欲望とは被肯定感なのであると理解することが可能だ。自分の内的世界ではなく、外的世界に自らの存在を肯定されることによって、イデア的世界を切り取り、外的世界を参考にしつつ、内的世界を打ち立てる、自立する動機を得るというわけだ。

 またこの肯定の仕方によって、その後の自立の仕方は大きく変化する。それはアイデンティティの浮遊性・固着性を決定することなのだ。受ける肯定感が全人的であるとき、我々は全人的に振舞うことが出来る。

ところがその被肯定感が限定的であるとき、我々はアイデンティティの固着を起こす。本来、人間は生得的にアイデンティティの浮遊性を所持している。それは世界がイデア的であるからであり、我々の「世界」が「環境」の高次に存在するからである。その機能を不全にするように被肯定感が働くとき、アイデンティティは固着せざるを得ない。

 この問題は第二節と第三節を経て新たな視点を獲得して、再び第四節で扱うこととする。

 

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最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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