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【開放的人間観】    

〜コミュニケーションを導入に〜

村上 翼

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第三章・アイデンティティの浮遊性と固着性

  第三節・開放的人間観

 

 

本節では開放的人間観という新たな概念を提示することにする。これは本論をこれまで精読すれば自明の理なのだが、声を大にして主張する意義があると判断し、ここに一節設けた。この概念こそが本論の最たる主張である。

 本節では人間観として、開放的人間観の他に、閉鎖的人間観と共同的人間観を提示し、その意味を考察する。

閉鎖的人間観とはこれまで一般的に為されてきた人間把握のスタンスである。これは古くから人間を研究してきた哲学に見られる考え方であり、我々の思考にも大いに浸透している。閉鎖的人間観では人間を自―他の二項対立で把握する。また世界を客体化して把握する。そこには社会的な視座が欠落していると言えよう。これまで見てきたように人間は極めて社会的な存在であった。自立欲望を有し、コミュニケーション欲望を持つ。あるいは溶解欲望を生得的に保持し、恐怖と痛みに耐えながら内的世界を形成していくのだった。全ての人間の全ての言動は社会的波紋を引き起こさずにはいられないのだ。存在とは異物とのコミュニケーションそのものなのである。

このような性質を有するはずの人間を、閉鎖的に捉えることには限界が存在し、しかも人間は個別的に存在しているのだという誤解を招くという点でこの人間観は害悪でさえある。

これに影響を受けた考えとしては自由主義や自己決定権が挙げられるだろう。あるいは当事者主権もこの範疇に含まれるかもしれない。これらの考えはそれぞれに社会的に有意義であるだろうが、あくまでもそれらが前提としている概念が誤っているのであり、対処療法的な過渡的手段として認知し使用を制限しなければならない。

 また共同的人間観とは理論モデルとしてよりも実際場面に見られるスタイルである。これは人間の多様性とアイデンティの浮遊性を黙殺した把握を必要とする。コミュニケーション世界観に立脚するならば全ての人間は根本的に等しく、逆に内的世界に立脚するのならばその間には絶対的な距離があることになる。

ところが共同的人間観では自他の間に共通点を見出し、その共通点を拡大、そこから外れる者を差別、排除しようとする。このように他者と一体化する喜びは溶解欲望を満足させるという意味で納得出来るが、その共通点とは人間の全幅性のあくまでも一部分であり、当然ながらアイデンティティを一側面に固着させることによってはじめて成立する状態であり、区別でない差別の対象もアイデンティティの一側面で認識しているに過ぎない。人間は溶解欲望のみに留まる存在者ではない。それは前提であり、そこからアイデンティティの浮遊性を保ち自立欲望を発動するのだ。

この観点でも自―他モデルを適応出来るが、この場合には集団対個人、あるいは集団対集団として発現する。これは日本の旧来の共同体に見られる様態であるが、人間の本来性を疎外している点で唾棄しなければならない。

この考えに基づくのがパターナリズムということになろう。パターナリズムは他者の気持ちを慮るという形で発動するが、第一に我々の内的世界はそれぞれに異なり、第二に仮に慮ることが出来るとしたらそれは他者の全幅性を黙殺しアイデンティティを固着させて認識しているに相違なくそれは他者の他我化に過ぎない。それ故にこの考えは否定される。

 このようなふたつの人間観を捨象する目的で提示するのが、開放的人間観である。これは人間を、その社会性を存在定義として把握して、観る。

今後の様々な研究はこの観点から為されなければならないだろう。そうでなくては人間の本来性を無視した理論が構築されてしまう。次節ではこの開放的人間観に立脚してケアを考察することにしよう。

 

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最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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