完全なる文章、

世界を補足し得る文章

 

 

 

鈴原 順

 

 

 ここで言う文章とは小説や随筆、それに論文など一切ジャンルを問わない。ただし僕は書くことだってそりゃあ稚拙だけど、喋ることに至っては全く不得手で、それはもう、どうしようもないくらいのもので意見するなんておこがましい、ここで言う文章とは基本的に、比較的まだ得意な書かれた文章のことである。

 僕が好きなのは世界を補足し得る文章だ。

 僕は世界のどんなことだって他の全てとリンクした存在だと思っている。そもそも存在ってのは、他者との関係だと思う。例えば美しい花はそれを美しいと感じる人間がいてはじめて美しいものだ。掌にじわりと浮かぶ一粒の汗だって同じだ。より早く走るために、あるいはより早く木に登るためには摩擦が必要だった。それが汗だ。かつて身の回りに多くの危機を存在させていた人間は保身の手段として、汗をかいた。汗は他者が存在しなければ、存在しないものだ。

 そんな有機的な世界では、何を描こうともそれは世界全体を捕捉しているのと同じなのだと思う。自分の幼児体験でも夏の空の描写でも、あるいは戦争の悲惨さでも、全ては世界にリンクしている。

 そこに描かれているものは世界への入り口なのだ。ただその入り口が幼児体験か夏の空か、あるいは戦争の悲惨さか、ただそれだけだ。だから僕はあらゆる文章の価値判断を、世界との関わり方において判断する。世界を捕捉しようとしている文章が好きだ。

 ただ、世界を捕捉するのだといっても、それは全てを描写しきるのではない。世界は無限の広がりを持つし、絶えず拡張を続けている。それに人によってその捕らえ方が全く違う。そんな化け物相手に正攻法は通じるわけがない。真っ正直に世界に挑む、なんてやったって、せいぜい奇妙な世界史が出来上がるのがオチだ。そもそも自分だって世界とリンクしているのだから。

 僕は本当に世界を捕捉し得る文章とは、かなり感覚的なものだと思う。大体、世界なんて捉える人によって全く違って見える、わけのわからない化け物だ。それを僕たちは編集して生きているのだと思う。全てが存在する世界をこっちから見たりあっちからみたり、決して全てを見ているわけではない。だからふとした瞬間に価値観ががらりと変化するなんてこともあるのだ。それまで嫌なやつだと思っていた人が実はすごくいい人だったとか、急に自分は幸せだなって思えてきたりとか。世界は編集の仕方、その切り取り方で全く違うものに見える。本来はみんな同じものを見ているのだ。しかしそれは馬鹿でかく、人間の把握する能力を超越してしまっているから、人間はその一部を捉えて全部だと勘違いしてしまう。だからこそ時としてとんでもない事件が起こるのだ。ある人にとって世界は人を殺さなければやっていけないようなものに見え、一方同じものを見ているのにある人にはそれがユートピアに見えたりする。世界はひつt、ただあまりに大き過ぎるのだ。そんな化け物を精緻に表現しようと思ったら、それはもう世界を創るしかない。

(さっきから、大体とかそもそもなんていう、ちょっと偉そうな否定的表現が多発しているけれど、もうひとつ、)そもそも文章を構成しているのは言語なわけだけど、言語なんて完全でも何でもありゃあしない、片輪な存在だ。そんな猫だましのような武器を持ってして、化け物に対峙するのだ、非常手段は避けられない。

 だから僕たちは感覚という手段を用いる。一人一人にとって異なる世界を捕捉する手段は、一人一人異なっていて当然だ。一般性を無理強いして貫こうとするから、気色の悪い、結局は何も意味を持っていないような、ぶよぶよした文章になってしまうのだ。そんな文章、糞食らえ。

 思い切って自分特有の世界の切り取り方を示すのだ。これが世界だ、と自信を持って描くのだ。真摯なまでに妥協しない突っ走った文章は不思議と人をインスパイアする。その原因を考えてみれば、それは人間、あるいは生物の一種としての人類が普遍的な共通点を内包しているからに他ならないだろう。駆け抜ける、緊迫感に満ちた文章をそんな人間は放っておけない。人々はその姿に心を震わせるのだ。

 何故ピカソやゴッホといった一見わけのわからない絵画はあれほどまでに価値あるものなのか(金額が高いってことではない。感銘を受ける度合いが高いということだ)。何故「存在と時間」や「わが闘争」は時代を超えて影響力を持つのか。それは危険なまでに鋭利に世界を切り取っているからだ。その徹底振りは残酷なまでだ。

 切りとられた世界からは血が流れ、その血がわれわれを共鳴させる。

 だから世界を補足し得る文章は時として自己完結的な傲慢な文章として、あるいは結論がないだとか、わけがわからいといった批判にさらされる。勿論、真に感覚によってのみ描かれた文章は全くわけがわからなくなってしまうはずだ。しかしあくまでも文章なのだ。いくつかの制約がある。それが受け入れられなければ、絵画や彫刻、演劇など無数に存在する他の分野へと移って行けばいい。

 その制約と、その制約さえも打ち壊してしまうかのような暴力的な文章、そのぎりぎりの妥協点に存在するのが、世界を補足し得る文章であると考えるのだがどうであろう。

 

 文章とは何か、それは文章を書く以上、考え続けなければならないテーマだと思う。今後とも継続的に考えを暖め、お目汚しをしていきたいと考えている。最後までありがとう。

 

 

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