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「書物鑑」

ヴァレリー著 / 真田敬祐・鈴木清太翻訳

 

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「書物鑑」ヴァレリー著/真田敬祐・鈴木清太 翻訳

 

目次

T「書物」

U「書物、二つの美点」

V「V『活版印刷一筋五十年』序」

W「純白の紙」

X「書物の容姿」

訳者後書

 

 

書物

 

 もっぱら純粋主義ばかりにとらわれて、野蛮なものへと屡々遡行しかねないといったことは、たとえば具体的事柄をおざなりにして、目に見えぬものの中に甘んじ、身嗜(みだしな)みにすら無頓着で、安らぎの境地、すなわち快適な住居も辞するといった志しにもあげられよう。精神主義者、かれらは物質は邪なものである、或いは醜悪なものであるという説法にすぐ首を縦にふってしまう。彼らにとって酒壜のかたちなんぞに興味などさらさらなく、肝心なのは催酔効果だけであって、終いにはとんでもない醜聞(へま)までしかねない。精神には、他の追随への破壊行為もふくまれており、ゆえにその誘惑に身をゆだね、破壊と放火がまかり通ることもありうる。

 私自身とってみてもかような狂信的に近い衝動に駆られたことがなきにしもあらず、書かれていること以外書物に対して一切軽蔑してかかった時だってないこともない。してみると紙屑に釘の頭をひっちゃかめっちゃかに捺したような紙面だってべつだん障し支えないことになる。私の考えはこうだ、粗末な用紙、(へた)った活字、無粋な版面であっても、書かれていることそのものが魅力あるものであれば、精神的読者という輩は真に満足するにたるはずだ、と。

 だが、嗜好は変わるし、嫌いなものだって変わるのだ。子供は牡蠣を好まない。大人は往々にして嘗て吸った母乳(ちち)に嘔吐をもよおす。もし私たちがより長寿なものであるとしたら、私たちは感覚の牽引と反撥の葛藤をあますところなく経験しつくせよう。偶像崇拝の一切を唾棄し、当初嫌っていたものについても後々溜飲を下すことだって考えうる。

 私もさよう、上知上識(しらずしらず)のうちに書物の外面(そとづら)にたいしてさしたる軽蔑を見せないようになった。この上もなくすばらしい家具らとともに鎮座まします、あまつさえ見劣りさえ窺わせぬような、高価な書物に、私は賞賛を惜しまぬし、手にとり、おもわず頬ずりしてやりたいという欲望に身を委ねそうにすらなる。ただし耽溺とまではいかない。さもなくば自らいさみいさんで辛酸を嘗めるものとなろう。

 小部数という売文句も、私の食指を動かすに値しない。そもそも珍しいということは、古書業界での話ならまだしも、まったくもって抽象的観念の域をでない。一目見ただけではその書物が天下一本の孤本だとは判然とせぬし、手で触れてみたところで格別の喜びがえられるわけでもないからだ。寧ろ私は十九世紀に上梓されたごとき、堅牢で〈快適な〉書物の方に(かたむ)くだろう。ほどよく余白をそなえつつ、すこぶる鮮明で大ぶりの活字で刷りあげ、くさぐさの飾絵(カット)で瀟洒にしたて、楚々とした風あいに艶だしした(こうし)の革でくるみこんだ、気品ある四折版(イン・クワルト)のコルネイユ訳『キリストの顰に倣いて』、デカルト著『哲学原理』、『世界史論』、或いは『変換史』などは、こんにちでもまだ容易く手に入れることができよう。著者としてはこれ以上堅牢な刊本を望むべくもなく、また彼らがもちたいと切に願っている真摯的読者の意にこれほど叶ったかたちもありえまい。ボシュエは自分の(もの)した品の印刷を杞憂し、セバスチャン・マーブル=クラモワジー未亡人に対して注文と監察を怠らなかった。ドニ・ティエリー、クロード・バルバンが手塩にかけた、大型四折本(グラン・イン・クワルト)『エステル』『アタリイ』も、やはりすこぶる秀逸なできばえである。だが、悲しい(かな)、これらの書物に私たちは思いを寄せることなどゆめゆめできはしない、というよりも寧ろ、ただ思いを寄せることのみしか叶わない、というのもこれらの書物たるや、右に記した造本に従えば、一六六〇年ごろすでに古書目録では軒なみ五、六百フランの対価を求め、そののちもありとあらゆる品が同じ前途(みち)を辿った懼れがたぶんにあるからだ。

 しかし、活版印刷の領域においては、さらにすばらしき造りを醸すものもあり、その雅致のきわみは「大革命《直前に印刷業にたずさわっていたディドーと、その好敵手たるイタリアの勇、パルマのボドーニによって果たされたといってよい。いずれも比類ない清澄さ、雅やかさをともにかねそなえた活字を創造しており。ボドーニが上梓したラシーヌはつねづね私の垂涎おくあたわぬものである。ボドーニの工房に来賓(おいとま)したスタンダールは、この造本芸術家の凝りっぷりを些か茶化して描いているものの。

兄の方のディドーは独自の活字を考案・実現し、それによって彼の印行の手になったとりどりの書物は滾々と上朽の生命を保ちつづけているといってよい。彼の仕事の崇高さ、その技術のすばらしさの上に『ラ・フォンテーヌ寓話』をはじめ数々の逸品が睨下に上梓されるべく下知された厳かな託宣(みことのり)、これは〈旧王政〉時代の掉尾を飾る、国家支出云々にかんする美挙の一つにも屈せられよう。

理想の書物

見るための版面(はんづら)と読むための版面はまったく別次元のものであり、いずれの一方に深慮すればもう一方は疎かになる。たいそう(うるわ)しい書物でも私たちに読む気をおこさせぬものもある、――真っ白な草原にたいそう立派なかたちをした黝い巌がてんでばらばらに配されている風な。行間の余白が止揚してはじめて獲得されるこれら美術品の数々、すなわち白対黒の対称美は、イギリスやドイツにおいて旺盛に追求され、時には十五、六世紀の幾つかのお手本を真似ることに終始した頃もあったようだ、だがこれは読み手に鬱陶しい印象をのみ与え、否、忌憚なくいって時代遅れの感もいなめなかった。活字のぎっちりつまった、かような窮屈なしろものは、近代文学に馴染みようはずがない。しかし一方で、たおやかな行間、たいへんここちよくはあるが、雅致を欠いた、視覚的妙味のない、畢竟、醜いしろものにもなろう。

書物がもちうる、かような銘々自律した諸特質のゆえに、印刷技術も屡々、一級の立派な芸術となりうるのである。ただ私たちの読む要にかられた際に奉仕するだけなら、書物は芸術家の手をわずらわせるようもなく、何故というに読みやすさのための諸条件という奴は性格無比に明示すること、これ一点に限り、そのために一定の手段をもちいさえすればそれで万事快調といった具合だからである。清楚・鮮明な版面獲得に必要な活字彫師、?字工、さらに印刷工の職分を(わきま)えるのに、経験と分析以外のお節介にはならぬときた。ただし印刷にたずさわる人間が自分の仕事の稠密さをおぼえだすや否や、即刻彼は芸術家達成こそが己の使命であることを悟る、何故なら芸術家の真髄とは選出にあり、さらに選出は数々の可能性に左右されるからだ。なべてがその頂点に至るとは限らないにせよ、万事まれ波瀾に満ちた方向へ向かうものに芸術家は惹きつけられるものであろう。

芸術家兼印刷者は、己の創作品の合内容性及び見栄えをほどよく調(ととの)えること、これに深慮すべき、いささか込みいった建築家的立場に己が直面していることに気づく。詩人も然り、そのものの形態と描写とのはざまで、構想と修辞(もじり)とのあわいで切磋琢磨する宿命を負っているのだ。いかなる芸術においても(否、だからこそ芸術であると言えるのであるが)、一点に収斂せしめねばならぬ銘々自律した諸特質の按配かげんと最終的調和は、法則を基には、或いは自動的にはけっして獲得しえず、ただ一種の奇蹟によって、或いは徹頭徹尾の労働によって、――もろもろの奇蹟とそして徹頭徹尾の労働とが縦横無尽に結束することによってのみ獲得しうるのである。

読みやすく、しかのみならず見て愉しいとき、その書物は物質的に完璧である、これすなわち、読書行為から鑑賞行為へ、そして鑑賞行為からふたたび読書行為へ、その前後にかかわる微妙な視覚的変化によく順応し、しなやかに移行しうること。かようなおり、頁の黒と白とが、互に一方を引きたて、眼はよく調えられた閾を、労せずなめらかに移行し、全体と細部とを鑑賞する上で、或いは己がそういった行いをまっとうする上で理想的状態にあることをひしひしと感じられよう。活字彫師と印刷者との協力以外にはかような感慨はえられまい。畢竟、全体の調和は活字から生ぜられ、さらに活字はたんなる気まぐれによっては成りがたきものである。その(たけ)(はば)、さらに細々した字画のいずれについても、一文字全体の大きさに則らねばならない。さらに忌憚なくいって、私としては或る型の活字を様々な寸法に拡大・縮小複製するのは誤りではないかとさえ思っている。印刷者の粋美とは幾多の微妙な難関、最大多数の、ややもすれば見落とされがちな機微に充ちている。これまでに私は、ほんの一握りの特権階級のお膝元に懐柔するためだけに精進してきたというところを槍玉に挙げ、この手の(たくみ)らを讒訴せしめんと企てた者を知らない。一般大衆に靡かぬということから、世間はいつの時代でも一部の著者を讒訴してきたくせに、だ。似たような沙汰(こと)でも他の芸術化連については心よく譲歩というわけだ。尤も、中には吊匠ボドーニを半ば揶揄の的に挙げているスタンダールのような輩もなきにしもあらず、といった具合だが。パルマに寄った手前、彼はぬかりなく〈大公国〉の吊のみ貴き印刷所への謁見を乞うた。ボドーニは或る題扉の理想的配置のために苦心惨憺の真最中だった。彼が念頭におくボワローの著作の為の正面玄関ははた、いかにしてなしうるか? 「彼がものにした仏蘭西作家の品々すべてを見せてくれたあとで《とスタンダールは回想している。「彼は私に向かってどれがいちばんお気に召しましたかね、と訊ねた、『テレマック』か、ラシーヌのものか、それともボワローのものか。私はどれもみな斉しく美しいと言った。――『そうですかね!』とボドーニは憤懣やるかたないといった具合に、『ボワローの題扉が目に入りませんか?』と――そこで当方としては丹念に眺めた上で、この題扉が他の追随を凌駕して完璧といえる箇所はどこにも見あたらぬよう思う、と最後につけくわえた。――『そうですかね!』とボドーニはさらに声を張り上げて、『ボワロー=デプレオーという著者吊が、全て大文字で一行にだけ込められておるでしょう! 苦節半年、やっとこさこの字配りを見いだしたのに!』――書吊はかくのごとく配され。《

 

 

 

 

 

 

 

?UVRES

DE

BOILEAU-DESPRÉAUX

 

 

 

 

 

 

 

「凝り性も《とスタンダールは締めくくっている。「こうまでくると最早滑稽以外のなにものでもなく、いったいどこまで本気なのかさえ疑わしい。《

かいつまんで申せば理想の書物とは、まず第一に読むための完璧な一個の道具たりえなければならず、その大儀は寧ろ生理光学上の法則と方式によって定められよう。その上で同時に一個の芸術品、品位をそなえ、特定の思考の烙印を捺された、ゆるぎがたい巧みな配合、高雅可憐の趣きを忍ばせる品でなければぬ。印刷術においては即席(できあい)を排除すること、これをつねに肝に銘じなければならない。これこそは無償の努力のたまもの、草稿や素描の累々を唾棄し、存在と非存在とのあいだにある妥協を断乎否定する、後世に残るための芸術の至上命題である。そしてここから私たちは重大な教訓を授けられる。

そこにはさながら印刷機が差し延べる鏡に映りこんだかのような姿で若輩の心境が宿るのである。紙とインクが宥和し、活字が鮮明で、行間の按配にも機微のゆきとどいた、一点の曇りもない刷り上りのそのとき、自分の言葉と文章がその著者にとってさえまるで別個のもののように見違えよう。分上相応な一張羅(したて)を纏うこの気恥ずかしさ。己が声よりも澄み切っていて、ほがらかで、確乎たる声が、朗々謳いあげ、彼の言葉の一字一句のほころびさえもまざまざと浮かび上がらせるよう感ぜられ。彼の記した妙に空々しい、危なっかしく、女々しい箇所、独りよがりの箇所があまねく浮き彫りにされ、耳を聾すような声で讒訴される。贅沢な姿で印行されることは、すこぶる有意義な、だがいっぽうで世にも恐ろしい審判(さばき)に己が身を曝すことにも喩えられよう。

『活版印刷一筋五十年』序

親愛なるカルドール

あなたが近ごろ(もの)された小伝を、つい今しがた、すこぶる興味ぶかく読み了え、こうして筆を執らせていただきましたしだいです。

そしてわたくしは断言します、これぞまさに、印刷術のためにあるすばらしき小伝だということを! なるほど、たしかにあなたのような才穎な印刷者(おかた)なら、ご自分の草されたものもいつかは印刷されてしかるべきでしょう。そしてこれは、あなたにとってみればたんに脈々とつむがれるべき粋美の伝統でありましょうが、当方としては寧ろ自画像を描く機会を、ごく稀にしか臨みえぬ画家たちに屡々みられる伝統と似ているよう存じます。

あなたの生涯の、真摯的物語をこよなく愛する一読者として、あなたが描かれたこの自画像の中には、幼少時代のころからただ一心(ひたむき)に、あなたの生涯、すなわちたった一つの職人芸の皆伝、このために切磋琢磨する姿が、わたくしの目にありありと浮かぶのですが、そこにまたこの職業にたずさわることであじわう幾多の波瀾とその繊細さぶりが、その途みち、絶妙な妙味としてほとばしるのです。こんにち、活字組版における純粋主義とその調和とを、真に弁えておられる方々がいっかな少ないことを、わたくしは存じ上げているつもりです。書物を眺める人は書物を読む人とひとしく韜晦なものです。人々はさよう、やがて書物と疎遠になってしまうきらいもありえましょう。すでに作家とよばれている輩のうちには、己の言葉をじっくり手間暇かけて吟味する気力を失ってひさしく、それはいわば他人の眼ざしが、己の汗と涙の結晶である作品の上面(うわべ)だけを掠めてやりすごすさまを、作家自身がかさねがさね存じ上げていることの謂いでもあります。ですが、わたくしたちの青春時代における、あの宿命めいた(うるわ)しい辛苦や、《急がば回れ》といった教訓、幸福感のたえまない円熟や、それになによりも作品のためには惜しみなくその時間をさく魂のあの真摯を、最後まで護ることこそわたくしたちには必要なのではないのでしょうか。

すると、あなたとともにやり終えることのできた幾つかの愉しき仕事が思い出されます。一昔も前にわたくしたちは一巻の美しい『オード』をものにしましたでしょう。わたくしは、わたくしの詩句たちが、いっとう強靭な、そしてなによりもいちばん清楚な紙に刷られること、十行の詩節が、(八音綴、或いは七音綴のものもなかにはありましょうが)一頁に二節といった具合で、かような小型二折版(プティ・イン・フォリオ)の真中に配され、一種の建築的効果をえられるようにし、その効果を、ポール・ヴェラ(彼には、その飾画が版面におさまるよう、あらかじめ言っておき)、彼の手になる飾画でさらなる相乗を狙うというのが、わたくしの(たくら)みでありました。するとすかさず、あなたはすばらしい木炭紙(ワットマン)を手配し、わたくしに意向を乞うたわけですが、それがまた実に強靭なこと。印刷機にかけるにあたってはじゅうぶん(しめ)し、やわらかく(なめ)さねばならぬしろものでした。印刷のほどはもはや言うを待たないでしょう。詩人たるもの、己の詩が、この上もない造本で上梓され、さながら世にも稀な美文にのみふさわしい装飾を施されることくらい、光栄なこともございませんでしょうし、またなによりも上安なこともございませんでしょう。こうして、眺める愉しみと、反芻と反省による憂いとが、わたくしの心の中で葛藤をはじめるのでした。

いやはやこういうと、辛気臭い、しみったれたものにもうつりましょう、が、わたくしとしては、親愛なるカルドール、ただ無垢(ひたすら)なる良心的芸術家たる、あなたの小伝が上梓されたことに対して、或いは当方にこうして成功を齎しめたことに対する畏敬の念を、ここに表明しておきたかっただけなのです。

 

純白の紙

白は、たとえば蝿を靡いて、おびきよせ、狂喜狂乱させる。あまつさえそこでかれらはそのちいさな手でなにかを書こうとしてみせる・・・・・・。

白はまた、かの幾千のちいさな(エスプリ)らさえも懊悩させる――そしてその幾千のかれらこそ、それらいちれんの騒擾と結合、さらに闘争によって精神(エスプリ)というものを(つむ)ぎあげているのだ。

絶対の純粋はかれらをいらだたせる。わたしたちの目を介してなにひとつかかれていない純白の紙をみるや、かれらは世界が永続的であるかぎり大成はもはや己が掌中にあったも同然とさえ自負するさまざまなものにとってかっこうの牙城(ねじろ)ともいえるこの無垢の砂礫を、自分たちの結合、遊戯(たわむれ)(うたげ)で満たしてやりたいと思わずにはいられない。

かれらはこれらを前途洋々なことがらだと自負しているが、その実それはこの砂礫を汚す破目にもなろう。

さらに忌憚なくいって、純白の紙はその純白さによって、なにものをも存在しないということほど美しいものはない、ということをわたしたちに告げているようなものなのだ。その白いひろがりの、(あやかし)の鏡の上に、魂は記号と線とをもちいて纂ぎうるとりどりの奇蹟のさまを、それを前にしてみいだすのだ。

上在のものの、この現前こそが、ペンによるかようなとりかえしのつかぬ行いを、烈しく刺戟するとともに麻痺させるわけだ。

ありとあらゆる美は、そのうちに触れることを許さぬ禁忌性を秘めており、そこから或る神聖なものがほとばしり、金縛りにし、今まさになにかをしようとしかねぬものを戒める。

だが終に手は英断する。そして、競技者が潔くその卓上の上にカードを擲つように、或いはチェス盤の上で白歩兵(ピオン)の一手を打つように、人は、与えられた純粋さ、(まごうことな)き可能性の領域にいさみいで、呪縛を解き放つ言葉や線をつづるのである。

書物の容姿

書物、この奇妙な存在は、開閉の如何によっていとも容易くその性質を、百八十度変貌させてしまう。

わたしたちがそれを繙こう、その途端書物はおもむろに語りかけてくる。そしてそれを畳む、すると書物は眼前には最早物以外のなにものでもなくなる。してみると、これほど人間に似たものもないともいえよう、何故というに人間とは一概には、一個の容貌(すがた)であり、色彩であるのだから。だからその声にわたしたちは胸打たれ、畢竟、その声に言霊が宿るや、わたしたちのそれと溶けこむのだ。

人間には容貌が、すなわち眼で見、肌で感ずる姿形があり、それは書物も然り。たとえば卑近なものがあったり、独創的なものや、醜いしろもの、なごむもの、退屈なもの、はたまた瀟洒なものもあるわけである。繙かれた刹那に弄されるその声とは、してみると頁のための紙、頁における版面、版面を形成する活字、そのほどよく稠密な、ほどよく調えられた活字が一躍収斂されたその容姿ではなかろうか? しかのみならず、書物の声は、すべての声がままそうであるように、屡々人々をあざむくこともあろう。すなわち読書行為が開始され、版面の内に込められた精神が曝けだされるや、あの初めのころの薫陶がすっかり霧散するというわけである。

装幀家の職業とは、これすなわちかような閉ざされた書物の容姿の創造にある。装幀家はまず第一にその一個の書物がやがては負うこととなりうる種々(くさぐさ)負荷(おもに)に耐えうるだけの造形(つくり)を、一つの肉体を受肉させねばならない。ゆえに装幀家の役目は明瞭に限定される、すなわち先述したような声や精神とは完全に一線を劃した機械的作業内に。してみるとどのような書物の装幀をしているのかさえ自覚せずとも、或いは文盲たれども、一個の書物の装幀にはなんら差し支えあるまい、いっぽう読者は、その効用性、堅牢さ、そして値段以外に鑑みることはあるまい。書物とはたんに要求(のぞみ)に応えるものであり、これについては、読者も創造主も斉しく異論はなかろう。だがこの時点では、視力と触覚は、二次的或いは平俗的役目をしか果たしていない。しかし乍らわたしたちの精神は、めいめい異なった命を授かり、異なった食指に導かれている。一端眼が自分自身にとっての書物という視座をもつや、装幀の芸術は、その職業的役目から解き放たれる。こうした段階をもってこその芸術なわけだ。

若かりしころ、一年以上ものあいだ装飾のことがわたしの心でその首を擡げていた。ありとあらゆるところから自然発生的に、まさに破竹の勢いで頭角をあらわす、このとりへだてて原始的な産出行為以上に、悩ましいものはない。雑草のごとく道具や器具、建築物に武器に衣裳にと、あらゆるものに蔓延(はびこ)り、風土や人柄によってそれは十人十色の貌をみせる。それは、あらゆる生命やものごとなど斉しく原始的で自然発生的な存在を象りたいと思う神秘的本能が、たとえば竪穴式住居爾来、わたしたちを、それら人や獣をみごとに描いてみせるようと駆りたてたという点で、ご紊得いただけよう。

(けだ)し、わたしたちの眼というものは、虚空や、まっさらな穹窿、いちめん真一色の平面をそぞろにぶらつくことにもどうやら耐えられぬとみえ、一点の曇りもないそこに、わたしたちの眼ざしがそうみえてほしいと思うものを顕現せしめんことを、いわば反作用的効果を、そのうちに秘めているようだ。これは普遍的現象であり、蓋し、これこそわれわれの感受性の一法則にも挙げられよう。独りぼっちで、なにもすることのない人は、そのやるせなき倦怠にあらがおうとする。想い出、歌、独り言、そしておそらくは哲学――これらは現実的目標にむけて実行にうつす要がないことの所産(ゆえん)である。

しかしここにこそ驚愕すべき結合が生まれる。かような倦怠、閑暇、矢鱈にうつろいゆく時間が一方であのまっさらな穹窿であるとすれば、それは初めは単調な行為を孕むだろう。反復、或いはたんなる平行線、散在する点、それに伸びゆく唐草模様、――これらの総体がこれらを支えるものの外見を豹変させ、つつましやかなまでに同じモチーフの反復のみによっても、一種の充足感を狡猾にも導きえるだろう。さよう、冴えぬ風土、淡黄褐色や灰色の瓦礫の上に芽ばえた一株のちいさな苗が、はぐくみ、すみやかな循環運動(サイクル)で眺望をたちどころに一新させ、満たし、とりどりに、花やぎ、風に(そよ)ぐ、家畜群にとってすこやかな安住の地となりうるのだ。

《わたしたちの眼ざしがそうみえてほしいと思うもの・・・・・・》

これこそ装飾の純粋かつ簡潔な原理である。眼はなにも識らない。眼が色彩や光の粒子に作用するのにたいして、その睨下に物体や用途を識別するのは眼のそれではないからだ。それはさながら、耳について、異国の言の葉を弄され、それゆえその調べにのみ審美がいくばかりで、理解の是非を問う演説の意味に際しては、耳が無縁であるのと同様、はなから意味、作用、識別のいずれにかんしてもなんらその責務を負わない。かような無垢なるばあいから端をはっしてこそ、芸術とは創造を(つかまつ)り、我が鍾愛の品々をこの目に灼きつけたい、かような欲求により終ぞ己れの掌中にある(まごうことな)き一世界を見いだすことができるのだ――すなわち対称(シンメトリー)や、対照(コントラスト)階位(ヒエラルキー)に顛倒、明暗、相似といった世界、たえずうちふるえつつ、己れのうちに凝結した宇宙。そのうちにおいて欲求は己れの欠乏を充たす。だがよしんば・・・・・・

一瞬(ひととき)の夢だけではことたりぬと(のた)もうのなら、こうした貪婪が充たされる否かについては、断言は控えさせていただきたい。だがいずれにせよ、その刹那にわたしたちの五感の餓えが癒されることはあるまい。わたしたちが歓喜と呼んで久しいこの奇妙な、神秘的な糧が、畢竟眼福となろうためにはまずもって行為が先に千余しなければならないからだ。原材料と(わざ)、力と抵抗が現実世界にたぐいまれな一物体、たぐいまれな一配置を作らしめんと沙汰(こと)を始めねばならない。それは現実的用途からはなれた、創造にたいする歓喜によってしかなしえない――なにごとも歓喜によって成就()しうるとしての話だが――物体乃至配置なのである。

芸術とは行為にある。だが例外的行為にそれは宿る。そして外的条件の如何によって芽の出るものとはいえない、あまつさえ喰っていく上での必要上によって、或いは有効性の云々によって。いわば無用ということにこそ積極的性質がみいだせよう。他方、芸術的行為は自由意志の如何にかかわることであり、それを凌いでこそ勝ち(どき)をあげることができるのだ。畢竟、わたしは芸術家の意図乃至努力は副次の必要性と有効性、この創造にあると、その核心を突くために、敢えてここに託宣申し上げたい。すなわち第一に無用の用たること(或いはそれがなかろうが生きていく上でいかなる支障をもきたさぬ非―存在性)、第二に、天下一孤のものであると思わしめること、こうした感覚的物体、それをわれわれはという。

以上のことがらと、それを躍起させんとつとめる創造的行為は、まずなにをおいても人間性と動物性とを二分する二つの神秘的特長であり、これらによって人間自身もまた、これを欲し、思い、創造しようとするか否かで二つの類型にも分けられよう。動物は奢侈贅沢なんぞに身を窶さぬ、遊びなんぞいわずもがな――動物のそれは本能と密接にかかわっているゆえ、ゆめゆめ過ちをまねくこともなく、また徒労や失敗をまねくこともない――だが、こうした筆禍は芸術という吊の遊びに興じる人間には屡々おこりうるものである。芸術家は足を踏み外しやすく、それどころかなにごとかをおこなう人間のうちでも俄然(あやま)ちをまねく類型でさえある。あらゆる面でとらえどころがなく、挙句の果てには、いいしれぬ、成功というものが自動性(オートマティスム)という志しをその心から奪いさる。

とは言え、この志しは先述のことがらと相い容れねばならない。先のことをかいつまんでいえば、装飾とは、その五官が銘々虚空を前に自由に感応する、己れの潜在意識内特有の行為、その感受性の自発的所産であるといえよう。それは、とりどりの色彩の総体が矢継早にその補色となってひらかれてゆく、或いはまた殆んど知覚することさえままならぬほどの変容をたどってうつろいゆく、濃淡から濃淡へ、やがては色価から色価への、そのたおやぎにも喩えられよう。さよう、運動性の領域でもそれはじつに単調な律動(リズム)だ、だがそれはおしなべて自動性を有している。意思が反映されることはまずありえない。これらの中心(かしら)に鎮座する権威者は、はじめ己が手をわずらわせようとはしないのだ。人は気贐に想いを巡らし、無意識下にひそむ主題(テーマ)をなんとはなしに口ずさみ、さしたる宛てもなく、とりどりの糸を(つむ)ぎあげる。そのさなか五官と行動器官とのあわいで容喙するものなどいはしない。ゆえにその行いのうちに停止もなければ停滞もない。もしなにがしかのおり、人がこの自由意志であるとともに機械的な――すなわち、その器官的機構においては、なんら束縛されていない――手(すさ)びの歴々を鑑みるや、己れの行いを内省し、一層の向上につとめんと胸にいだくこともありえよう。そしてここで芸術自体がはらむ諸問題が姿をあらわす。これらは相反する難儀な二範疇に峻別できよう。第一は、すべてが曖昧模糊とした企図にたいしての、精神の破棄上可能な自由にかんするもので、なんら必然性のない、いや寧ろ、刺戟された想像力が未知数に形成し変容した可能性がそこにある。第二に、現実的行動、そして物質的・慣習的条件がその枷にもなる束縛がある。

 ここに一つの矩形がある。装飾をほどこすものにとって屡々かせられるものの最たるお題目が、その表面(おもて)のお召し合わせにある。扉、框の壁、開き戸、その周囲(ぐるり)、題扉、そしてとどのつまりは、表紙。どうすべきか?寸法はさだめられている(と仮定して)、縦横の比率もまたしかり。素材にかんしてはいわずもがな。どうすべきか?空白がある。これは自由だ。比率と素材、そして屡々適合性も問われる、こちらは束縛だ。逡巡の一瞬(ひととき)。このときこそ自由こそが寧ろ困難性をそこに宿す。どうやってこの進退両難からまぬがれよう?行為の最初の障害は、障害の欠如である。

いともたやすく、それこそ即座に思い浮かべることは、主軸たる対角線をその矩形に引くことで、めいめいの辺の中点を結び輪郭をきわだたせることだ。この短絡的装飾だけでことたりるばあいもなきにしもあらず、或いは、さよう、幾何学的道程を経巡って、矩形に菱形を穿ってみせることもできよう。この菱形が楕円を暗示し、その軸になろうこともありうる。

だが、これらいちれんの行いは、創造を前にしての忌避、一種の無力乃至自信の欠如を端的に吐露しているといってさしつかえあるまい。ここに一つの大きな誘惑がある。それは記憶のなかで容喙する。すでにわたしたちが知っているところのものが、多かれ少なかれ陰険に、ときにはいやにこざかしく変装をほどこして姿をあらわし、わたしたちに既成の装飾観念をことづてする。その〈惰性〉の悪魔は、もうそれ以上のことなどできはしない、〈師〉の教えに背いてはならない、資料に忠実であることを畏れてはいけない、と耳元で囁く……。保証済の価値を顧みるなとは言わない。それは自殺行為というものだ。軽蔑するものは軽蔑することを教える。かといって《正反対》のものを作り出すべく苦心惨憺して、それらを支えにするのも賢明とはいえない――こういったことがらは屡々見られよう。そして《逆模倣》は模倣よりひときわ手におえない。全き芸術家の新の肯定は寧ろ作品に先だつ深い想念、その理想そのもの、しかのみならず《倫理》を裏づけている、その深い想念のうちにのみあるのである。

 

 

装幀芸術の前口上として、是非ともこうしたことがらについて、あらためて考え直す必要があった。わたしは先述のとおり、こうした芸術には段階があると申したが、これらの段階は、芸術家が己れの身をそこに寄せている範疇にたいして抱いている観念によって(物質的完成度――だれもがすばらしいと思う――ではなく作品の観念自体に)あきらかにされる。なかには自分がなんの芸術をもっぱらその範としているのかさえ失念してしまっている輩もなきにしもあらず。わたしは、まったくの外面的傑作、つまり取るに足らぬ書物を包みこんだ、目も絢な装飾を施された鞣革、モロッコ革、(こうし)革などを否定はしない、だが、かくて内容から独立した包装は、それゆえに如何なる書物にでもおかまいなしにいくらでも施すことができる(ときにはこうした包装に所有者の(しるし)が附されることもある。その結果、ご存知のとおり、非常に美しい、時には奇を衒った風な装飾ができあがる――紋章、座右の銘、印章など、こうした装幀は、さる著名人の旧蔵品として純粋に歴史的価値をそこに宿すが、これは今わたしたちが(あげつら)っている芸術とはまったく趣きを異にしている)。わたしが今いったようなばあい装幀家のなべては一冊の書物の表っ(つら)を作りだすということ一点にしぼられ、その書物の肉体と魂の間には、ふさわしき相補的関係などありはせず、一巻の書物がひもとかれ、語りだすや、装幀家はその勝負を放棄したも同然となる。

 

 

ここでこのふさわしさという点について、間々見かける奇怪なことがらをご披露さしあげたい。わたしは人皮装幀の黒魔術や?神の弥撒(ミサ)のための典礼定式書を閲し、一種のおののきをもってそれを我が手におもねたことを思い出す。このおぞましき書物の背には、一房の毛髪もそなえつけられ。ここには、いっさいの芸術が皆無に等しいだろうが、あきらかに、この呪わしい書物の身の毛も弥立つ外見と地獄の内容とのあいだに世にも痛烈なる一関係がもうけられていた。

さらに別の例もある――これは先の例とはまったく趣きを異なってはいるものの、たいへん堂の入った愛書家が珍本の創作に思いを馳せるあまり書物とそれに召された装幀の主機能を失念してしまったときにおちいる滑稽な一例である。エドモン・ド・ゴンクールは、友らの(もの)した初版本を羊皮紙で装幀させた上で、その表紙をその作家にもっともふさわしかろうとおぼしき画家たちによって描かれた肖像で飾ることにした。ドーデにたいしてはカリエール、ゾラにはラファエリといった具合に……劃してそれらの書物は繙くことを禁じられた、なぜというにそれらに少しでも触れようものなら劣化を招くため、未来永劫、硝子棚の肥やしにせしめねばならぬしろものだったからである……。果たしてそうしたことがらが書物の真の運命たりえようか?こうした某迦げた危険に愛書家はじっさいに曝されていると言わねばなるまい。断裁済の紙(テモアン)を不ぞろいのままに《大版》の製本をおこなうことほど愚かしく、且つ醜いものはない。この贋の《証言》の滑稽なまがいもの趣味は、当世趣味流行(ばやり)のさなか盛んにくりかえされるようになった。真の趣味、これ書物の道徳のあいだに一種の均衡を希求せんものなり。

 

 

ポール・ボネ氏の探究心と、そしてわたしたちの眼前に与されたその成果は、効果的側面において嘗てわたしが示唆した芸術の最高点に愈々たっしようとしているとさえ思わせる。芸術の最高点、これは先述(主張さえもした)のとおり、一つの作品にたいする人間的能力の収斂の、参加ということのみごとな成功のうちにのみ宿る。

ボネ氏は、書物の《容姿》とは、その胚因並にしかじかのものであるという存在意義を、その作品が一躍ひもとかれたおりに語ろうとしていることを、表しめんことであると――さながら、読者の眼ざし、口唇、知性にたいして弄しようとしている作品自身の精神、文体、内的生命が、一躍書物の外装の睨下に下されているかのごとく――理解し、その証明にいそしんだのだ。

だがしかし、これがしごく簡単で、なんら危険もなくとりくみうる業だと、ゆめゆめ思ってはならない。安易な糸口があることもわたしは重々存じ上げている。革の上に紋章を箔押しする、或いは内容の真意に叶った挿絵を描くことなど。それになによりもこうした種の過ちや醜聞も間々小耳に挟むこともある。だが、芸術家ボネは、こうしたことがらに背を背け、類推(アナロジー)の冥利な方向へとそのいそしみを向けたのである。

書物の容姿と声とのあわいに求められるべきもの、それは相似(シミリチュード)ではなく、まさしくボードレールが(少々スウェーデンボルグの意を果って)《交感(コレポンダンス)》と呼んだものである。(たとえば)或る文面の挿絵が、一種直接的翻訳、いわばかなり限定された一操作によって文面から演繹されるのに反して、その文面に叶った装幀とは、一種共鳴でなければならない――それは目的達成をめざすものにたいして、かような感情的諸力に応えそれを創造行為の秩序のうちにみたしうる(すべ)、そのすべてをそなえた繊細な感受性を要求する。

氏の様式の推移は、以上のことを鑑みても、きわめて多くのことをわたしたちに示唆している。作品から作品へと、一種の洗練、探究の変化、技法清楚化――そうしていくうちにもいくつもの新技を見出し、効果のより一層の理解をめざすことで確乎たる豊饒さをその身に獲るのだ――がみとめられる。これぞまさしく古典主義的道筋である。ご周知のとおり文学におけるそれへの漸近は語彙の削除によってなしうる――使用単語数の減少、が、いっぽうでそれはとりどりの使用法をそのうちに孕ます。そしてこの《道具》の減少こそ、精神の真の資源、単純化と結合の能力をいやまさせる兆しなのである。

氏はこんにち人口に膾炙し、もて囃された――忌憚なくいってわたしはあまりこのましいとはいいがたいが――くだんの革のモザイクの匠技を放擲しているようにおもわれる。そして、氏は《箔押器(フェール)》によって、もはやそれが永らくその魅力を喪って久しいとおぼしき金色(こんじき)の罫線や箔型によって、個人的意見としてはさまざまな色を寄せあつめるよりはるかに斬新で、しかのみならず魅力的配合をたたえている。儚いほどに繊細な幾何学の上に氏の配合はなりたっているとおぼしく、わたしには装幀芸術にたいし、第三の曙星をみひらかせる印象をうけた。わたしは物理学が作図しうる図形の(わたしは《力点》を示す図のことを念頭においている)うちに装飾にとって前代未聞の根源をかいまみて久しい。そこにはじつに前途洋々たる創造の未来がある。だが、こうした数学的範疇の開拓によってえられる富がいかほどのものであろうとも、趣味性と感受性とがそれを凌駕し、内的な自己同化を果たさねばならない。

わたしはここでとりわけ深い感銘をうけた氏の才気ゆたかな特殊な応用例を、失念し語らずして了えられようか。たとえば、装幀はきわめて微に入り細を穿って施されているのにもかかわらず、その上の箔文字は憂鬱なまでに、あつぼったく押捺されていていかにも雅致に欠いているものが屡々みられる。いっぽうボネ氏が優雅典麗にして清楚鮮明なる、その物体の総和と活字の調和をみいだそうと苦心惨憺したことは、わたしにとって氏の積極的功績のひとつとして称えられるべきものであるようおもわれる。この〈物体の総和〉という献辞によってこそ、或るもっとも高貴なる理想の存在の証明に一役かった、その奮闘と功績とにたいするわたしの敬意と称賛とをたたえずしてどうして筆を()きえよう?書物に十全たる価値を与し、書物の潜在的人格とも一致した可視的人格ともいいうる生の容姿を与せんとする確乎たる意志は、装幀家がその胸にいだくことがあたうるもっとも高貴な企てである。

だがしかし、氏によってなされたあまたの廉価本にほどこされた鍾愛の厚紙装幀にふれずしてどうして筆を()きえよう?一般読者はたいそうご満悦らしい。拙作のいくつかを、その明るく繊細な装飾によって彩られることをなしおおせたわたし自身はと問われれば、あまりに魅いってしまうゆえ、ときにはそれらを再びひもといてみたい誘惑に駆られることを、ここに告白しておこう。

 

 

 

 

 

訳者後書

 

 〈海皮フランスでは生涯の盟友、イギリスでは一、二週間の賓客……〉これは、嘗てオスカー・ワイルドをして〈神々しき趣味人〉とまで言わしめた著述家にして愛書家、そして類い稀な造本家であったアンドリュー・ラングの言葉である。フランスでは、版元は上質の紙に、長もちするインクで程好く余白をたたえつつ、それに調和するかたちで活字を埋めるにすぎず、いわゆる〈余白哲学〉に徹し、もっぱらその〈表〉である装幀にはまずふれることはない。表紙はお世辞にも美的側面を欠いた、無粋な黄表紙が殆んどである。〈下着姿のみすぼらしい女性〉という人も時にみうけられる(わたしはこの姿にもじゅうぶん魅力をかんじるのだが……)。それらを購った読者にその装幀はゆだねられ、装幀家にたのんでこころゆくまでその鍾愛の書物を飾りたてるrelureの伝統がそこには著しく根づいている。いっぽうイギリスやドイツでは然にあらず。版元装幀を範としたそれらは、人文科学や自然科学の刊本が主であったためかは判然とせぬも、堅牢一徹の、箔押布装釘本が一般的で、まさしく図書館ゆきのしろものであった。だが、臥薪嘗胆、かのウィリアム・モリスのケルムスコット・プレスやセント・ジョン・ホービーの「アシェンデン・プレス」などの私家版工房によって、総ヴェラム装、木版多色刷りという贅美をつくした版元装幀本がイギリスにおける〈理想の書物〉づくりに一縷の光明をあて、くだってコブデン=サンダスンの「ダヴズ・プレス」やナンサッチ・プレスによってそれらは市井の人々に敷衍化され・齎されたのである。……

 

 

さて、今回、フランスは二十世紀、近代の〈明晰の鬼〉ポール・ヴァレリーによる書物にかんするくさぐさの随想を編纂し、ここに〈書物鑑〉と題し、訳したわけであるが、そこには〈用の美〉たる《理想の書物》の如何をフランスの伝統に染め抜かれた感性でみごとに著され、嘗て「和本」という独自の冥利な美本から明治の文明開花にともなう中途半端な西欧化によって、生半可な「版元装幀」の伝統がこんにちにまで根づいている日本における〈余白哲学〉を刷新する好個のものであるといえよう(ヴァレリーもまた、こうした〈純粋主義〉に徹した、みごとな限定本を数々ものにし、それらは海皮で万金の値を呼んでいる)。夢二、清方、雪岱などによって生まれた、日本の伝統を汲みつつも版元、装丁家、刷師、印刷師とつらなる分業の〈工芸美本〉とも称すべき独自の装幀本の伝統はいずこやら、こんにちにいたっている。二十一世紀、いまや新しき流通媒体を確立しつつある中で、〈純粋主義〉という旧弊的思想の中に、いまだ汲むべきものを一縷の光明をかえりみて、ここの訳出した次第である。

 

 

収録作のうち、「書物」、「書物、二つの功徳」、「純白の紙」「「活版印刷一筋五十年」序」は全て『書物私観』propos sur le livre, Societe des Bibliophiles francais, 1956からのもの。前者のうち前二品は、全八章都合十一節の集中、第一章「書物および自筆稿本について」四節の内の前二節、後二品はそれぞれ第二章、第三章にあたり、前者は一九四四年、ニコラ・ルイ・ロベールによる製紙機械発明百五十周年に供された草稿であり、後者はその同題の著作への賛辞の書簡のかたちをとりつつ序文として附されている。これらはとりわけ書物にのみ、その食指が動いているものを選んだ次第である。また『書物私観』には、書物と著者および挿絵の密接な相関を包括的・放射的に述べた好著で(じっさい、「純白の紙」などは、かの記念祭のおり、その草稿をみずから〈純白の紙〉に浄書して、その複製を発表するというautgraphの芸術的側面を体現しようとしていたらしい、が、ヴァレリーはそれを果たせず世を去った)、いつしか完全なかたちでの翻訳を望んでいる。「書物の容姿」のみは装幀家ポール・ボネのカタログPaul Bonet, Librairie A. Blaizot, 1945の賛辞としてふされたものである(こちらは同年、同ブレゾ書店より非売品の別刷愛書家向として限定上梓されている)。

翻訳にさいしてはGallimar版全集を定本とし、書物の用語の選定には、八木佐吉『書物語辞典』、草人堂研究部編『装釘の常識』、プレーガー『最新製本術』などを随時参照とした。遺漏があればこれをのちに正して、読者にお送りいたしたい。

 

 

 

 

 

 

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公開開始日:平成十七年一月三日

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