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M A I L ? M A G A Z I N E  V O L . 1

 

『肺』

  創刊号

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   C O N T E N T S :

 「DERRIER LE MIROIR(1)」(シナリオ)・秋元悠輔

 「目を潰した王さまの話(1)」(童話)・吉川順

 「昨日のアルファー波」(小説)・清水

 「蜘蛛」(小説)・高松晃樹

 「手帖 2004 1」(エッセイ)・緩瀬洋一

 「書物論(1)」・ヴァレリー著/緩瀬洋一・鈴木清一郎飜訳

 「編集後記」・秋元悠輔


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             DERRIER LE MIROIR 1
             秋元悠輔


※全編モノクロ(キャメラはすべてピントがずれていて、ショットは始終、ぼけ
ている)
無声
※音楽はオリジナルで、まったく意味のない不協和音のみの羅列でできたコンチ
ェルト。
セリフは一切、字幕(インサート)でつづられる(指定以外、モノクロのバック
に白抜き、フォントは明朝体かゴシック体。もしくはいくつかのシーンに文字が
オーヴァーラップされる)。いわゆるトーキー。
※主要人物:主人公、ヒロイン、その友人、画廊の客、医者。(その他に、エキ
ストラ数人)


●オープニング:インサート:「あなたが途方にくれてこまっているかぎり、そ
れは、あなたが自然を忘却しているからである。というのも、あなたは自分でわ
ざわざ不確定な恐怖と欲望を作り出しているのだから。 ――エピクロス」
インサート:「私は自然の掌中ににぎられた、自然の意のままに操られる一個の
機械にすぎない。――D・A・F・ド・サド」
インサート:オープニング・クレジット(出演者名、スタッフなど、アルファベ
ット表記で。)
タイトル・クレジット:「DERRIERE LE MIROIR」
カット:真白い一室(むろんセットはそこだけに限られる)。がらんどう。そこ
へやがて人が数人入ってくる。キャメラは鳥瞰のショット。だが、キャメラのフ
ァインダーはピント(これは一貫している)がはずれていて、黒い影のように見
える。コマ抜きしながら椅子がいくつか、ついで絵画らしき額が運ばれる。そこ
にミロの作品がオーヴァーラップされる。その運搬夫たちの軌道はその上を乗っ
ている。どうやら画廊のようだ。画廊所蔵品展。
主人公、最後の一枚をかける。どうやらマルグリットの有名な、男の後姿を描い
た一枚のようである。キャメラはそれを主人公の後ろから横へとシフトしつつ撮
影。ミディアム・ショット。主人公、横を向く、そこに先ほどのマグリッドの絵
がオーヴァーラップ。そしてさらに横へとシフトし、主人公に視線を投げかける
女をともに映し出す。

インサート:男「マグリッドだ」
女「ええ」

カット:女、男へ視線を向けつつ、絵には視線のみ一瞥をくれる。男、同じ仕種


インサート:女「ユダヤ人かしら」
男「ラファエロ以外は無理なんじゃないか」
女「でも、いい。そうでしょう?」
男「ああ」
女「商人の顔をしているわ、きっと」
男「男はいつも象徴で、女はいつもその符丁だ」
女「でもミロは?」
男「?」

カット:逆に女へミディアム・ショット。女、絵を向く。

インサート:女「〈これは私の夢の色である〉。単なる青いインクの一点だわ。
でも夢の色なの。マルセル・ブリヨンはおもしろいことを言ってるわ。マグリッ
ドの〈これはパイプではない〉は、存在の記号としての名前を剥奪して、絵画そ
のものの方法を懐疑する絵画の方法で現実を超えようと、つまりシュルレアリス
ム超現実における絵画の創造をはかっているらしいけれど、ミロは逆に一つの色
彩でしかない青の一点に無限の意味を付与しているの。これもある意味でパイプ
だわ」
男「君は?」
女「?」
男「君はミロとマグリット、どちらなんだ?」
女「・・・・・・」
(間)
女「私、ミロよ」

●カット:リシャール・セーフの女性器写真の上に、ピカビアの「聖処女」がオ
ーヴァーラップする。そして主人公が女に抱擁されているシーンにオーヴァーラ
ップ。主人公は読書に耽っている。

インサート:女「昔は夢をたくさん見たわ。よく見る夢は、昔住んでいた家の階
段だわ。古い階段、ギシギシいう、木目のある、それが人の眼にも、燃えさかる
裸体にも見える、階段。・・・・・・上のほうからマシュマロのような大きい球
体が落ちてきて、私も一緒に落ちる。それで、階段もマシュマロのようにやわら
かくて、落ちる速度が、だんだんスローになっていくの。・・・・・・そうする
と落ちてくる球体の輪郭がだんだん薄らいで、複雑な線になってゆく。それが血
になって、いつのまにか外にいて、血の雨。・・・・・・大きい穴。雨に濡れた
草原に大きな穴が、底の見えないほどの大きな穴。木の根っこ?カンディンスキ
ー?ちがうわ。ベルメール?そうかもしれない。そうだったのかもしれない。」

カット:主人公、本を読んでいる。その本の版面は真っ白だ。ノンブル(頁数)
さえも打たれてはいない。

インサート:女「あれは卵よ、あの球体。どこ?知らない、知りえない、知ろう
ともしえない世界。」

カット:女のセリフにオーヴァーラップ。内臓、ぶちまけられた血。ピントはシ
ーンにあてられ、背景はぼけている。それはどこか異世界の大地のようですらあ
る。ベルメールの写真がオーヴァーラップする(S/M,P.36)。

(暗転、間)

インサート:女「贋ものの寒冷紗の空、苦々しい耳障りな音」
男「賤しくも甘い言葉――奴隷商人たち」
女「キニーネのメカニズムの切替スイッチ」
男「もうひとつの別の意識に意識的な」
女「雷のように轟く現実の責苦の数々」
男「酩酊、鞭毛虫類――スフィンクス」
女「倦み果てた妹のとても下手糞な愛撫」
男「私はおまえを熱愛するためにおまえを呪う、自由であるためにおまえを熱愛
する」
女「私はおまえを蔽い尽くす、私の愛で、汚物を覆うように」
男「錬金術師のように夢想的な私はお前を試す」
女「冒?の言葉の外では世界は何の役にたとう?」
男「追跡すべき足跡――雨の顔」
女「想像すべきは生き生きとした水の顔だけだ」
男「精液のきづたの前に坐った」
女「相似の閾で、おまえの腹はうわ言をいう」
男「帯状装飾の馬のボヘミアのような国において」
女「われわれは落ち合う、想像の中で落ち合うようにして」
男「ゆるやかな鱗に取りまかれた骸骨」
女「紫色の形見入れをひらく流血の研磨工」
男「鎖骨の廻廊の下のヒステリー症の剣闘士」
女「神託、廃馬屠殺業者、毒液」
男「おまえはそれをもちいて未知の目に上薬をかける」
(以上、ジョルジュ・ユニュ「枝状に刻み込まれた流し目」)

カット:先ほどのように主人公は読書にふけっているようだ。だが、さきほどと
は異なり、版面には文字(それは「枝状に刻み込まれた流し目」だが依然として
判然とはせず)。女、それを見つめているが、やがて徐ろに、机の上にしたため
られてある食事の品から卵をもちだす。椅子のかどで叩いて、罅をつける。そし
て、胸元に寄せる。割ろうとするときの手はハート型をかたちづくっている。中
身がこぼれる。そして男の顔に。右目に落ちて、黄身の部分が目のようですらあ
る。唖然、ただし分が都まではいかない。男の顔は悲劇的だ。女は微笑む。

インサート:女「おまえはそれをもちいて未知の目に上薬をかける」

カット:女、男の顔の上の卵にキス(キャメラはゆっくりミディアムショットか
ら、ブレつづけながらアップしていく)。そこにさきほどの内臓のトラベリング
・ショットがオーヴァーラップ、そして穹窿とも見える頭部の一部が聳えている
のがうかがえる

(以下、次号)


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目を潰した王さまの話
吉川順


穏やかな気候の中、周囲の国々とも仲良くやっている素敵な国があります。それ
がこの物語のはじめの舞台です。戦争の嫌いな王様が代々治めているこの国では
国民がみんな楽しく過ごしていました。国民は音楽好きな性質で、いつも国のあ
ちこちから楽器の音色が聞こえています。その音にあわせて農民は鍬を、鍛冶屋
は金槌を振るいます。宿屋のおかみさんは腰を振って客人の洗濯物を干していま
す。夕方になれば仕事を切り上げて広場へ出て、お酒を飲み、演奏に合わせてダ
ンスに興じます。素敵な日々が流れているのでした。
とはいえもちろん時には悲しいことや恐ろしい事だって起こります。火の不始末
が原因で火事が起きたこともあります。しかし火事に遭った家の者は近所の人か
らやさしくされ、またそれを聞いた王様がすぐに新しく家を作ってやりました。
火事に合った者は悲しみの涙を流す間もなく、感謝の涙を流すのでした。あるい
は誰かが亡くなることもあります。しかしその時も国中の人が亡くなった人の思
い出を語り合い、故人に心から感謝します。それはやはり幸福なことなのでした
。夏の気温がいまいち上がらずに、稲がなかなか育たない年もありました。そん
な時は食べ物が充分にある家々から困った農家の人に、毎日のように食べ物が送
られてきて、彼らは食べきれぬほどに手にすることになるのでした。国民の誰も
がこの自分たちの国を誇りに思い、家族や仲間を愛しく思っているのでした。
そんな国を治めるのが王宮に住む白髭の王様です。王様といってもただ威張って
いるだけの王様ではありません。誰よりも一生懸命に国民の事を考えている王様
でした。だから国民の誰もがお父さんのように頼りにしているのです。その王様
にはふたりの王子がいました。このうちの弟、彼がこの物語の主人公で名前を準
一と言います。
準一は小さい頃から、好奇心が誰よりも旺盛な子でした。乳婆のおみねは後、大
きくなった準一にこんな話をしました。
「お坊ちゃまは本に、小さい頃から勉強家でしたよ。まだお産まれになって一年
とちょっと、普通の子でしたらやっと喋り出すという時期なのに、お坊ちゃまは
既に巧みにお喋りでしたよ。それも婆やあれは何だこれは何だと質問ばかりで。
私めは学のない女ですからお答えできずに、ええ、困り果てましたよ」
 おみめは懐かしそうに話します。
 それから少し大きくなると準一の興味は王宮の調度品に移りました。王宮には
素敵な飾りや珍しい芸術品があるのです。王宮には沢山の部屋がありますが、そ
の中で準一が最も気に入っているのは第三倉庫でした。王宮には沢山の倉庫があ
り国中の子どもの絵を保管してあったり、今では壊れてしまったけれど誰かが大
事にしていた楽器を預かっていたりします。その中で第三倉庫は外国からの贈り
物がしまってある倉庫です。遥か遠くの国で発掘された大昔の壷や絶対に枯れな
いシクラメンの鉢、彫刻されたマンモス、きらきら光り輝く宝石、孔雀の羽。そ
れにミイラまであります。広い倉庫の中には何に使うのかわからないものや、見
たことがないものも沢山並んでいます。準一はそんな倉庫を探検するのが大変に
好きでした。毎日毎日国で最も物知りの博士を伴って倉庫へ入って行き、あれは
なんだこれは何をするものだと聞き続けるのです。
「博士。この孔雀の羽はどうしてこんなに短く切り揃えてあるんだろう。耳掻き
かい」
「いえいえ。準一さま。それは猫じゃらしでございます」
「ではこっちはなんだい。これが耳掻きかな」
「いえいえ。それははたきです」
「ではこれもはたきだな」
「いえいえ。これははたきでありません。これはくすぐり用の羽です」
「そんなものもあるのか」
 準一は目を丸くします。
「そうですとも。準一さま。世の中にはわたくしたちから見ると不思議なもので
も、他の国の者には当たり前のものが沢山あります。その逆にわたくしたちが当
たり前に思っていることでも他国の者には奇妙に見えるものも沢山あります」
「面白いなあ博士」
「ええ。面白いですね」
 そんな準一もいつしか二十歳を向かえ、成人の儀式を終えました。その姿は立
派なもので顔は凛々しく、いかにも頼りがいがありそうな青年に成長していまし
た。しかしあの旺盛だった好奇心だけは変わっていません。中でもとりわけ準一
の興味は、外国に向けられていました。幼い日に見聞きした外国の不思議さが胸
に焼け付いているのです。さすがに幼い頃のように毎日、倉庫に行くことはなく
なっていましたが、その代わりに沢山の本を読み、国を訪れる沢山の旅人を王宮
に招き外国のことを尋ねました。そのせいで今では王国一の外国通です。そうし
て伝わってきた外国の優れた技術を準一が王さまに報告して、国の発展の為に生
かされていることもあります。
しかし準一は外国に実際に言って見たいのでした。この目で見てこの鼻で嗅いで
、この手で外の世界を触れて見たいのでした。その思いは日ごとに増していまし
たが、準一は王家の人間です。そう簡単に旅行に出かけるわけにもいかないので
す。
だから二十一歳の誕生日を間近に控えたある日、王さまがこんな話を持ち出した
時、準一は一も二もなく飛びついたのでした。それはこんな話でした。
「みんなよく聞いてくれ」
王さまはいつになく真剣な表情で言いました。「あなたどうしたの」王女さまが
いいます。
「うむ。実はな、昨日、アヤ国から一通の手紙が届いたんだ。アヤ国というのは
わしの父の兄の母の叔母の弟が治める国でな」「えっ。なんですって。誰が納め
てるんですって」カスチ王子が思わず聞き返しました。「うむ。父の兄の母の叔
母の弟だ。まあ遠い親戚だ。それでその人が納めている国なのだが、この王さま
というのがもう相当のお年でな、しかも跡継ぎがいないそうなんだ。そこでうち
の準一に王さまを継いで欲しいんだそうだ。風の噂で準一の素晴らしさを知った
らしい。赤の他人よりは血の繋がっている方が何かと上手く行くんだろうしなあ

 準一は手を打ちました。「それはいい。是非行かせて下さい」
「うむ。確かにお前の素晴らしい青年に成長した。王も充分に務まるだろう。だ
が、なあ」
 王さまは王女さまと目を合わせました。「ええ。準一がいなくなったら寂しい
ですわ」
 それから何時間も話し合いが行われました。準一は行きたいと強く思う一方、
悲しむ両親を見たくはありません。また女王さまも準一の望みの適うチャンスで
あり是非行かせてやりたいと思うのですが、子どもが遠方へ行ってしまうという
のはこれ以上にない寂しさです。王さまとカスチ王子はそれぞれの思いをよく知
っているので、どちらがいいとも言えません。しかし結局王女さまのひとごとで
決まりました。「準一、行っておいで。あなたが本当にしたいことをするべきよ

 ぐっと涙を堪えている女王さまの気高い姿に準一は深く感謝し、きっと素晴ら
しい王になろうと誓うのでした。
 出発の日はすぐにやってきました。準一は山のように荷物を背負っています。
従者をつけようと王宮の誰もが言いましたが準一は断りました。自分ひとりで頑
張るのだという固い決意なのでした。王様たちもその思いを汲んで準一がひとり
で旅立つことを認めました。
「坊ちゃま」
 おみねは目に涙を浮かべ、それだけ言うと胸がいっぱいになってしまったよう
です。その薄い肩に王女さまがそっと手を置き言いました。
「準一。身体に気をつけるのですよ」
 その目にもきらりと光るものがあります。その姿を見ているうちに様々な思い
出浮かんできて思わず準一も泣いてしまいそうですが、ぐっと堪えました。ここ
で泣いてしまっては心配をかけることになります。
「お母さん。おみね。ありがとう。ふたりも気をつけて」
次にお兄さんのカスチ王子が言いました。
「準一。俺はここで頑張る。お前も向こうで頑張ってくれ。お互い国民みんなが
幸せになれるようにな」
最後は王さまです。王さまは準一の目をしっかりと見つめて言いました。「準一
。どんなことがあっても途中で諦めてはいけないよ。最後までやり通すんだぞ」
準一は深く頷きました。今一度全員と握手を交わしてから準一は出発しました。
アヤ国への道のりは平坦ではありません。様々な国を経て時には山を越え、谷を
下ります。山賊に狙われたこともあります。しかし幼い頃から武道に慣れ親しん
でいた準一の敵ではありませんでした。
準一は幼い頃からの夢だった外の世界に今自分がいるのだと思うと、胸がいっぱ
いでした。三年前に亡くなったあの博士の顔が懐かしく甦ったりします。
ひと月の旅を終えて準一はアヤ国に辿り着きました。しかしどこかおかしな様子
です。聞いていた話では温暖なこの国はまた陽気な国民が多く、楽しそうな雰囲
気に満ちているはずなのです。ところがどうしたことか国は沈みかえっていて、
道を行きかう人の姿も見当たりません。また畑には雑草が生え放題ですし、鍛冶
場から力強い音が響いてくることもありません。国全体に活気というものが全く
感じられないのです。
王宮に着くとさすがに近衛兵が立っていましたが、彼らもどこか落ち着かない様
子です。準一が声を掛けるとびくっとしています。王宮の前は広場になっていて
ずっと前から準一が近づいているのは見えているはずなのに、まるで今まで準一
に気が付いていなかったかのようです。しかも彼は王さまの部屋まで案内する間
に五回も躓いていました。こんなことがあるでしょうか。だって国中で最も運動
神経の鋭い若者が近衛兵に採用されるのですから。王宮内も部屋や廊下の真ん中
は綺麗ですが、端っこには埃が積もっています。もしかしたら何か悪い病気でも
流行っているのでしょうか。準一は不安を覚えながら王さまの部屋に入りました

老ヤラベ王はベッドに入っていましたが、準一の声に上半身を起こしました。し
かし王の姿にもどこかおかしな感じがします。挨拶が済むと、準一は思い切って
なにかあったのでしょうかと聞いてみました。
老ヤラベ王は皮肉そうな笑みを浮かべて、口を開きました。
「それはな」
老ヤラベ王が語って聞かせてくれたのは、驚くべき話でした。
それはひと月ほど前のことです。いつものようにヤラベ王が家臣と会議をしてい
ると、不意にさあっと窓という窓から緑色の光が差し込んできたのです。何事か
と驚く面々ですが、光が止むと、なんということでしょう。全員の目が光を失っ
ていたのです。会議室は悲鳴に包まれました。突然暗闇に押し込まれたその恐怖
は絶大なものです。
すぐさまお医者さんを呼ぶ事になりましたが、これがまたなかなか大変なことで
した。お医者さんを呼びに行った家臣は王宮を出るまでに三十七回も転び、しか
もやっと外に出たかと思うとなんと医者の家がわからないのです。普段は目で地
図を見ているのにそれが見えないのですから当たり前です。そこで家臣は叫びま
した。
「おおい。誰か来てくれ。誰でもいい。お医者さんを呼んでくれ」
 しかし誰も来ません。それはそうです。実は国民全員があの緑の光のせいで盲
目になっていたのです。突然の出来事に誰もが他の人に構っている余裕を失って
しまっていたのです。しかしそれでもやがて国一番の名医が王宮にやってきまし
た。しかしこの医者ももちろん盲目です。王さまたちの元に駆けつけたときには
あちらこちらに怪我を負っていて、逆に王様たちに手当てしてくれと頼むのです
からこれでは役に立ちません。すぐに隣国へと使者が遣わされましたが、この使
者も盲目なのです。普段なら半日もあれば駆け抜けてしまう道のりに二日もかか
ってしまいます。それでもやがて隣国から沢山の医者が駆けつけ、盲目の治療に
当たりました。科学者も派遣されてきて、あの謎の光について調査を進めます。
しかしどちらもわからないことだらけなのでした。やがて医者は悲しい事ながら
これを治す事は出来ないと判断します。科学者たちもあれがなんなのかわかりま
せん。彼らは暫くして調査を打ち切り帰ってしまいました。
 そんな中、国民たちは深く絶望しました。自分たちが世界から見放されたと感
じたのです。それまで勤勉な彼らでしたが働く気は失せました。すぐに畑が荒れ
てしまいました。またそれまで明るく友好的な彼らでしたが、口数もめっきり少
なくなってしまったというのです。
 盲目の老ヤラベ王は長い溜息をつきました。彼も疲弊している一人なのです。
 その話を聞き終えた準一はすっくと立ち上がりました。その瞳は決意に燃えて
いました。目が見えないのだったら私はみんなの目になろう。そう硬く決心して
いたのです。

(以下、次号)


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             昨日のアルファー波
                       清水


―――夢だ。
夢の中で「夢」と自覚できることは稀だが、もし自覚できればある程度自分の好
きなように「夢」という空間を作り変えることができる。
最近は夜更かしが続いてあまり夢らしい夢を見ていないが、過去の履歴を見ても
俺も夢と自覚できた夢は少ない。夢は覚めた直後から急速に記憶から消滅してい
くから、覚えていないだけかもしれないが・・・同じことか。
今見ている(という表現が正しいかどうかは置いて)夢はハッキリと自覚できて
いるのだが、どうにも「変えよう」という気が起きない。
―――流されてみよう。
そんな意識が先行している。
俺は究極の仮想空間体感装置「自覚できた夢」をあえて捨て、自分の奥深くの心
の導きに身を任せた。
場面は昔住んでいた下町の小さな通りだった。隣には何故か見慣れた顔の友人が
いた。
すぐに場面が学校に変わる、おそらく高校の廊下だ。場面が学校の夢はよく見る

文化祭なのか、新築だが無機質な校舎内は紙で作った申し訳程度の飾りや、マジ
ックで塗りたくられた看板が転々と並んでいた。ただ活気はない。いや、人すら
いない。
その廊下の中ほどに、窓やドアが黒いカーテンで覆い尽くされた教室がある。こ
こも何かの出し物なのだろうが看板も何もなく、ただ黒が出現している。
気づくと二人の足はそこを目指していた。ドアを覆う黒を除け、中へ入る。
中はすでに教室の原形を留めていなかった。黒板や机、どうやったのか窓すら取
り除かれており、壁しかない、箱のような部屋だ。天井には蛍光灯が見えるが使
われておらず、代わりにどこからか漏れてくる薄暗い紫が室中を支配している。
おそらく入ってきたのは教室の前側にあたるドアからだろうが、入って左、後ろ
の窓側から部屋全体の3割ほどの面積を、また黒いカーテンが覆っている。
光はそこから漏れているようだ。漏れた光は薄暗く部屋の中を照らすだけだが、
厚いカーテンの上下から覗いて見える床や天井はずっと明るく、白に近い光を反
射している。
ここがなんなのか俺たちは漠然と理解した。おそらく占いの類を扱っている出し
物か何かだろう、部屋の雰囲気がそんな発想を運んでくる。
『ご名答。』と言わんばかりに、カーテンの中への入り口と思われるところに白
く《Fortune Tell》の刺繍があった。部屋に入って以降、人外の空間にすっかり
酔わされていたが、見慣れた「文明」が少しだけ日常の感覚を引き戻してくれた

重いカーテンをめくると、強烈な光が噴き出してきた。不思議と目がくらむこと
はないが、中は凄まじい光度の光で満たされている。
光源は厚い布をかぶされた小さな正方形の机の上にあった。ライトでも蝋燭でも
ないそれは、紫がかった光をまといながら生き物のように形を変える、まさに「
紫光」といった感じだ。
「ようこそ。」
声がした、女性の声だ。トーンは高めだが大人びた調子、おそらく壮年の女性だ
ろう。
声の主は紫光を挟んだ机の向かい側に座していた、全身がイスラームの女性がま
とうサリーのような、これまた紫色のもので覆われているため、顔や体型はわか
らない。
唯一、サリーから脱出している白い手で、向かいにある席を友人に勧める。まず
は彼から占ってくれるようだ。
俺は外で待つことにした。再び薄暗いカーテンの外に出る、やはりカーテンの中
と外では明度が全く違う。強い光に当たった俺の眼の瞳孔は閉じきっているはず
だが、夢だからか、暗い教室内でも壁と天井の境目までハッキリと区別できる。
とはいえ、何のアクセントも無い景色であるから特に意味は無いか。
中の会話も黒く厚いカーテンが光と同様に遮断してしまっており、俺の耳には言
葉として届いてこない。
完全に暇を持て余したなと思い始めたそのとき、カーテンから漏れる光が光度を
増した。と同時になにか機械が唸るような音が聞こえる。鉛でできた獣がいたら
こんな鳴き方をするのだろうか。重々しくも甲高く、無機質な唸り。
妙な音と光は数秒続いた後ぱったりと途絶え、元の静寂と薄闇の空間が戻ってく
る。
席を立つ音が聞こえた、どうやら終わったようだ。カーテンの隙間から友人の手
が現れ、次いで頭と体が抜け出す。彼の顔はリラックスしているように見える、
俺を一瞥した後、まだ明るさが残るカーテンの中にいる占い師に一礼した。
向こうも礼を返したかどうかはわからないが、やや間を置いた後「次の方どうぞ
。」と俺を呼ぶ声が聞こえた。
友人は入り口の横でどこからか取り出した手帳を眺めている。占いの結果がまず
かったのか、それとも次の予定の確認でもしているのだろうか。
彼を待たせることにして、俺もとりあえず占ってもらうことにした。カーテンを
めくって中へと足を運び、占い師に勧められるまま先ほどまで彼が座っていた席
へ着く。
「では始めます。」
何から占うかとか、そういった前置きは無いみたいだ。机の上の光が輝きを増し
、さきほどの唸るような音がカーテンで覆われたこの教室の一角に響いていく。
占い師の声量は小さく、この騒音の中ではとても聞こえようもないはずだが、俺
の頭の中にはしっかりと声のイメージが届いている。
「悩みを抱えていますね。」
頭の中で微妙な相槌を打った。当たってはいるが漠然とした指摘だ。しかし頭に
引っかかりを残していく。『そういえばそうだ。』と思わせる台詞。
占い師は続けて言った。
「そしてそれから逃げようとしている。」
俺は頭の中で黙り込むしかなかった。
言われていることは社会で暮らす人間なら誰もが心に持っていることに過ぎない
。TVで見る占いは、そんな漠然としたことを言って不安を煽ったうえで漠然と
した救いの条件を提示し、気を良くした客に『当たっている。』と思わせ新たな
客を呼び寄せる、ぼろい商売だと思っている。
しかし今言われていることは、そういった商売云々というものを飛び越えて心の
中にしこりを残す何かを内包した、言葉の力の塊のような圧迫感がある。
今まで自分の頭の中で遮断してきた問題の沈殿を、第三者の言葉の力で掻き揚げ
られる。痛みを伴わない、ただ受け入れるだけの感覚だが、長い時間をかけて考
えなければならない。答えは出ないとわかっていても。
占い師の二言が告げられると、ほどなくして空間を満たす光の白が、紫もカーテ
ンの黒も支配していく。

何もかも白に変換されたとき、夢は終わった。光は窓から射す陽光になって起床
を促す。
自らの心が自らの頭のわだかまりを掘り返す感覚は、支度を終えて家を出た後も
残っていた。いつもは思い出す前に記憶から消えてしまう夢が、特に意識しなく
とも頭の中にこびりつき、反芻される。
今日という日が終わるとき、またあの占い師が現れるのだろうか。心に鬱積した
解決のできない問題がある限り、問いかけてくるのだろうか。

 
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             蜘蛛
                       高松晃樹


 月が空に浮かんでいた。男はそれを見上げながらとぼとぼと歩いていた。
 いつもと変わらぬ帰り道、ただいつもよりはずっと時間が遅れてしまっていた
。男以外に人気は無く、点いては消え、消えては点く電灯の明かりは頼りない。
その上酔いのせいで足元がゆらりゆらりとおぼつかない。時折けつまづいて転び
そうになりながらも男は月を見上げ続けた。ふと、見上げる目の片方に違和感を
覚えた。子虫でも入ったか、痒みの様な違和感を感じる片目に、男は立ち止まり
手の甲を当て軽くこする。すると痒みは簡単に消えていった。そうしてまた男は
歩き出した。
 それからもずっと男は月を見上げ続け、いいかげん首を痛めるのでは、という
ころまた片足をとられ体勢が大きく崩れる。何とかもう一方の足を踏ん張り持ち
堪えたが、視線は頭上の月から足元に移った。
 視界の隅で何かが蠢いた。
 無意識に男はその何かを目で追った。
 そこには、小指ほどの大きさで、やけに黒く艶々とした一匹の蜘蛛がいた。蜘
蛛は微動だにせず、ただ、そこにいた。
 蜘蛛など大して珍しくも無いのに、何故か男は呆けたようにその蜘蛛を見てい
た。その蜘蛛も男をじっと、見ている、ように男には感じられた。
 しばらくして男はふと我に返り、頭を振りつつ視線を蜘蛛からはずした。する
と、蜘蛛が動いた。かさかさと、その小さな風貌からは思いもしない音を響かせ
ながら。蜘蛛は男の視界に割って入ってきた。そうしてまた蜘蛛はじっと男を見
る。男は何故か少し焦って、また、視線を蜘蛛からずらした。蜘蛛は、自身の歩
脚をせわしなく動かし、男の視線についてくる。男が蜘蛛から視線をはずすたび
に何度も何度でも。
 男をじっと見る蜘蛛の眼に男は焦りだけでなく不快感さえ感じ始めていた。
 男はゆっくりと片足を上げると、思い切り蜘蛛を踏みつけた。そしてそのまま
踏みにじり、そうしてそろそろと足を上げる。
 だが、そこに蜘蛛はいなかった。靴の後ろを覗いて見ても泥がいくらか付いて
いるだけで、やはり蜘蛛の姿は微塵も無い。男は、また呆けた顔でしばらくじっ
と立っていた。
 ・・・眼の奥にまた違和感を感じた。
 男はまた歩き出した。だが、今度は月を見上げはしなかった。早く帰ろう。男
はただ、そう思っていた。
 足元がおぼつかない。時々転びそうになる。眼の奥の違和感はまだ続いている
。痒みは痛みに変わり、じくじくと頭に鈍痛を与えている。男はそれでも、歩き
続けた。
 突然、鈍痛が激痛になった。男はその痛みに思わず立ち止まり、眼をつぶる。
顔に手を当てて、初めて男は自分が汗をかいていることに気づいた。
 激痛は一瞬のことで、後にはさっきと同じように鈍痛が残った。男はゆっくり
と眼を開く。すると、手に何かがぽたりとたれ落ちた。顔を上げて見る。
 血がべったりと手についていた。男がそれが自分の流したものであることを理
解するのと、その血の中で何かが蠢いている事に気づいたのは同時だった。
 一匹の蜘蛛。ただ、今は黒く艶々としたその体を血で濡らしていた。赤く染ま
った蜘蛛は蠢きながら男を見ていた。男は蜘蛛を握りつぶそうとも振り落とそう
ともせずにただ蜘蛛を見た。眼の奥の痛みはいつの間にか消えていた。
 この蜘蛛は自分の中にいた?
 男が考えていると蜘蛛は不意に自ら男の手の中から落ちた。男は地面に眼を向
ける。蜘蛛はやはり、かさかさと音を響かせて砂利の上を血を引きずらせて動い
た。男は自然とその動きを眼で追っていた。すばしっこい動きで蜘蛛は男から離
れていく。蜘蛛の姿はそのうちに見えなくなってしまった。血の跡は、細く点々
と、道の外れへと続いている。男はじっとそちらのほうを向き、やがてそちらに
歩き出した。相変わらずおぼつかない足取りのままで。
 男はゆっくりと進んでいった。やがて、地面がぬかるんだ、やけに頭身の高い
雑草の生い茂る場所に出る。追っていた血の跡は泥にまみれてもう判別が付かな
くなっていた。男はしばらく蜘蛛を探そうとしていた。そこに、無造作に放り出
されている死体を見るまでは。
 男は声も上げず、身じろぎもせずにいた。
 月の明かりの下で死体は仰向けに倒れている。死体が着ているスーツは泥で汚
れ、大分時間がたっているのか、袖口から見える手は暗青色に変色していた。男
は眼をそむけようとした。男の眼はじっと死体から離れない。
 顔も手と同様に変色し、虚ろな眼は頭上の月を見ているようだった。開いた口
からだらしなく垂れ下がる舌を見て男は死体から離れようとした。足が動かなか
った。
・ ・・眼の奥にまた違和感を感じた。
男は声を上げようとした。叫ぼうとした。だが、喉の奥で痰が絡まっているよう
な息苦しさに、掠れた呻き声しか出ない。
・・・眼の奥で何かが蠢いている。走り去ろうとしても足が全く反応しない。そ
れどころか、男の体のどの部分として男の意思では動かせなくなっていた。
 ・・・眼の奥でがさがさと何かが蠢いている。
 男は死体を見ることしか出来なくなっていた。
 ・・・段々と蠢く音が大きくなり、そして。
 突然、目の前の死体の、片方の眼球がぐるり、と回転する。そして。
 ・・・ぐにゃ、と破れるような音がして。
 のそり、と血に染まった蜘蛛が死体の眼の裏から這い出てきた。
 ・・・血の赤で視界が真っ赤に染まった。
 男の意識は血の赤で真っ赤に染まり、やがて途絶えた。
・ ・・
月が空に浮かんでいた。男はそれをただ、見上げていた。
いつもと同じ月の明かり、ただいつもよりはずっとまぶしく感じられる。
男以外に人気は無く辺りは静かで、男はそれがとても寂しく思えた。
 だが、男は一人きりではなかった。
 静かに耳を澄ませる。すると、確かに男には聞こえるのだ。
 ・・・眼の奥で何かが蠢いている。


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           書物論1
               ヴァレリー著/緩瀬洋一・鈴木清一郎飜訳


 1書物
 
 もっぱら純粋主義ばかりにとらわれて、粗野なものに屡々陥りかねないことは
、たとえば具体的事柄をなおざりにして、目に見えぬものの中で甘んじ、身に纏
わるたしな嗜みもおざなりにする、法悦境、すなわち快適な住居もいとわぬとい
った態度にもあげられよう。精神主義は、物質は邪なものである、或いは醜悪な
ものであるという説法にすぐ首を縦にしてしまう。彼らにとって酒壜のかたちな
ど興味などさらさらなく、肝心なのは催酔効果だけであって、終いにはとんでも
ないへま醜聞までしかねない。精神には、他の追随への破壊衝動がふくまれ、そ
してその誘惑に身をまかせ、破壊と放火がまかり通ることもありうる。
 私自身とってみてもこういった狂信に近い衝動に駆られたことがなきにしもあ
らず、書かれていること以外は書物に対して一切軽蔑してかかった時だってない
ことはない。この方式に則れば紙屑に釘の頭をひっちゃかめっちゃかに捺したよ
うな紙面だってべつだん差し支えないことになる。私はこう考えていたのだ、粗
末な用紙、へた萎った活字、無粋な版面であっても、書かれていることそのもの
が魅力あるものであれば、精神的読者という輩は真に満足するにたるはずだ、と

 だが、好みは変わるし、嫌いなものだって変わるのだ。子供は牡蠣を好まない
。大人は往々にして幼い頃吸った乳に嘔吐をもよおす。もし私たちがより長寿な
ものであるとしたら、私たちの感覚の牽引と反撥の組み合わせをあますところな
く体験し尽くすだろう。偶像崇拝の一切を唾棄し、当初嫌っていたものについて
後々溜飲を下すことだって考えうる。
 私もさよう、不知不識のうちに書物のそとづら外面にたいしてさしたる軽蔑を
見せないようになった。この上なくすばらしい家具とともに鎮座し、あまつさえ
見劣りさえ窺わせぬ、高価な書物に私は賞賛を惜しまぬし、手にとり、頬ずりし
てやりたいという欲望に身を委ねそうにすらなる。ただし耽溺とまではいかない
。さもなくば自ら進んで辛酸を嘗めるものとなろう。
 小部数というのも、私の食指を動かすには値しない。そもそも珍しいというこ
とは、古書業界での話ならまだしも、まったくもって抽象的観念の域をでない。
眼で見ただけではその書物が天下一本の孤本だとは判然とせぬし、手で触れてみ
たところで格別の喜びがえられるわけでもない。寧ろ私は十九世紀に作られたご
とき、堅牢で〈快適な〉書物の方に傾くだろう。ほどよく余白を残しつつ、鮮明
きわまる大ぶりの活字で刷りあげ、くさぐさのカット飾絵で瀟洒にしたて、楚々
とした風あいに艶だしした犢の革でくるんだ、気品あるイン・クワルト四折版の
コルネイユ訳『キリストの顰に倣いて』、デカルト著『哲学原理』、『世界史論
』、或いは『変換史』にしても、こんにちでもまだ容易に手に入れることができ
よう。著者としてはこれ以上堅牢な刊本を望むべくもなく、また彼らがもちたい
と願っている真摯的読者の意にこれほど叶ったかたちもありえまい。ボシュエは
自分の著した品の印刷が気がかりでセバスチャン・マーブル=クラモワジー未亡
人に対して注文と監察を怠らなかった。ドニ・ティエリー、クロード・バルバン
が手掛けた、グラン・イン・クワルト大型四折本『エステル』『アタリイ』も、
やはりたいへん優秀なできばえである。だが、悲しいかな哉、これらの書物に私
たちは滅法思いを寄せることなどできはしない、というよりも寧ろ、ただ思いを
寄せることのみしかできない、というのもこれらの書物、右に記した造本に従え
ば、一六六〇年ごろすでに古書目録ではのきなみ五、六百フランの代価を要し、
さらにそののちもあらゆる品が同じ前途を辿った懼れが多分にあるからだ。
 しかし、活版印刷の領域においては、さらにすばらしき造りを呈すものもあり
、その雅致のきわみは「大革命」直前に印刷業にたずさわっていたディドーと、
その好敵手たるイタリアの勇、パルマのボドーニによって果たされたといってよ
い。いずれも比類ない鮮明ぶり、雅やかさをともに兼ねそなえた活字を創造して
いるのだ。ボドーニが上梓したラシーヌはつねづね私の垂涎おくあたわぬもので
ある。ボドーニの工房においとま来賓したスタンダールは、この造本芸術家の凝
りっぷりを些か茶化して描いているものの。
兄の方のディドーは独自の活字を考案・実現し、それによって彼の印行の手にな
ったさまざまな書物は不朽の生命を保ちつづけているといってよい。彼の仕事の
崇高さ、その技術の優秀さの上に『ラ・フォンテーヌ寓話譚』をはじめ数々の逸
品が睨下に上梓されるべく、下知された厳かな託宣は、国家支出にかんする〈旧
王政〉時代の掉尾を飾る美挙の一つにも屈せられよう。

2理想の書物

見るための版面と読むための版面はまったくもって別次元のものであり、いずれ
の一方に深慮すれば一方は疎かになる。たいそううるわ美しい書物でも私たちに
読む気をおこさせぬものもある、――真っ白な草原にたいそう立派なかたちをし
た黝い巌がてんでばらばらに配されている風な。行間の隙間を犠牲に獲得される
これら美術品の数々、すなわち白対黒の対称美は、イギリスやドイツにおいて旺
盛に追求され、十五、六世紀の幾つかのお手本を真似ることに終始した頃もあっ
たようだ、だがこれは読み手に鬱陶しい印章をのみ与え、忌憚なく申し上げて時
代遅れの感もいなめなかった。活字のぎっちり詰まった、かような窮屈なしろも
のは、近代文学には馴染みようはずがない。しかし一方で、たおやかな行間、た
いへん心地良くはあるが、雅致を欠いた、視覚的味わいのない、畢竟、醜いしろ
ものにもなる。
書物がもちうる、かような銘々自律した諸特質のゆえに、印刷技術もしかし、一
個の立派な芸術となりうるのである。ただ私たちの読む要に刈られた際に奉仕す
るだけなら、書物は芸術家の手をわずらわせるようもなく、何故というに読み易
さのための諸条件という奴は性格無比に明示すること、これ一点に限り、そのた
めに一定の手段をもちいさえすればそれで万事快調といった具合なのである。清
楚・鮮明な版面獲得に必要な活字彫師、植字工、さらに印刷工の職分をわきま弁
えるのに、経験と分析以外には必要ないとくる。ただし印刷にたずさわる人間が
自分の仕事の稠密さをおぼえだすや否や、即刻彼は芸術家達成こそが己の責務で
あることに気がつく、何故なら芸術家の真髄とは選出にあり、さらに選出は数々
の可能性に左右されるからだ。つねにその頂点に至るとは限らないにせよ、万事
まれ未確定な方向へ向かうものに芸術家に惹きつけられるものであろう。
芸術家兼印刷者は、己の創作品の合理性及び見栄えをほどよくととの調えること
、これに深慮すべき建築家的な、いささか込みいった立場に己が直面しているこ
とに気づく。詩人も然り、そのものの形態と描写とのはさまで、構想ともじり修
辞とのあわいで切磋琢磨する宿命を負っている。いかなる芸術においても(否、
だからこそ芸術であると言えるのであるが)、一点に収斂せしめねばならぬ銘々
自律した諸特質の配合と最終的調和は、法則を基には、或いは自動的にはけっし
て獲得しえず、ただ一種の奇蹟によって、或いは徹頭徹尾の労働によってのみ、
――もろもろの奇蹟とそして徹頭徹尾の労働とが縦横無尽に結束することのみ獲
得しうるのである。
読みやすく、しかのみならず見て愉しいとき、その書物は物質的に完璧である、
これすなわち、読書行為から鑑賞行為へ、そして鑑賞行為からふたたび読書行為
へ、それにかかわる微妙な視覚的変化に順応し、しなやかに移行しうること。か
ようなおり、頁の黒と白が、互に一方を引きたて、眼はよく調えられた領域を労
せずすべらかに移行し、全体と細部を鑑賞する上で、或いは己がそういった行い
をまっとうする上で理想的状態にあることをひしひしと感じる。活字彫師と印刷
者との協力以外にはかような感慨はえられまい。畢竟、全体の調和は活字から生
ぜせしめ、さらに活字はたんなる気まぐれによっては成りがたきものである。そ
の丈、巾、さらに細々とした字画のいずれについても、一文字全体の大きさに則
らねばならない。忌憚なく申し上げて、私としては一つの型の活字を様々な寸法
に拡大・縮小複製するのは間違いではないかとさえ思っている。印刷者の粋美と
は数々の微妙な難関、最大多数の、ややもすれば見落とされがちな機微に充ちて
いる。私はこれまで、ほんの一握りの特権階級の懐にかいくぐるためだけに精進
してきたというところを槍玉に挙げ、この手の匠たちを讒訴しようと企てた者を
知らない。一般大衆に靡かぬということから、世間は一部の著者を讒訴するくせ
に、だ。似たような事態でも他の芸術化連については心よく譲歩というわけであ
る。尤も、中には名匠ボドーニを半ば揶揄の的に挙げているスタンダールのよう
な輩もなきにしもあらず、といった具合だが。パルマに寄った手前、彼はぬかり
なく〈大公国〉の名のみ高き印刷所への謁見を乞うた。ボドーニは或る題扉の理
想的按配のために苦心惨憺の真最中だった。ボワローの著作のために彼が念頭に
おく正面玄関はいかにしてなしうるか? 「彼がものにした仏蘭西作家の品々をす
べて見せてくれたあとで」とスタンダールは回想している。「彼は私に向かって
どれがいちばんお気に召したのか、と訊ねた、『テレマック』か、ラシーヌのも
のか、ボワローのものか。私はどれもみなひとしく美しいと言った。――『そう
ですかね!』とボドーニは憤懣やるかたないといった具合に、『ボワローの題扉
が目に入りませんか?』――そこで当方は丹念に眺めた上で、この題扉が他の追
随を凌駕し完璧ともいえる箇所はどこにも見あたらぬよう思う、と最後につけく
わえた。――『そうですかね!』とボドーニはさらに声を張り上げて、『ボワロ
ー=デプレオゥという著者名が、全て大文字で一行にだけ込められておるでしょ
う! 苦節半年、やっとこの字配りを見いだしたのに!』――書名はかくのごとく
配され。」
  
CEUVRES
DE
BOILEAU-DESPREAUX

「凝り性も」とスタンダールは締めくくっている。「こうまでくるともはや滑稽
以外の何ものでもなく、いったいどこまで本気なのか疑わしい。」

かいつまんで言えば美しい書物とはなにをおいても第一に読むための完璧な一個
の道具たりえなければならず、その大儀は寧ろ生理光学上の法則と方式によって
規定できよう。その上で同時に一個の芸術品、品格をそなえ、特定の思考の烙印
を捺された、ゆるぎがたい巧みな配合、高雅流麗な趣きを忍ばせる品でなくばな
らない。印刷術にはできあい即席を排除すること、これをつねに肝に銘じなけれ
ばならない。これこそは無償の努力のたまもの、草稿や素描の累々を唾棄し、存
在と非存在とのあいだの妥協を断乎否定する、後世に残る仕事という芸術の至上
命題である。そしてここから私たちは重大な教訓を授けられる。
そこには著者の心意気がさながら印刷機が差し延べる鏡に映し出されたかのよう
な姿で生まれる。紙とインクが調和し、活字が鮮明で、行間の按配にも機微の行
き届いた、一点の曇りもない刷り上りのとき、自分の言葉と文章がその著者にと
ってさえまるで別個のもののように見違えよう。分不相応な一張羅を纏った気恥
ずかしさ。己が声よりも澄み切って、ほがらかで、確乎たる声が、朗々謳いあげ
、彼の言葉の一字一句のほころびさえもくっきり浮かび上がらせるように感ぜら
れ。彼の記した妙に空々しい、危なっかしく、女々しい箇所、独りよがりの箇所
があまねく浮き彫りにされ、あまりにも大きな声で讒訴される。贅沢な姿で印行
されることは、たいへん有意義な、だがたいへん恐ろしい審判にその身を曝すこ
とにも喩えられよう。

3『活版印刷一筋五十年』序

親愛なるカルドール
あなたが近ごろものされた小伝を、つい今しがた、すこぶる興味ぶかく読み了え
、こうして筆を摂らせていただきました次第です。
そしてわたくしは断言します、これぞまさに、印刷術のためにあるすばらしき小
伝だということを! なるほど、たしかにあなたのような才穎な印刷者なら、いつ
かはご自分の草されたものが印刷されてしかるべき、といったところでしょう。
そしてこれは、あなたにとってみればたんに脈々とつむがれるべき粋美の伝統で
ありましょうが、当方としてはむしろ自画像を描くチャンス好機を、ごく稀にし
かのぞみえぬ画家たちに往々にしてみられる伝統と似ているよう存じます。
あなたの生涯の、真摯的物語をこよなく愛する一読者として、あなたが描かれた
この自画像の中には、幼少時代のころからただひたむき一心に、あなたの生涯、
すなわちたった一つの職業の皆伝、このために切磋琢磨する姿が、わたくしの目
にありありと浮かぶのですが、そこにまたこの職業にたずさわることでまねく幾
多の波瀾とその繊細さぶりが、その途みち、絶妙な妙味としてほとばしるのです
。こんにち、活字組版における純粋主義とその調和とを、真に弁えておられる方
々がいっかな少ないことを、わたくしは存じ上げているつもりです。書物を眺め
る人は書物を読む人とひとしく韜晦なものです。人々はさよう、やがて書物と疎
遠になってしまうきらいもありえましょう。すでに作家とよばれている輩のうち
には、己の言葉をゆっくり手間暇かけて吟味する気力を失ってひさしく、それは
いわば他人の眼ざしが、汗と涙の結晶である己の作品のうわべ上面だけを掠めて
やりすごすさまを、作家自身が重々存じ上げていることの謂いでもあります。で
すが、わたくしたちの青春時代における、あの宿命めいたうるわ美しい辛苦や、
《急がば回れ》といった教訓、幸福感のたえまない円熟や、それになによりも作
品のためには惜しみなくその時間をさく魂のあの真摯を、最後まで護ることこそ
必要なのではないのでしょうか。
あなたとともにやり終えることのできた幾つかの愉しき仕事が思い出されます。
一昔も前にわたくしたちは一巻の美しい『オード』をものにしましたでしょう。
わたくしは、わたくしの詩句たちが、いっとう強靭な、そしてなによりもいちば
ん清楚な紙に刷られること、十行の詩節が、(八音綴、或いは七音綴のものもな
かにはありましょうが)一頁に二詩節といった具合で、かようなプティ・イン・
フォリオ小型二折版の真中に配され、一種の建築的効果をえられるようにし、そ
の効果を、ポール・ヴェラ(彼には、その飾画が版面におさまるよう、あらかじ
め言っておき)、このポール・ヴェラの手になる飾画でさらなる相乗を狙うとい
うのが、わたくしのたくら企みでありました。すかさず、あなたはすばらしいワ
ットマン木炭紙を手配し、わたくしに意向を乞うたわけですが、それがまた実に
強靭なこと。印刷機にかけるにあたっては充分湿し、やわらかくなめ鞣さねばな
らぬしろものでした。印刷のほどはもはや言うを待たないでしょう。詩人たるも
の、己の詩が、この上もない造本で上梓され、さながら世にも稀な美文にのみふ
さわしい装飾を施されることくらい、光栄なこともございませんでしょうし、ま
たなによりも不安なこともございませんでしょう。眺める愉しみと、反芻と反省
による愁いとが、こうしてわたくしの心の中で葛藤をはじめるのでした。
こういうといやはや、辛気臭い、しみったれたものにもうつりましょうが、わた
くしとしては、親愛なるカルドール、ただひたすら無垢なる良心的芸術家たる、
あなたの小伝が上梓されたことに対する、或いは当方にこうして成功を齎しめた
ことに対する畏敬の念を、ここに表明しておきたかっただけなのです。

(以下、次号)


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          編集後記
             秋元悠輔


「いさびの会」が発行する雑誌「肺」が、その前身ともいうべき「風飛葉日」
に引き継いで、しかも印刷媒体からはなれて、これは人にもよるだろうが、より
高次ともいえるメールマガジンで〈公刊〉される・・・・・・これほど悦ばしい
ことはない。5年前「風飛葉日」で書き手として参加していた当方が、かつて編集
を努めていた村上に引き継いで編集を請け負った次第であるが、そういった経緯
を含めて、あらためて特記すべきことは、あくまで「いさびの会」は誰をも拒ま
ないということであろう。おのおのの自己責任を重んじ、作品の制作および編集
の段階でそれらは公平に扱われる。その他の規約については公式ホームページで
つまびらかにされているので、多くを語るつもりは毛頭ない、だが、この「肺」
が、それにかかわるものすべてに多様であってほしいと願っていることだけはい
っておいて損はあるまい。

 さて、「肺」の創刊に際して、以上のようにかなりの原稿が集まった。これも
また悦ばしいことだ。便宜上、ジャンルを明記したが、それこそ電子の海に擲た
れた受取人不明のロマンティックな手紙のように、もっとざっくばらんに徹する
のもよかったかもしれない。翻訳、シナリオ、もちろん小説など、これらを平等
にかつ、そのデザイン上差別化がないよう、そしてまた品性を損なわない程度に
シンプルな掲載を行ったつもりであるし、今後もそうであるようこころがけたい
。いずれも華々しいデビューというよりは、それこそ慎ましやかでありつつも、
光に充ちた船出としては粒揃いであるといえよう。くりかえすようで慙愧に耐え
ないが、読み手もぜひこのメールマガジンにとって多様な存在であってほしい。
 編集に期して、めいめいの作家たちの紹介をすべきだろうがそちらも公式HPを
ご参照いただきたい。これから「肺」は、メールマガジン、HP、印刷媒体、流通
媒体などの多くのメディアや市場を横断する、いわばユーヴァーアトラングな記
号として、消費されるようになってほしい。というわけで、すでに冒頭のシナリオ
は某大学の映画制作サークルとの共同企画としてすでに連動しており、それら
は随時HPで更新される予定だ。その他にも公式HP内では、専属執筆陣による書下
ろしや、読者のバックアップを漸近的に進めており、ご閲覧をお待ちしている。
それでは第二号をお待ちいただきたく、頓首。


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○電子メールマガジン「肺」2004/05/25
 発行人兼編集人・秋元悠輔(いさびの会内「いさび出版部」内編集部帰属)
 発行母体・いさびの会
 製作・いさびの会「いさびユビキタス」計画局「肺」製作委員会
 同委員会委員・清水隆弘、松島由峻、村上翼

ご意見・ご質問・ご感想および投稿それにかかわる質問は →
qisabi@yahoo.co.jp
※このアドレスで直接扱いとなるものは「肺」の編集の前後にかかわることで、
投稿作家の作品の性質に前後するものは、こちらのアドレスから作家へと
通知されます。ご投函のおりにはその旨を明記してください。

「いさびの会」公式HP→http://www.geocities.jp/qisabi/hyoushi.htm

○このメールは『まぐまぐ』を利用して発行しております。
 変更・解除は必ずご自分で(代理解除はしません)
  → http://www.mag2.com/m/0000008424.htm
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- yu_suque aquimort-=-==-=-


以上がサンプルとなります。

ここにサンプルとして掲載したものは創刊号です。

 

「肺」についてのご説明へ帰る。