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【開放的人間観】    

〜コミュニケーションを導入に〜

村上 翼

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第三章・アイデンティティの浮遊性と固着性

  第四節・開放的人間観の展開

 

 

開放的人間観によるケアの展開をする前に、本節ではソムリエとして著名な田崎真也氏の、ソムリエの心得について紹介する事とする(田崎・2000)。田崎氏は、ソムリエはホストをアシストする職業であり、決してゲストと直接対峙してはならないと説く。ソムリエのアシストを得たホストがゲストをアシストとするのだという。これはアシストする者はアシストされている必要があるということを示す端的なテキストであり、ケア場面を考える上でも重要な点だろう。

すなわち誰かをケアする者はケアされている必要があると言うのだ。

実はこれは第一節で提示した自立欲望と溶解欲望の関係性で見てきたことの反復である。自立欲望は溶解欲望が満たされて初めて発現するのだった。それは被肯定感を所有することによって大胆に世界と対峙することが可能となり、特にその被肯定感が全人的である場合にはアイデンティティの浮遊性を保持したまま生きることが出来るようになるのと同義である

開放的人間観に基づいてケアを考察するとき、最大のテーマとなるのはアシスタントの問題である。それは第二章第二節で述べたように、弱者を生み出したのは非弱者なのだからである。本当のケアの研究とは、社会的弱者たるケア当事者の研究というよりも、アシスタントがケア当事者に対して大いなる影響を与えるのであるから、そのアシスタントを研究対象としなければならないのだ。

第二章第二節で見てきたように爆発的なケアに関する興味の高まりは、ケアを、ケアされる手段として意識的・無意識的に認識している人々の存在を示唆しているように考えることは出来ないだろうか。問題はそれに基づくケアの本質の疎外であるが、それを考察する上では、その原因たる被肯定感の欠如を検討しなければならないだろう。

被肯定感の欠如が近年著しい。

本論では被肯定感を取得するふたつの全く異なった手段を提示する。これまで主に獲得することが出来た被肯定感は社会的なポジションを獲得するという形で為されてきた、共同的人間観に基づくものだ。価値観が概して閉鎖的で、人々の集合体としての社会がひとつの相貌を備えている場合、人は被肯定感を味わうこととなる。それはアイデンティティの浮遊性を捨象し、ひとつの側面に固着することによるものだ。そのとき人はシステムの一部となる。

ところが近年、日本では急進的に価値観が多様化した。勿論、価値観の多様性とは人々がそれを結果的に疎んでいる現在、本当の意味合いで展開したとは言い得ないのだが、日本社会の特徴たるコミュニティが崩壊し、情報技術の発展と共にグローバル化が進んだ。それによって様々な価値観を、少なくとも目視することが日常となった。このような中でこれまでのように社会の一部として、被肯定感を味わうことは困難となった。

近現代の特徴である絶対性の相対化は、人間の本来性たるアイデンティティの浮遊性を具現化するという意味でとても大きな進歩であったのだが、それに順応することが出来ずに人々が苦しんでいるというのが現状なのである。このような状況において被肯定感を取得するには、これまでとは異なった方法を為されなければならない。ただ徒にかつてを賞賛することは懐古主義に過ぎず、過去における問題点を脱却する好機として現在の状態を認知すべきである。

過去の被肯定感はアイデンティティの浮遊性を前提としていない。これは第三節で述べたように共同的人間観に基づいて考察すれば自明のことであり、そこに自他の明確な境界線はない。ところが人々は世界をそのままに把握しているのではなく、内定世界に基づいて行動している以上、全人的に他者との溶解することは有り得ない。人をその側面のみで把握し肯定するというやり方で為されてきた。コミュニティの特徴としては中間全体主義(内藤・2001)が挙げられるが、これはそれを明示している。だから、本当は側面であるのに内的世界においては彼をそのものとして捉えているのであり、そこから逸脱した場合、彼は私に対する裏切り者として認知されるのだ。

このように、過去の、アイデンティティの浮遊性を犠牲にするような形での被肯定感は、勿論人に快楽を与えるのだが、それは浮遊性を疎外することで差別や排除の温床となっていた。また社会的逸脱者の社会的意義は第二章第二節で述べた通りであり、この社会は最早進歩の可能性を放棄するような形でのみ成立が可能なのである。よって現在のように被肯定感が味わいにくいと、つい過去を懐かしむような感情に襲われるが、我々は回帰ではなく、新たな被肯定感を創造すべきだろう。

また被肯定感を「甘え」や「自我の未熟」という名の下に排除することを、日本においては男性的という形容を伴って望ましいことのように扱う風潮があるが、これを欲望することは人間の存在定義たる溶解欲望に存し、自明の事ながら褒められたことではない。被肯定感を必要としないように見える者はそれ以前に十分な被肯定感を受け、それを内在化しているのだが、それでも恒久的にそれが維持できるものでもない。人間は社会的であるのだからである。加えて、被肯定感の欠如は連鎖していく。それは「ケアする者はケアされている必要がある」からだ。だから被肯定感を味わうこと、すなわち内的世界において自らを愛されていると認知することは極めて重要なのである。

以上のように考えると正に今、日本は今後の運命を決めるような重要な局面を迎えているのであると言い得よう。安易に復古するか、苦しみを乗り越えて創造するか。

それでは過去を反省することによって創造される被肯定感を取得する術とはどのようなものであろうか。それは人間の本来性たるアイデンティティの浮遊性を疎外することのない獲得手段だ。つまりコミュニケーション世界観やアイデンティティの浮遊性を実感として引き受け、実存的ニヒリズムという形でそれを具現化する。そうすることによって自らのアイデンティティを開放し、同時に自らと同様の多様性を内包した存在者として他者を認知することが可能となる。他者を、アイデンティティを固着させるような仕方で認識することは他者をアイデンティティの固着へと追いやる弊害を有し(第二章第二節参考)、また「今ここにこうして存在する自分」の恣意性に基づいて他者を他我かすることは、人間以外の動物と同じ認識手段であり、それは人間としての尊厳さえ蔑ろにしているのだ。

現代が被肯定感の欠如した時代であると考えると、ケアを希求するのは当然のこととして考えられるようになる。ケアは過去的な手段で被肯定感を得る場面としては、絶好の機会だからである。

ケアをケアされる手段として使用するためには、前提として誤解を必要とする。それはケアの当事者が社会的弱者であるという認識の欠如である。まるで幼児による母親への全幅的な信頼性を受けることをアシスタントは期待するだろう。それは被肯定感を十分に満足させる幻想だ。

ところが実際は第二章第二節で検証したように当事者はあくまでも社会的な弱者であり、彼らが必要としているのはアシスタント以外の何者でもない。アシスタントとはあくまでも当事者を支援・援助する立場であり、そうでない場合、それはケアではない。

ところがケアのアシスタントも時代の大勢から外れず、被肯定感を欠如している。ケアとは当事者を全人的に把握しなければ成り立たないものであるが、そのようなアシスタントにそれを実行することは困難であろう。

今後、ケアに対する社会的な要請は高まるであろうが、このような中でのケアは、ケアの本来の意味での働きを阻害しかねず、危険なのである。

本論中で提示してきた様々な概念を、実感を伴って理解することが、先ず何よりも求められている。そうでなければ今後拡大するケア場面は、正に地獄絵図と化すであろう。

 

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最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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