蜘蛛

 

 

 

 

高松 晃樹

 

 

 月が空に浮かんでいた。男はそれを見上げながらとぼとぼと歩いていた。

 いつもと変わらぬ帰り道、ただいつもよりはずっと時間が遅れてしまっていた。男以外に人気は無く、点いては消え、消えては点く電灯の明かりは頼りない。その上酔いのせいで足元がゆらりゆらりとおぼつかない。時折けつまづいて転びそうになりながらも男は月を見上げ続けた。ふと、見上げる目の片方に違和感を覚えた。子虫でも入ったか、痒みの様な違和感を感じる片目に、男は立ち止まり手の甲を当て軽くこする。すると痒みは簡単に消えていった。そうしてまた男は歩き出した。

 それからもずっと男は月を見上げ続け、いいかげん首を痛めるのでは、というころまた片足をとられ体勢が大きく崩れる。何とかもう一方の足を踏ん張り持ち堪えたが、視線は頭上の月から足元に移った。

 視界の隅で何かが蠢いた。

 無意識に男はその何かを目で追った。

 そこには、小指ほどの大きさで、やけに黒く艶々とした一匹の蜘蛛がいた。蜘蛛は微動だにせず、ただ、そこにいた。

 蜘蛛など大して珍しくも無いのに、何故か男は呆けたようにその蜘蛛を見ていた。その蜘蛛も男をじっと、見ている、ように男には感じられた。

しばらくして男はふと我に返り、頭を振りつつ視線を蜘蛛からはずした。すると、蜘蛛が動いた。かさかさと、その小さな風貌からは思いもしない音を響かせながら。蜘蛛は男の視界に割って入ってきた。そうしてまた蜘蛛はじっと男を見る。男は何故か少し焦って、また、視線を蜘蛛からずらした。蜘蛛は、自身の歩脚をせわしなく動かし、男の視線についてくる。男が蜘蛛から視線をはずすたびに何度も何度でも。

 男をじっと見る蜘蛛の眼に男は焦りだけでなく不快感さえ感じ始めていた。

 男はゆっくりと片足を上げると、思い切り蜘蛛を踏みつけた。そしてそのまま踏みにじり、そうしてそろそろと足を上げる。

 だが、そこに蜘蛛はいなかった。靴の後ろを覗いて見ても泥がいくらか付いているだけで、やはり蜘蛛の姿は微塵も無い。男は、また呆けた顔でしばらくじっと立っていた。

 ・・・眼の奥にまた違和感を感じた。

 男はまた歩き出した。だが、今度は月を見上げはしなかった。早く帰ろう。男はただ、そう思っていた。

 足元がおぼつかない。時々転びそうになる。眼の奥の違和感はまだ続いている。痒みは痛みに変わり、じくじくと頭に鈍痛を与えている。男はそれでも、歩き続けた。

 突然、鈍痛が激痛になった。男はその痛みに思わず立ち止まり、眼をつぶる。顔に手を当てて、初めて男は自分が汗をかいていることに気づいた。

 激痛は一瞬のことで、後にはさっきと同じように鈍痛が残った。男はゆっくりと眼を開く。すると、手に何かがぽたりとたれ落ちた。顔を上げて見る。

 血がべったりと手についていた。男がそれが自分の流したものであることを理解するのと、その血の中で何かが蠢いている事に気づいたのは同時だった。

 一匹の蜘蛛。ただ、今は黒く艶々としたその体を血で濡らしていた。赤く染まった蜘蛛は蠢きながら男を見ていた。男は蜘蛛を握りつぶそうとも振り落とそうともせずにただ蜘蛛を見た。眼の奥の痛みはいつの間にか消えていた。

 この蜘蛛は自分の中にいた?

 男が考えていると蜘蛛は不意に自ら男の手の中から落ちた。男は地面に眼を向ける。蜘蛛はやはり、かさかさと音を響かせて砂利の上を血を引きずらせて動いた。男は自然とその動きを眼で追っていた。すばしっこい動きで蜘蛛は男から離れていく。蜘蛛の姿はそのうちに見えなくなってしまった。血の跡は、細く点々と、道の外れへと続いている。男はじっとそちらのほうを向き、やがてそちらに歩き出した。相変わらずおぼつかない足取りのままで。

 男はゆっくりと進んでいった。やがて、地面がぬかるんだ、やけに頭身の高い雑草の生い茂る場所に出る。追っていた血の跡は泥にまみれてもう判別が付かなくなっていた。男はしばらく蜘蛛を探そうとしていた。そこに、無造作に放り出されている死体を見るまでは。

 男は声も上げず、身じろぎもせずにいた。

 月の明かりの下で死体は仰向けに倒れている。死体が着ているスーツは泥で汚れ、大分時間がたっているのか、袖口から見える手は暗青色に変色していた。男は眼をそむけようとした。男の眼はじっと死体から離れない。

 顔も手と同様に変色し、虚ろな眼は頭上の月を見ているようだった。開いた口からだらしなく垂れ下がる舌を見て男は死体から離れようとした。足が動かなかった。

 ・・・眼の奥にまた違和感を感じた。

 男は声を上げようとした。叫ぼうとした。だが、喉の奥で痰が絡まっているような息苦しさに、掠れた呻き声しか出ない。

 ・・・眼の奥で何かが蠢いている。

 走り去ろうとしても足が全く反応しない。それどころか、男の体のどの部分として男の意思では動かせなくなっていた。

 ・・・眼の奥でがさがさと何かが蠢いている。

 男は死体を見ることしか出来なくなっていた。

 ・・・段々と蠢く音が大きくなり、そして。

 突然、目の前の死体の、片方の眼球がぐるり、と回転する。そして。

 ・・・ぐにゃ、と破れるような音がして。

 のそり、と血に染まった蜘蛛が死体の眼の裏から這い出てきた。

 ・・・血の赤で視界が真っ赤に染まった。

 男の意識は血の赤で真っ赤に染まり、やがて途絶えた。

 ・・・

 

 月が空に浮かんでいた。男はそれをただ、見上げていた。

 いつもと同じ月の明かり、ただいつもよりはずっとまぶしく感じられる。男以外に人気は無く辺りは静かで、男はそれがとても寂しく思えた。

 だが、男は一人きりではなかった。

静かに耳を澄ませる。すると、確かに男には聞こえるのだ。

 ・・・眼の奥で何かが蠢いている。

 

 

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