口承かパロールか――芥川龍之介「孤独地獄」 

 

真田 敬祐

 

 

 

 

芥川龍之介は一九二七年に自殺を遂げている。だが別段そうした事実に対して何らかの特権的な符合や意味を附すつもりは毛頭ない。作家としての今後に「ぼんやりとした不安」がある、と遺書にはしたためられているものの――それがさしたる理由にしろ、そうでないにしろ――遺稿『歯車』には、端的に言って、芥川の精神分裂的な意識の彷徨や遍歴が、〈他者〉にはほぼ理解不能なまでに綴られているのは間違いない。また初期作品『孤独地獄』にもそういった分裂的徴候があると個人的には穿っており、本稿は以下、それに焦点を措きつつ近代文学における「病理」とその影響に多くを省いていきたい。

 たとえば『歯車』でわれわれは、「東京の一夜」における「色彩」への注視が肥大化し、著者の視点と《風景》との間で、「事実の相対性」(芥川『藪の中』)あるいは「自己の方程式」(フーコー)が自己撞着的に増殖・氾濫してゆくさまを経験することになろうが、ラカンはそうした「形象における色彩判断行為」を分裂症の初期的傾向であるとしている(『セミネールY』)。芥川晩年の分裂症的徴候については言うを待たない。そこで、掌品集『紺珠十篇』の一篇として発表されるはずであった「孤独地獄」でもまた「遠近法の喪失」をみることはできないだろうか。口承文学をモティーフとした作品において批評しうる点は二つ――フロイトによる『イェンゼン「グラディーヴァ」論』の顰に倣って「そのモティーフと著者自身との相関」、そして「文学的表現の偏倚」であろう。まずは後者から進めたい。第一に「服装」への注視。衣服への執着や偏執というものはフェティシズムとしてのフロイト的側面と同時に、いやむしろその対象への性的欲求を「隠し立て」しようとするもの(=衣服)への倒錯した意識、すなわち平面的・断片的な思考(ビスワンガー的側面)を見出すほうが、短篇という形式上ではより正鵠を射ているだろう。とくに「紺珠十篇」において禅超というただ一人に焦点を置いた作品にして口承文学であるのに対して、「黄八丈に黒羽二重の紋付」、「五分月代に銀鎖の懸守り」に「めくら縞の着物に白木の三尺」、さらに「錦木のしかけ」といった色彩的断片への視線が目を引くというのはけっして著者一人の意固地ではないだろうし、さらにあげつらえばそうした色彩的断片を口承文学に特有の文学的・表現的希薄さを埋める芥川が主張してやまない「詩的精神」=唯美主義による潤色としてみても、それではあまりにも貧相な潤色ではないだろうか。そして第二に「顔」への注視。文章の描写にかんしてはさしたる特異点は挙げにくい。ただし禅超との対面の末尾には「これだけの顔のかたちが、とぎれとぎれに慌しく津堂の目にはいった」とある。ここにたとえば石割透の言うとおり「禅超を借りて芥川が自己の孤独を吐露した」、いわばアガルマをモティーフとしたものであるとすれば、ここには顔というシンボリックな輪郭が、精神分裂的に虚像化しつつ芥川にいわゆる「自己劇化」の、倒錯した相関が生まれていることに注目すべきであろうが、ここではまず、第ニの「文学表現の偏倚」としての歪んだ口承体という制度そのものを確認しておこう。

 口承文学あるいは口承体は、フーコーに従って大文字の文学の誕生の境位(エピステーメー)が十九世紀であると規定した場合、それ以前の《古典》に属する。しかしここで芥川の諸作がいわば過去の遺物であると直截に断定することがなしえないことは論を待たない、けだし「自己劇化」としての「告白」の制度が芥川の作品に成立しているという与件が、芥川がいわば夏目漱石の「個人主義」的文学の次席・後裔を飾るにふさわしいことを証明しているのだ。芥川はたしかに「自己劇化」が小説という大文字の制度にかかわることに敏感であり、たとえば私小説における「告白」が自らを、卑下・狡猾さ・邪悪さで潤色し、欺瞞化をはかることで文壇という表象にアンガージュマンするものであるのに対して芥川は『鼠小僧次郎吉』などでその《悪》への自己劇化の真理を軽妙洒脱に暴き立てているが、そこには中村光夫にしたがって芥川のビアスへの相対化と見なしていいだろう(『「藪の中」から』)。芥川自身も耽溺したというビアスの『悪魔の辞典』ならびに「真理懐疑」などの掌編小説集に見られるのは、端的に言って、性や背徳などといった?聖的性格の項目化、アルシーヴの再来である。ここにはビアス特有の古典的な西欧中心主義的な未開世界への畏怖とその整除化が息づいている。そうした西欧=主知/エスニックといったシェーマに対して、元来そう呼称され・敷衍されていた芥川読解のためのパラダイムたる「主知主義者」あるいは「近代人の自意識」とはきわめて程遠い位置に属しているといって差し支えなかろう。なぜなら芥川にとって口承とは「(東方)知性の限界」をテレオロジスティックに異化したものではなく、またそうした口承=神話への構造に懐疑することもなかば放棄しているからだ。初期『鼻』から後記『西方の人』まで芥川はあくまで複合感情=コンプレックスという近代人特有の心理的屈折を一貫して扱ってはいるものの、そこには自身が主張するとおり「構造」・「建築の美学」(谷崎潤一郎)との拮抗を描ききっているに尽きている

 端的に述べて、こうした芥川の口承体への依存は、いわば口承体=複数の「声」=《パロール》によって宙吊りにされた西欧的知性そのものの畏怖を《エクリチュール》としての「文学」へと移し変える作業を通して、自己の病理を超克するためであると、個人的には考えている。ではなぜ「告白」は病理を超克つしえるのか?フーコーは『性の歴史』でこういっている。「ギリシャにおいて、真理と性とが結ばれていたのは、教育という形で、貴重な知を体から体へと伝承することによってであった。性は知識の伝授を支える役割を果たしていたのである。われわれにとって、真理と性とが結ばれているのは、告白においてである、個人の秘密の義務的かつ徹底的な表現によってである」と。またこれより以前にフーコーは「キリスト教の悔悛から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった」といっている。ここに芥川の歪められたコンプレックス(=性)と地獄観との相関にかんする重要な示唆がある。正宗白鳥「明治文壇総評」によってもわかるとおり当時の明治文壇におけるキリスト教の馴化は――たとえそれが一過性のものであったにせよ――かようの歪められた自然主義の残滓にとって、一つの明確なパースペクティヴと与えていたことは確認するまでもなく、事実、『蒲団』の花袋や『破戒』の藤村が一時期キリスト教に入信していたという常識的な予備知識でもまかなえよう。大正に入って、「告白」の制度にキリスト教は直接的に関与することはなくなったにせよ、ストリンドベリやベルグソンなどのキリスト教に染め抜かれた、洗練された(されすぎた)西欧知性とエスニックで二元論的な仏教世界と――なかば分裂症的に――を混同していたことは断じて見逃しえない。

 

 

 さて、以上のことを鑑みて、「孤独地獄」を解釈してみたい。

 「孤独地獄」とはその標題からも読み取れるとおり「今昔物語集」や「国文叢書本上巻」などのなかで語られている地獄という積層階位型の地獄の一つを狂言廻しにした物語である。この地獄は複数の声=パロールの積層化と曖昧さ(デリダによれば「言語(ラング)の決定不可能性」〔『ユリシーズ グラモフォン』〕)によって宙吊りにされて語られている。

芥川は母から、母は大叔父から、大叔父は破戒僧からという、ともするといささか信憑性にはかけるものの、こうした殆んど話の真偽性、その負荷を懐疑的なまでに放棄しようという企図行為自体、逆説的にこの話を芥川が母から聞いたということの一種の裏づけになることは言うまでもなく、また「紺珠十篇」の一篇として「父」、および「雛」の未定稿「明治」でもそうした血縁のポリフォニーがつづられている。とりわけ「明治」の原テクストでは「そのときに妹が今年六十を迎えた。自分の母がそれである」と記述されているなど、とくに母親へのオブセッションが窺える。これは芥川後期の「保吉の手帳から」「お辞儀」「あばばばば」「文章」「少年」などの告白の強迫観念へと駆り立てられることの萌芽をみてもいいだろう。

確認するまでもなく、芥川はオイディプス・コンプレックスを所有している。またフロイトを引き合いに出すまでもなく、オイディプス・コンプレックスの患者はナルシシズムや韜晦といった人格的齟齬を併発する。今まで――たとえば「地獄変」や「枯野抄」などの作品を背景にエゴイスムやニヒリズムなどと吹聴されていた芥川の振る舞いはしばしば援用されるニーチェ的な厭世観というよりも、むしろ実際には病理的背景としてのミュスティフィカシオン(韜晦)であって、すなわちそれらが芥川の背後にニーチェのそれを想起しようというパラダイムもまた誤読でしかない。先にも述べたように、あくまで日本のパラダイムからするとキリスト教がロマン派と呼ばれた旧派を内省化させ、そして《自然主義》へと変貌させたのは、「キリスト教が「主人」たることを放棄することによって「主人」(ヘーゲル的な主体=一人称)となりうるという逆説をもたらしたから」(柄谷行人『日本近代文学の起源』)に他ならない、むろん夏目漱石や西田幾太郎らが禅という自己超克によって「現実世界の一切に対して精神を無関心なものとする」(ヘーゲル)ことを可能にしたように。

大急ぎで「孤独地獄」を再読してみよう。一人称の「主人」は、母親からの権力を行使して告白=口承(コンフェルシオン)する、それが「孤独」であることには間違いない。そしてこの「孤独」もまたニーチェ的ではない。この「孤独」は地獄という表象へとアンガージュマンしうる、かりそめの「客体」でしかないからだ。母親の権力はさらにその父親「津藤」の権力とそして「禅超」という《悪》を背景にしたニヒリズムとの譲歩によって受理されている(この意味でやはり芥川は夏目漱石の「個人主義」とは好対称をなしている)。ここでは不確定要素のパロールが支配している、たとえば、とりわけ「こんな事を云ったさうである」、「最後の句は、津藤の耳に入らなかった」、「句ももう覚えてゐるものは一人もいなからう」、「この話を覚えてゐたものらしい」など、津藤の告白を前後して、地獄にかんする記述が曖昧さを増している。これはおそらく作者の意図があろう。なぜなら「母は地獄と云ふ語の興味で、この話を覚てゐたものらしい」からだ。ここでは「地獄」も《悪》も母親の権力の宙吊りによって中断されている。そこに先に述べた「衣服」=性的欲求(オエディプス・コンプレックス)の「隠し立て」と、「顔」への、ほとんど《客体(オブジェ)》のように断片化=アルシーヴ化されつつシンボリックな巨視化をエクリチュールに収めるという図式を導入すること。こうした巨視化されたエクリチュールが、パロールの中断を埋めるかたちで、母親のオエディプス的な巨視化を相殺させているのは芥川の無意識の《詭計》であったに相違ない。これを「近代知性の限界」を見る芥川などと勘違いしてはいけない。ここではすなわち西欧的な「知性」はおろか東方異教的「地獄」も放棄されているのだ。フーコーも『精神疾患と人格』で言っている。「病理学的行動において浮かび上がってくる過去は、失われた故郷のように人が常に立ち戻る最初の土地ではなく、人為的で創造的な過去である。〔・・・・・・〕――ある場合には、事物そのものが代用される。患者は生きた現実の変わりに、最初の空想の幻想的なテーマを置く。世界は現時的な事物に向かって開かれるように思われ、現実の人物は消え、親の幻想が現れる。そして恐怖症の患者のように、行動しようとすると、つねに脅かすような恐怖に直面する。父親の破壊的な性格や、愛情を独占しようとする母親は、脅かす動物という常同的なイメージとして表れる。その背景には漠然とした不安があり、意識はここに埋没する」と。してみると「孤独地獄」と「孤独」は乖離し、「孤独」とはかつて「全然母の父を吸ったことのない(と告白した)少年」の不安そのものではなかったか、また「孤独地獄」とはエクリチュール(=人為)上の「失われた故郷」ではないだろうか。自然主義にとって「告白」は病理を超克つしうるのではなく、たんなる放棄なのであって、芥川の《技巧》とはそうしたパロールによる放棄の過程の余剰をエクリチュール=大文字の文学、いわば《古典》としての口承文学に換喩しえたことの謂いなのだ。

「孤独地獄」とはすなわちそうした社会契約的な社会構造から排除され・破棄された地縁的なコミュニケーション(=ゲマインシャフト)の不毛さ、そのほとんど無際限に円環せざるをえない声=口承の告白と畏怖との鬩ぎあいを享受する己れへのカリカチュアに他ならない。

 


 

(公開開始日・八月五日)

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(「肺」製作委員会)