相対化という小説の

意義

 

 

鈴原 順

 

 

  

 

 

 小説を何のために読むか。そんなことに屁理屈をこねるなという意見を覚悟しつつ、それでも小説好きでない人々がそう感じているのは確かだ。小説なんてくだらない、エンターテイメントが欲しければテレビドラマや映画があるし、実用書の必要性はわかるけれど小説って何よと考えている人は小説好きの人が考えている以上に多いはずだ。そこで小説を好いている側のひとりの人間として、小説の意義を客観的に考察することにした。小説読むのに理屈なんてと思わずに、まあ、お読み下さい。

 そもそも人間とは自己を相対化出来る存在である、なんて書くと小説嫌いの人は往々にして文章そのものが嫌いなのだから、読むのをやめてしまうのだろうね。このアンビバレンツ。

 人間は自己を相対化するっていうのは、言葉尻を捉えると難しそうだけれど、案外と簡単なことだ。そもそもこれは二十世紀最大の哲学者といわれるハイデガーの考えなんだけど、哲学が難しそうなのは、普段当たり前に感じていることを対象としているからなんだ。日常生活をしているときは当たり前って感じていることを改めてさも大層なことのようにほじくりかえされると、えっ、なにそれって混乱してしまう。何故人間はモノを視覚出来るのかを科学的に説明されてもふうん、と感心はしても、その複雑なシステムが自分の顔に埋まっているという実感はない、それと一緒だ。あまりに身近過ぎて、学問の対象になるなんて思っていないことほど、実は理解しにくい。だから逆に一度わかると、なんだそんなことかよって、すとんっと理解出来るんだ。

 話を筋に戻すと、人間は自己を相対化出来るって言うのは、今の自分以外の自分も想像できるってことだ。例えば今パソコンをしているとしても、人間っていろんな自分を想像出来る。昨日の今頃はテレビ見ていたっけ(過去の自分)とか、明日はもっと早く寝よう(未来の自分)とかあるいは今頃あいつはゲームでもやってんのかなって他人の立場に立ってみたり。他にも犬の気持ちに立つことさえ出来る。それが相対化だ。今の自分が絶対ではなく、様々なコースの中から今の自分を選択しているということだ。これって人間に生まれたい上多くの人にとって当たり前のことだ。ところがこれは人間固有の能力で、他の動物には出来ないことなのだ。つまり犬にとって昨日の自分も明日の自分もないわけ。他の犬の立場に立つことも出来ない。ただ今の自分が唯一の自分だ。

 その意味で人間にのみ死が存在するって言われている。だって生きているうちは死が存在するわけないし、いざ死んでしまえば科学的には何かを手にするなんてありえないし。

 当たり前だけど、人間は誰一人本当の死を経験することはない。だけど、僕らは死を知っている。それは何故か。それは他の人の死を目の当たりにして、その「死」という立場に自分をおいてみるからだ。あるいは死んだ自分っていうのを想像してみるからだ。そうして僕らは死というコースの自分さえ経験できる。だからハイデガーは人間は死を意識しなければならないっていうのだ。人間と他の生物との差っていうのはその相対化出来るかどうかなんだけど、中でも死っていうのは、さっき言ったように絶対にリアルには経験できない。つまり人間にしか「死」を経験することは出来ない、だからこそ死をしっかりと意識して生きなければならない、それが人間らしいあり方だって話は進むわけだ。まあ、ハイデガーのこの考えをよく知りたい人は岩波新書から木田元氏が著した「ハイデガーの思想」っていう、とてもわかり易いいい本が出ているから参考にして欲しい。僕もこの本を読んでやっとハイデガーの考えが、ぼんやりとだけどわかってきたものだ。

 さてハイデガーの話はこれくらいにしておいて、本旨に戻ろう。

 ずばり小説の意義、それは自己を相対化することだ。小説を沢山読むことによって、人間は沢山の自分のコースを経験するようになる。「死」に限らず、ハイデガーのいうように人間は沢山、自分を相対化しないといけない。そうして一人前の、いろいろな見方の出来る人間になるわけだ。人の痛みや人の考えをわかることの出来る人間に成長するはずだ。

 もっというと世界はそもそもひとつだ。ただしそれは馬鹿みたいに大きく、人間の把握力をはるかに超越している。だから人間はその一部しか見ることが出来なくって、しかもここが人間の最大の欠点だと思うんだけど、それが世界の唯一の世界だって思い込んでしまっている。

 ところがそうではないんだ。世界はひとつだ。だからふとした瞬間に、新しいモノが見えてくるってことがある。それまで嫌だ嫌だって思っていたものが、急に楽しくなったりする経験は誰にだってあると思う。それはまるでそのものが変化したように目に映るけれど、そうではない。ただあなた自身が世界の見方を変えたんだ。

 この考え方を田口ランディさんはその著書「できればムカつかずに生きたい」(晶文社)で「編集」という概念で紹介している(「人生を再編集する試み」)。そう、編集だ。僕たちは世界を編集してみているのだ。ただその編集の仕方が人によって違うから違って見えたり、編集の仕方を変えてみると全く違うモノに見えたりする。

 ところが人間はそんな自分で編集した世界を、自分で切り取った世界を唯一絶対のものだ思ってしまう。それがどうしてだかはまた別の機会に書くとして、それはとても悲しいことだ。だって本当は全てが存在しているのにその一部を全体と勘違いして絶望したり、ぬか喜びしてしまうのだもの。世界はひとつ、馬鹿みたいに大きいから自分では捉えられないけれど、いろいろな編集の仕方がある、そう思えたらきっとすごく幸せな生き方ができるのだと思う。

 そしてその有効な手段が小説を読むということではないだろうか。これまでずっと書いてきたように小説を読むと自分を相対化出来る、そして様々な世界の見方を捉えることが出来る。そうやって沢山の視点を手に入れることが馬鹿みたいに大きな世界を捕捉する唯一の法則だと思うんだ。そうして捉えた世界は完全で、大抵の人間そんなに愚かでも嫌なやつでもなく実はちょっと悲しいんだってことがわかってくるのではないかな、そうしたらきっ僕たちに世界は優しいし、僕たちは世界にやさしく出来る。

 以上が、本論だ。だから小説を読むことは、人間に生まれたい上、絶対に必要なことなんだと言いたい。より素敵に生きる手段なのだと言いたい。

 さて、以下は予想される反論と質問に応えるモノにしよう。

 恐らく、これを読んで多くの人は思うはずだ。自分を相対化するというのが大切だということはなんとなくわかった、それが幸せな生き方に繋がるということも大体は納得出来る、しかしだったらドラマや映画だっていいはずだ、小説に限らずそういうものに親しんでおけば、わざわざ小説でなくても、色んな経験が積めるはずだけれど。

 ところが、そうではない、違うのだ。小説とドラマや映画とは違うのだ。決してどちらが偉いとかそういうことが言いたいのではない。性質が違うのだ。テレビや映画といった映像のフィクションは、視覚や聴覚で捉えられる。そういうものに感情移入することはそう難しくない。その人間の動きや周囲のモノを見ているうちに何となく、わかってくるものだ。

 ところが小説、つまり言語で構成された世界ではそうはいかない。大体、言語で構成された世界は穴だらけだ。そこらへんにある小説をどれでもいい、手にとって見てくれ、そして一読してみてくれ。

 読んでみたかい。それでは問題。その小説の舞台の季節はいつだった?続いて第二問。主人公の洋服の色は?更に第三問。主人公の身長はいくつだった?

 かなりじっくり読み込んでみても、これらに即答できる人はいないのではないか。大体、これらの情報がいちいちしっかりとは書いていない場合が多い。「彼の身長は一メートル七十五センチで体重は六十キロ」なんて説明を新しい人物が登場するたびにやっていたら、そんなもんうるさくって、話に集中できないっての。

 ところが映像ではただ枯れ木があるだけで秋なんだってわかるし、洋服の色や背丈はただ見ていればわかる。その点、小説ではいちいち書かねばならないのだ。それに、例え、懸命に描写しようとしたって自ずとそこには限界がある。どんなに頑張って空の色を描写しようとしたって、その正確さにおいては映像には敵わないのである。

 つまり、最初に書いたように、文章には穴がある。その穴を自力で補わなければ、移入は難しい。与えられた情報から様々に推測し、ある意味世界を創る作業が小説に移入するには必要だ。勿論、映像にだって全てが描かれるわけではないけれど、その想像=創造しなければ度合いははるかに多い。これは、より高度な移入と言えるのではないだろうか。

 こう反論に応じて見せると、すかさず質問が来るはずだ。より移入しづらいモノへ移入するのが、高度だというのなら、同じ小説でも普通な人物、例えばサラリーマンや大学生の登場する現代ものうよりも、SFや時代小説といったまるで現実と関係のない者ばかりの小説に移入するが高度なのではないであろうかと。それでは、ふるってお応えしよう。そうとは言えないのではないか。

 そりゃあ宇宙人とか、非生物である岩石や植物に移入できたら大したものだ。しかしだからといって、SFや時代小説が頂点とは言えないと思う。寧ろ移入し易そうに見えて実は、大変に難しいのが、普通の人なのではないであろうか。

 例えば剣道において素振りは一見簡単に見える。あんな、刀を振り回すくらいのこと、素人だって出来るじゃないかと思うものだ。剣道にはもっと難しい刀さばきや足さばきがあるではないか、素振りなどではなく早くそういうものをやりたいものだ、剣道をはじめたばかりの者はそう考えるようだ。

 しかし本当にそうなのだろうか。そうではない証拠に、技を沢山持った名人や師範と呼ばれる人ほど、実は入念に素振りを繰り返すものだ。簡単そうなものほど奥が深い。小説においても、これが言えるのではないかと思う。だから一概にどの小説が移入しにくい、ということはないと思う。

 以上が僕の相対化という側面から見た小説の意義である。勿論、小説の意義がこれだけだとは言わない。もっともっと多くの、それこそ途方もつかないような意義があるはずだと小説好きの僕は思っている。

 しかしこうして屁理屈をひねっていくうちに小説好きがひとりでも増加すればと思う。それだけ言うならひとつ読んでみるか、と考えてくれたらと思う。あるいはこの屁理屈が新たなる小説の生成に繋がるのではないかという夢想をしつつ、これで終わります。今後もまた新たなる意義を、懲りずに書いていこうと思う。最後までありがとう。ところでさ、しつこいようだけれど、ほんとにさ、小説はいいもんだと思うよ。

 

 

 

◎ ライブラリー「肺々」へ帰る→