■ 二宮金次郎、お前を爆破する。 / 鈴原 順 ■

 

 

 

 

 

 

 

 殺人そのものに対して別段の思い入れがあるわけでないけれど、やっぱりその効果は計り知れない。
 事実、はじめての殺人を犯してからが楽しかった。仲間が三人寄れば自我が三倍に膨れ上がったし、五人集まればそのぶん膨張した。鏡に映し出された鏡とか、カメラの映像をリアルタイムで映しているテレビのブラウン管を映すカメラとか、そういうものと一緒で、これほど非現実的に愉快なことはない。
 その殺人が、やらねばやられるというような正当防衛なんかではなく、寧ろその正反対と言っていいようなものだったのが、尚よかったのだと思う。それに、それまでのぶよぶよに肥大した日常という反動が存在したのも大きい。殺人ってのは一回経験しておくと、ずいぶんと気分が違うもんだ、二回目以降はずっとスムースにやれるもんだよ、そう言ったのは副隊長のキクナだった。隊長がそれに同意した。確かにそうだ、大体人を殺めた人間ってのは顔つきが違うもんだ、動きも一つ一つがびしっびしっとしていてな、よく絞った雑巾の如し。顔だって勇ましくなろうな。そこで隊長は食後、リラックスしたムードで、周りに現地の女を侍らせて聞き入っている部下たちの顔を見回した。ぐるりと見回してから、なんだなんだ、と言った。どいつも情けねえ顔しているな。
 副隊長のキクナが頷いた。「この中で人をやった経験がある奴は俺と隊長殿だけですな、この様子だと」
 それはそうだった。俺たちの所属している小隊は、隊長と副隊長を除くと全員が十八、九の少年兵なのだ。これまでは国内の軍需工場で働きつつ訓練を受けてきた学徒であり、家族から戦死者を出した者はいたが、実際に死人を見たことがない奴すらいた。まして、殺人の経験がある者などいるはずもなかった。
「ここは戦地だってのに、どうにも心配だな」
 隊長が言った。俺たちの小隊が派兵されているのは東南アジアの小さな村であり、大した要所でもなく、米英軍が攻撃をしかけてくることも当面なさそうで、また原住民もほとんど文化文明とは縁のない連中であり、銃を持った日本人の抵抗する様子は見られず、彼らも俺たちも戦中とは思えないほどに穏やかな生活をしていた。
 ここにやってくるまでは、出征に当たってそれぞれ万歳三唱で送り出され、しかも所属する小隊の隊長は日本中に名の知られたかの英雄であり、いよいよ戦地へ赴くのだ、やってやるけんね、一人一殺などと否が応でも高まる期待と不安にはちきれんばかりに心を膨らませていたのだが、実際に赴けば既に日本軍によって統治下に入った従順な村の警備という任務であり、逆にヒートアップした交感神経系がシャットダウンされたせいで、心身症のような症状を呈している者まで出た有様だ。そこまでいかなくても大いなる緊迫感の反動として、適度に社会的モラルを破壊するのが十八、九の青年の常であるとは言っても、ホームシックにかかる者、酒に溺れる者、どこで覚えたのかある種の植物を見つけてきて紙で巻きマリファナ様のものを吸入する者、セックスに生き甲斐を見出す者、と、小隊の乱れ方は尋常ではなく、しかもここ数日はその乱痴気騒ぎにさえ虚しさを覚え、自閉的な者まで現れていた。そんな様子に隊長は危機感を覚えていた。
 隊長は軍事学校を卒業し、がちがちの国粋主義者として例えば昨年も大陸で数百人を虐殺した中隊を率いたという名物軍人で、戦意高揚の国策とマッチしていることもあったのだろう、当時の売れ筋新聞東京朝朝新聞にも「天晴れ」という形容を伴って何度となく登場する有名人であった。今回はかの有名なグイジンバ戦略の際に負傷した肩の静養を兼ねて、後進の指導に当たるべくこのような穏やかな地へとやって来たのだ。
 しかし得てして天才的な人物が全方位的にその能力を発揮するかというと断じて否であり、そもそも俺は才能の偏執的な噴出こそが天才を生み出すものなのだと思うのだが、それはともかくとしても、隊長もその例外ではなく、このような戦闘がないところでは手持ち無沙汰で、部下のダレ様にもいまひとつ何も出来ないでいたのだ。竹を割ったような性格の隊長にデカダンスは似合わない。部下の醜態を横目に、ひとり、筋トレに精を出したり、つまらなさそうに原住民の村を歩き回ったり、その様子は暇を持て余した老人のようだった。
 一方副隊長のキクナは退廃的なこのような状況を弾性の強い性格を生かしてそれなりに楽しんでいたのだが、流石にこのままではまずいと隊長に命じられ、意図的に、その夜、そんな話をはじめたのだった。
 原住民に命じれば手に入らないものは何もなく、行く先々で土下座で歓迎され、しかも彼らが憎しみを持ってそうしているのであればまだ圧制者としてのポディションに身を置くことも出来るのだけれど、そうではなく、先遣隊がどういう思想教育、皇民化政策を行ってきたのか知らないが日本人に対して心から尊敬の念を抱いているようであり、かといって文化という人類がその生命を可燃させてきた窓口は、いくら現在が平穏だとしても戦争を目の前にしているだけあって刹那的にならざる終えなく閉じている。尊いと身に沁みるまでに教えこまれた聖戦だのに、これでいいのか、と俺たちは一様にそのポディションを喪失しているのだった。
 現在と今後の道筋が多岐に渡っているどころか無限に存在し、それは傍目には自由を謳歌しているように映るのかもしれないが実は堪え難き苦痛であり、そんな中で放蕩生活を送ってはいたがそこに沈降できたのもほんの暫く、戦前戦中の人間特有の真面目さを備えているからか、現在では虚無的な空気に支配された俺たちは、隊長と副隊長の言葉に、久々に身体と精神が一体化したような興奮を覚えていたのである。
 殺人、それは戦場に相応しい。
 そして俺たち同様に隊長の顔つきも、なんの目的もなく町をぶらぶらしている浮浪者然としたものとは全く違って、久々に引き締まり、軍服を着込んだその姿は自信に満ちた皇国日本の軍人として模範のような出で立ちであった。当初は尊敬の的であったものの、最近では呆然とした姿にみすぼらしさを感じ、尊敬していた父が実は軽蔑すべき存在であったことを覗き知ってしまった思春期の少年が襲われるような失望に取り付かれ、虚無感を加速させていた俺たちだが、そんな姿にインスパイアされ、戦地に特有の本能から湧き上がってくるような狂騒感がふつふつと沸き上がってくるのを感じずにはいられなかった。
 隊長は軍人特有のシンクロニシティで部下たちの内面がふつふつと盛り上がってきているのを嗅ぎ取ると、首の血管をぐびりと震わせ、顔には鬼のような形相を浮かべていた。
「貴様ら、何をやっておる、これまではそのようなへたれよう、はじめての戦地に疲れもあるのであろう容認してきたが、もうそれも終わりだ、総員整列」
 ブルドッグと人間のアイノコといった表情に、今にもウウウと唸りをあげ喰いついてきそうな声色で隊長は俺たちに言い放った。
 俺たちはその声に大慌てで立ち上がると、隊長の前に整列した。女たちが急にばたばたし始めた俺たちを不思議そうに見ている。原住民たちは一様にかたことの日本語しか理解出来ず、ましてや隊長の世辞にも美声とは言い難い声色による大声を聞き取れるはずもなかった。
 アルコールやドラッグに体をふらつかせている者が何人かいた。げえげえやっていつ奴さえいる。その様子に隊長が叫んだ。「それでも日本人か、恥を知れ恥を」舌打ちをしてから、「お前」びしりと整列している隊員のひとりに隊長が言った。「なんでありましょうか」「そいつを」よろよろとまだ立ち上がれないでいる者を顎でしゃくった。「殴れ」
 俺は懐かしさに、不覚にも思わず涙ぐみそうになってしまった。懐かしきあの教練を思い出していた。それは生き地獄と形容して然るべきハードさと共に、我武者羅で、文字通り無我夢中な日々だった。俺が慌てて咳をする振りをして涙をぬぐってから、そっと周囲を窺うと、どうやら他の連中も感に入っているようであった。
 俺たちは神であられる陛下の有能な臣民なのである。
 隊長から指名された奴ははいと言ってから、拳を固め狙い済まし、よろよろやっとこさ立ち上がった仲間の頬を殴りつけた。ぐきと嫌な音がして、殴られた男は力なく吹き飛んだ。すかさず隊長が言った。
「よし、いいな、今度からだらだらしている者はこうだ、容赦はせんぞ」
 俺たちははいと声の限り叫んだ。殴られて失神している者と、心身症のせいで元村舎、現在では日本軍が徴用して保留地となっている建物にいる者を除いた十一人の顔を一度に睨みつけるという術を用いて隊長は、無音の時間を埋めた。俺はその恐るべき視線に晒されて、思わず耐えられずに視線を外してしまいそうだったが、それが許されるはずもなく、またこの緊迫感に満ちた空気、気を抜けば、取って喰われそうな過去も未来もない、この瞬間だけに生きていなければサバイヴ出来ないような雰囲気が内臓までずっしりと染み渡り、俺は心の臓を懐かしさと嬉しさと恐ろしさとに打ち震わせた。
 一分は経っただろうか、あと一歩で失神してしまうというときになって、隊長はようやく視線を緩め、口の端を歪めて言った。ハードボイルドな世界だった。
「キクナ」はい、と副隊長は応じた。「どうだ、今日はひとつ、こいつらを使える兵隊にしてやろうじゃないか」
 その意味するところを、俺たちは直感し、流石に理性的にならざるを得なかった。
 殺人が当然の戦地でありながら、その当事者として殺人を施す自分、施される自分は現実とは思えなかった。こんなことを考えてしまう俺たちが、きっと隊長たちの言う、不完全な兵隊なんだろうが、やはり殺人を身近な問題として考えると、どきりとせずにはいられなかった。
「そうですね」と副隊長が言った。
 隊長の鋭い目が俺たちを越えて、退屈そうにぼんやりと俺たちを眺めている女たちに向けられていた。中にはあられもない格好の者もいるが、当然のことながら隊長は一切の劣情を催されたりしない。
 副隊長のキクナがその視線に気がついて、隊長に何か囁いた。隊長は厳しい表情のまま、話を聞き、小さく頷いた。「俺もそう思う」
「タザキ」副隊長のキクナが静かな、しかしそれ故に凄みのある声で言った。「お前、人をやれるか」
 タザキは寸分もおかずに、出来ますと言った。一刻の沈黙、隊長と副隊長のキクナの視線がタザキにじっと注がれているようだ。「そうか」隊長が沈黙を破った。「他の連中はどうだ。タザキは出来るそうだ。お前らだって、男だ、お国のために、陛下のためにここにいるんだろ、人を殺すことくらいなんでもないな」
 俺は間を置かずにはいと叫んだ。みんなの声が唱和した。
「よし」隊長がそう言って、副隊長のキクナが後を続けた。「戦闘においてはじめて敵を殺めるということは想像以上に大変なことだ、時に敵に情を覚えるという不心得者がいる、そうでなくとも気分が悪くなったといって使いものにならなくなってしまう者もいる、貴様らはこれまでに戦闘訓練をつんできているわけだが、実践と訓練とが全く違うということは論を待つまでもないであろう、ところで戦地で敵を殺めることに戸惑いを感じたらどうなるか、当然ながら一瞬の隙が命取りである、戸惑った瞬間に死がそこに待ち構えておる、ところが貴様らの命は貴様らのものだけではないことを忘れるな、臣民たる貴様らの命は陛下のものでもあるのだ、みすみすと死ぬことは許されん、また貴様らが死ぬということは同時に傍にいる仲間を危険に晒すということなのである、貴様らは戦場で的確に人を殺めなければならないのだ、それが臣民たる貴様らに有難くも与えられた使命である、陛下はそれをお望みだ、そのためには何が出来るか」そこで副隊長であるキクナは皆を見渡した。「事前に殺人を経験しておくことだ」
 月光の下で這いずり回る女は、まるで無邪気な子どもに足をもぎ取られた昆虫のようだ。見苦しい。
 女は不思議な表情を浮かべていた。最早死の予感は間近に感じているだろうに、あるいはそれを意識してしまうことによって発現する恐怖を抑止しようとしてか、まだその真意を測りかねているような表情を浮かべて、俺を見上げている。
 村の住宅地から少し離れたところにある幅広な海岸、その月光の下に、十三人の青年兵が一様に口の渇きを感じながら立っていた。
 俺たちの後ろを隊長と副隊長であるキクナがゆっくりと歩いている。砂を踏みしめるみしみしという音が響き、波の音と入り混じって均質なテンションを俺たちの耳に届けている。そのBGMを背後に、艶かしく青々しい月明かりを纏っている俺たちの前で転がっている女たちは、幼い頃に父から教育上よくないと訪れることを禁じられていた映画館を、父の恐ろしさを踏まえても尚、襲い来る好奇心に勝てずにはじめて覗き込んだあの日、隣接する廃工場の屋根から垣間見たのは青を基調とした若い男女が出征を控え倒錯的に性交をする場面、それを俺に想起させた。それは俺の性欲の原点だ。女を抱くとき、俺はいつだって自分が、あの映画の主人公になった気がする。
 誰かがセックスと死は同質だというようなことを言っていたっけ、と俺の思考は彷徨っていた。
 思考がぱちりぱちりと跳ぶ。死を迎える寸前に人間は走馬灯のようにして己の生を振り舞えるというが、それと似た体験かもしれない。恐怖なのだろうか、よくわからない。ただがくがくと腓腹筋が震えている。精神って奴は気取っていて、鼻持ちならないもんだな。それに引き換え身体は素直だ。まあ、時にその素直さがあだとなるわけだが。
 俺にあてがわれた女が目視しているところの俺は、そうやって、これから他ならぬ俺自身が手をかける女を前に、未経験者としての残り少ない時間を過ごしているのだった。その先に興味を抱きつつも処女としての自分の喪失を恐れる、それは何を喪失するにも共通するところだ。
 不意に、隣で同じように立ちすくんでいたタザキが、ぐびりと唾液を嚥下する音が響いた。彼はぬらぬらと妖しく濡れた瞳を機械仕掛けの人形のようにぐるりと回転させた。
 BGMに満ちていた海岸に隊長の声が重なった。
「さあ、貴様ら、殺すんだ」
 その言葉に爪はじかれたように、タザキは雄たけびを上げた。それは阿修羅の表情だった。上半身が揺れ始め、貼り付けられたような表情は現実から逃避しているように見えたが、その時、再び隊長の声が低く、響き渡った。「逃げるなよ、貴様が殺すんだ、貴様自身が殺すんだよ」隊長の声が全身にまとわりつき、どろりとしたものに冒されていく。「貴様が対峙しているのは現地の無知な土人の娘どもではない、貴様自身だ、これから貴様らが手をかけるのは貴様の中の甘えだ、それを殺すのだ」
 その声にタザキは、動きを止め、助けを求めるように、視線を忙しく周囲に飛ばした。「貴様が殺めろ」追い討ちを掛ける声が飛ぶ。「それでも男か、いま、貴様自身で、やるんだ、それでも日本人か、陛下の臣民か」隊長の声は世界を静寂に包み、象徴性をかなぐり捨てて、何か実体のないごわごわしたもののように響く。
 理不尽な殺人に理不尽さを感じる自分が卑小に感じられてくる。何かわからないものが俺の中に入ってくる。
 それまでの真っ白でぶよぶよした不快な脂肪のような時間が吹き飛ばされるようだった。俺の前に明確なつくるべき道が現れる。ここに来てから見失っていたものが、俺の下に戻ってきた。
 まん丸の世界に入れられたメスは一点の迷いも戸惑いもなく、脇目も触れずに、血飛沫を恐れずにざくざくと切り込みを入れ、理性さえも変態を遂げるようだ。そしてどろどろに溶解したものが冷え、固まると、俺の周りの世界はしんとした。空気に色付けを施すことが出来るようだ。
 隣のタザキや他の連中も、一様に切り分けられた世界を目視したようだった。その世界は熱っぽく魅力的で、鮮やかで、命をかける価値が十分に見出せそうだった。
 俺は汗でぬるぬるしているグリップをシャツの裾でぬぐうと、ナイフを握りなおした。大きなナイフは携帯に不便であろうと思っていたのだが、その意味がはじめてわかった、質量感に満ちたナイフは使用者を急かす。
 その間、俺は女の様子を傍観し続けていた。傍であがる友人たちの呻きや悲鳴は聞こえているだろうに、己の無力さを学習したのか、呆然と、ドラッグを服用したときのように無抵抗に瞳孔を拡大させて、ぼんやりとそこに月光を反射させている。その表情は無機質で、それが今の俺の顔かと思う。いつか対峙した人間の浮かべている表情は自分の表情を映す鏡だと聞いたことがある。俺はこんな顔をしているのか、そう思うと一層全身が沸騰するように疼き、さっきまでとは異なる理由ですくんでいた四肢を、動かすのが、例えば性交中に時として体感することがあるであろう恐怖とも期待とも言えない、強いていうならばこれからへの過度な興奮のために、恐ろしくもあった。
 ぶるぶると武者震いが俺を襲った。
 俺の隣、タザキとは逆側にはコセキがいる。彼は俺たちを象徴するに値する人物で、しっかりとそれこそ大抵のことならば可能なパラダイスのような数ヶ月の間に自閉的になり、その夜も居留地でひとり引きこもっていたのだが、隊長の命により、同輩によって無理やりここまで引きずり出されてきたのである。はじめはせっかく子宮へ回帰して束の間の平穏に浸っていたというのにどうしてくれるんだ、と涙ながらに幼稚な言葉で嘆いていたのだが、隊長に一発頬を張られ、更に隊長の命の下、同輩全員から足蹴を喰う内に涙は引っ込み、続けて副隊長のキクナがこれまでの話を要約して、彼特有の、アドルフが日本語を母国語としていたらこう喋るのであろうと思わせる、そんな発音と言い回しで喋って聞かせると、コセキは目をらんらんと輝かせ、その場にぴょんこと土下座して、帝国陸軍の軍人としてこれまでの自分が如何に情けなかったか、今後は精進するのでどうか許して欲しい旨を延々と並べたてた。そして彼がどうしてもと泣いて頼むので隊長以下、更に一発ずつ制裁を加えると、彼は感謝の意を表明して、目出度くも軍人へと帰ってきたのであった。
 コセキがえいや、と小さく気合いを込めて、女との間を滑らかに詰めた。それまで俺にあてがわれた女同様に呆然としていた女が、ひいっと叫びを上げ、もがいた。その手が海岸に幾何学模様を描く。女は今こそこれまで得てきた全身全霊を傾注して逃走しなればならない場面だというのに、ただいたずらにその場でもがき続けるだけで、その様子は俺に人間が被捕食者であるということを思い出させた。被捕食者がさっさと遁走してしまっては、食物連鎖の輪は機能しない。
 タザキは怯える女の瞳を疎ましく思ったのか、恐ろしいスピードでナイフの先端で突っついた。ぷちんという音がしたかどうか俺の耳には届かなかったが、風船を針で突付いたところをスローで捉えたように角膜が炸裂した。女は一瞬何がおきたかわからないような表情をした、というようなことはなく、即座に絶叫した。そのテンポは演技をしすぎる役者による舞台の如し。
 途端にタザキは左足を軸にバスケットのピポット然の動作で、くるりと体を入れ替え、遠心力をフルに活用するスタイルで喉をかき切った。暗がりにも明らかな、すっぱと鮮やかな筋が浮かび上がり、女は痛みを感じていないのか、その傷を当事者たる自分だけが見えないとはなんと不公平なといった表情で、だらだらと流れる血を見ようと頭を垂れている。タザキはその様子を非情な生物学者のような顔つきで観察していたが、その女の様子に何か感傷的になるような思い出を呼び起こされたのか、あるいは何かの象徴として認知してしまったのか、嫌悪感を覚えたように顔を歪めた。そして最早用済みとばかりに女の首筋に強烈な蹴りを決めた。女は顔面から地面に激突し、不思議な格好に首を曲げ、その生体活動を終結させた。
 その様子を冷静に認めた俺は、再び俺に殺されるべく存在している女に目を移した。女は隣で絶命した友人に恐怖して顔を引きつらせているであろうと思ったが、そうではなく、その顔は恍惚としていた。彼女は既に被捕食者としてのアイデンティティを確立しているのだった。
 俺は思わず、微笑した。いとおしさすら感じていた。
 吹っ切れたとかそういうのではない。ようやく、回帰したという感じだった。
 理不尽で超現実的な現実が、何のことはない、一般的に日常のように感じられた。
 女が俺に微笑み返してきたが、すぐにそれがアイデンティティに反することだと気がついたようで、顔を引き攣らせた。計算しつくされソフィスティケイトされたバレエのようだ。完全に身体へと刻み込まれた次のステップは。
 俺はナイフをもう一度、強く握り直した。そしてなめらかな動作で、女の傍に片膝をつくような格好でしゃがみこむと、その内臓目指してナイフを突き立てた。それは学校で習った殺人術だった。鋭利なナイフの腹に月光をハーローとして自分の顔が映っていた。俺は不敵な笑みを浮かべた俺自身の表情に満足した。
 女がげふという消化器的な音と伴に、大量の血を吐き出して、その血は俺の左肩にも飛来した。ぱらぱらっという擬態語が俺の脳裏を過ぎる。俺はとどめを刺すべく、素早くナイフを引き抜くと、膝をスプリングのようにして立ち上がり、女の首筋へと突き立てた。すぱんと小気味良い手ごたえがした。腱が切れたようだ。そして狙い通りに動脈を捉えたようで、大量の血液が俺の顔目掛けて勢いよく、噴出した。
 隣を見るとタザキも既に殺人を終え、余韻に浸るようにして、その返り血を全身に浴びていた。真っ赤っかな顔がにやりと微笑んでいた。俺の視線に気がつくと瞬間恥ずかしそうな表情を浮かべたが、彼同様に俺も血飛沫を浴びたのだと気が付くと、それまで以上に爽快な顔で笑いかけてきた。俺は笑い返した。
 それからが楽しかった、と俺は思う。
 明確なアイデンティティを獲得した俺たちは、システムの一部と成り仰せ、熱烈に輝かしい日々を過ごすことに成る。
 俺たちの共通言語は殺人であり、臣民であり、有能な上官と部下であった。
 その夜から隊長は持ち味を発揮し、俺たち青年兵をしごき出した。ほとんどサディスティックな快楽を貪ろうとしているかのような訓練と、わざと不可能な命令を発しそれが出来ないと言っては問答無用に殴りつけてくる隊長は、俺たち兵隊の恐怖と憎しみと羨望の的であり、それは正しい軍人の姿であった。
 また副隊長のキクナは軍人というよりも番頭頭のような素質を備えていて、隊長に従順なようでいて、実は隊長でさえ逆らえないような狡猾な副隊長らしい副隊長の様相を呈していた。彼は隊長の俺たちへのヴァイオレンスを楽しみ、一方で公然の秘密として、夜な夜な部下を自室に呼び出しては性行為を強要していた。
 俺たちは隊長と副隊長の命令に決して逆らうことなく、愚かなまでに素直に彼らに従った。彼らの訓練と称する身体的精神的虐待は凄まじさを極めたが、間違っても反感を表に出してはならないのだ。これは臣民たる俺たちに与えられた尊きお役目であり、喜ぶべきことなのだ。勿論俺たちの間で愚痴が飛び交うこともあったが、それはあくまでもオフレコであり、俺たちはその思いをぐっと心に秘めて、命令に従い、そのどろどろした思いは、これ全て、現地人へと発散させるのである。俺たちは卑小で典型的な、小役人的日本人へとなっていった。
 現地人といえば、あの虐殺以降、それまでの態度を一変させた。勿論、彼らは武器を所持していないので大規模な反乱が起こるといったことはなく、表向きはこれまで同様に大東亜共栄圏の盟主たる日本と日本人に全幅の信頼を置いているかのような振りを続けていたが、その笑みは卑屈さを発現させ、俺たちの視界に入るところでは満面の笑みで土下座をしている者もそうでないところでは散々に俺たちをなじっているようで、ぱっと振り向いたりするとそれまで気持ち悪いほどの笑みを浮かべていた連中が憎憎しげな表情を浮かべていて、俺たちの視線に慌てて顔色を変えるといった場面に突き当たることもしばしばだった。
 特にあの夜殺された十三人の女の家族や恋人は、今すぐにでも日本人をぶち殺してやろうと息巻いていたようだが、何とか村長や長老連によって思い留められているようであった。とはいえ、その後も俺たち卑屈な小役人的日本人はその性を如何なく発揮し、無抵抗な現地人を殴り倒し、それまでは神格化された俺たちと性交することは名誉なことと認識されていていたので俺たちが何もしなくても女たちの方からモーションを掛けてきて、慰安婦に不足はしていなかったのだが、あれ以来当然ながら俺たちに抱かれることを希望するものはなくなり、寧ろ俺たちの顔を見ると女たちは隠れてしまうので、慰安婦にこと欠き、強姦をしてまわった。
 現地人のほとんどがそんな日本人たる俺たちを憎悪しているようであったが、やはり表面的にはそれを出さないのであり、その卑屈な態度に一層俺たちは、嗜虐心を高ぶらせるのであった。
 彼らの暴発は近いように感じられた。俺たちもそのときを心待ちにしていて、それは過酷な訓練へのいいモチベーションであった。
 このように俺たちは統治者と被統治者、上官と部下、卑屈な自己を映し出す鏡のような仲間といった関係性に活き活きと生きた。これが正しい戦場の在り方であると、俺は確信していた。
 それは昭和十九年、春のことである。

 

 

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