「スタイルの問題」 第一章・スタイルのス

 

 

鈴原 順

 

 

  

 

 惇一は頭を手で覆い身体を丸め、やだやだやめてよとおろおろ声で呟き続ける。それを五人の少年が取り囲んで見下ろしている。惇一の頭や腹を庇うという本能的な防衛的体勢がまた彼らに舌なめずりさせる。それは強姦する者が被害者が泣き叫べば泣き叫ぶほどに欲望を膨らますのと同じ原理だ。やだやだやめてよと惇一は一定のキーで呟く。その声は懇願としての役割を果たしていない。それどころかこれまた五人の少年とそれを見守るクラスメイトたちを触発するBGMとなっていた。もしかするとこの声には一種の閾下効果があるのかもしれないとヤマトはにやつく。惇一が呪文のように懇願を始めてから彼の身体は疼いていた。教室内のエントロピーも高まったように感じる。ゲームにおいてBGMは欠かせないのだ。

ケイイチは惇一の頭の近くに立って惇一を見下ろしている。彼はメンバーの中で最も背が高く色黒の顔は精悍に引き締まり彫りの深い顔はモデルのような相貌をしている。そして彼はそれを自覚し、同時に自分の格好よさは自他の認めるところだと自覚している。ケイイチは惇一の頭を上履きの先っちょで突付いた。惇一がそれに反応してひいっと喉の奥で悲鳴を上げて一層丸まる。そんな様子に五人は一斉に笑う。「ひえって、なあ」ケイイチはおどけた様子で惇一を真似てみせて笑いをとる。なに叫んでだよ。さっきより強く蹴りこむ。惇一は再び小さく呻く。だせえ声だしてるんじゃねえよ。

「うわっ。こいつ泣いてるぜ」足元から見下ろしていたヤマトが叫んだ。その声にまじでとケイイチが応じる。頭の方からは頭部を保護しようとする惇一の手が邪魔になって顔が見えない。おい。手どけろよ。見えねえじゃねえかよ。ヤマトが足で惇一の手を蹴り上げる。惇一の顔が露わとなった。「ほんとだ。泣いてやがるぜ」だっせえ。てめえほんとに男かよ。ほんとに男かって聞いてるんだよ。惇一はすすり泣くだけだ。おいてめえなに無視してるんだよ。おい惇一い。にやけながらカゲイチが惇一に馬乗りになる。惇一はそんなカゲイチの身体を手で突っぱねようとするがそれは幼い子どもがただ悪戯に腕を振り回すのと同じで威力などはゼロに等しく、ましてや学校中で最も力の強いカゲヤマを止めることが出来るわけもない。おっ一応生意気に抵抗すんじゃん。カゲヤマが笑い一同笑う。カゲヤマは惇一の両手首を左手で床にロックする。純一の抵抗は気配が感じられるだけで力としてケゲヤマの手に負荷がかかることはない。おい。カゲヤマやっちまえよ。こいつを男にしてやろうぜ。ウチタケが変声期を向えていない声を上げる。よしやるか。カゲイチが両手を掲げポーズを決める。いえいやっちまえ。ウチタケが叫ぶ。ケイイチとヤマトは笑い転げている。ウチタケが調子に乗ってマイクを持っているかのごとき手つきで叫ぶ。ええ。みいなさまあお待たせいたしましたあ。こぶしをまわして格闘技のレフェリーの真似だ。爆笑が起こる。いいぞウチタケ。青コーナー、悪の化身スズキジュンイチいい。教室中で一斉にブーイングが起こる。教室の片隅では女が中心となって死ねコールが起こっている。ひでえ女どもだとヤマトは彼女たちを思う。彼女たちは成績も優秀で適当になんでも出来る、教師の信頼も厚い連中なのだ。ストレスって奴かとヤマトは思う。だがそんな様子にヤマトが反感を感じているかといえばそれは逆、自分たちのゲームが受けていることに満足する。そして一層大声で惇一は糞だなどと叫んで見せる。

ひとしきりクラスメイトからの罵詈雑言が済むと続きましてええ赤コーナー、正義のヒーローカゲヤマあああ。カゲヤマコールが起こる。カゲヤマやっちまえ。カゲヤマあ。指笛も聞こえる。おいレフェリー早くしろ。カゲヤマが舌なめずりをしてみせる。おおっとケゲヤマやる気充分です。今日も彼は血に飢えていますとウチタケが合いの手を入れる。カゲヤマに馬乗りにされた惇一は相変わらず呻き足をばたつかせて抵抗している。その愚直な動作の反復は一見哀れみを惹く行動にも感じられるが、こと惇一からその気配は感じられない。寧ろクラスメイトたちは一刻も早く惇一がカゲヤマの餌食になればいいとの思いを募らせている。ミズノはこの状況にやや興味を抱く。どうしてこれ程までにやられながら誰一人として同情を抱くことがないのだろう。どんなクラスにだってひとりくらいはいじめられる者に同情を抱き、庇う者がいるはずなのだ。ところがこのクラスでは誰もがいじめを心から享受している様だ。もちろん中には眉をひそめている者もいるが、それがスタイルに過ぎないことをミズノは知っている。とはいえこのクラスが特別に非情な連中の集まりだということも考えにくくこの疑問はなかなか複雑な様相を呈する。だが理由はどうにしろその方がいいとミズノは思う。これはゲームなのだ。ゲームには常に絶望的な敗者が存在しなくてはならない。絶望的な敗者なしには完全な正義が存在し得ないのだ。敗者は誰もが敗者と認識できる適度に敗者然としていた方がいい。それでこそゲームは非現実性を増し、いよいよ盛り上がるというものだ。

それではあラウンドワン。はいっ。ウチタケの合図が掛かるや、カゲヤマは空いている右手で惇一の頬を打った。ぱあんと音が響く。惇一の首がまるでそこに力など一切存在しないかの如く、スプリングのように弾ける。ウチタケが叫ぶ。早速決まったあ。教室の男の多くが歓声をあげ思わず一歩舞台へと近づく。女の半分も同様の反応を示す。中には明らかに恍惚感を覚えているような顔もある。カゲヤマは張り手を繰り返し、それが冗長になりそうになったところで首を絞めてみたり肘関節を極めてみたりしている。だがミズノの視線はそんな舞台でなくそれを囲む観客に向けられている。ミズノは五人の中ではじめから一人やや離れたところに立っていて直接惇一に触れてもいないし騒いでもいない。彼は冷静な瞳をしているが、その現状から乖離した状態に気がつき不信感を抱く者はない。それはもちろんミズノがそうであるように自身の位置に注意しているかに相違ない。今やクラスメイトは繋がり合い祭りの熱気に満ちていた。彼らは男女の差も勉強や運動の優劣の差もなく笑い転げ囃し立てていた。手を取り合い、肩を叩き合っている。その様子にミズノは視線を注ぐ。

てめえほんとに男かよ。嗚咽混じりの泣き声を恥ずかしがりもせずに上げている惇一にカゲヤマが言う。いくら手加減をしているとはいえカゲイチの関節技や絞め技を含んだ打撃は激痛な様でカゲヤマの一動作一動作に惇一は叫び、涙を飛散させる。てめえあれついてるのかよ。ウチタケがにやにや笑って言う。あれって何だよカゲヤマ。決まってるじゃねえか。なあ惇一ちゃん。生殖器だよ。生殖器。男性生殖器さ。クラス中の多くの男が笑い、野次を飛ばす。多くの女は眉をひそめつつ視線を輝かせている。ウチタケが爆笑してけたけた笑う。先週チェックしたときはあったけど、今はどうかなあ。もうなくなったんじゃねえか。なっ。惇一ちゃん。よしじゃあチェックしてやるよ惇一。定期検査だ。どれどれ。カゲヤマが惇一のズボンに手を入れる。その手は腰からじわじわと股間へ進む。惇一がそれまで以上に抵抗してみせる。やだよやだよ。やめてくれ。足をばたつかせる。これには女の多くもきもおいなどと言いながら、笑いを表に出すことが出来る。ケイイチが言う。おいどうだ。カゲヤマ。今日もちゃんとあったか。ちょっと待てよ。もう少しだ。カゲヤマの手が惇一のズボンを膨らませる。おっ。ちゃんとあるぞ。再び教室が爆笑に包まれる。ほんとかよ。しっかり調べろよ。ウチタケにヤマトの声も重なる。そうだ。裏までチェックしなきゃ安心は出来ねえよ。ケイイチの言葉にカゲヤマは頷く。確かにそうだ。ケイイチの言うとおりだ。惇一。お前はいい友達を持ったな。こんなにお前のことを心配しているぜ。まあな。ケイイチが照れて見せて、笑いをとる。そうだよ俺たちいい友達。ウチトモも負けずと奇声を発して笑いをとる。

 そんな様子をヤマトはうんざりと見守っている。またはじまったよ。ヤマトはカゲヤマに腹立ちを覚えていた。せっかくのみんなのゲームにてめえの趣味を持ち込むんじゃねえよ。その怒りの矛先は無邪気に爆笑しているウチタケとケイイチにも向けられる。てめえらはカゲヤマ以上の大莫迦だぜ。なにげらげら笑ってやがる。ヤマトはカゲヤマが同性愛者であることを見抜いていた。てめえらは、とカゲヤマの手つきに掛け声などかけているウチタケとケイイチに毒づく。あの目つきを見てねえのか。てめえらの目は節穴か。カゲヤマの目は明らかに欲情しているじゃねえか。それにあのおかしな体勢は勃起を隠そうとしてのことじゃねえか。

 カゲヤマは怪しく手を動かしながら、ヤマトの見たとおり目を潤ませている。惇一の生殖器をいじくりたくっているようだ。そんなカゲヤマに対ししつこく惇一はやめてやめてと言い続けている。だが両腕はカゲヤマの左手で押さえつけられていている。カゲヤマが性器をつねるか握り締めたらしく惇一が悲鳴を上げた。いよいよレイプだとヤマトは思う。カゲヤカは今、正に恍惚感を味わっていた。彼の左手には惇一の両腕がなんとかして逃れようとしている力が伝わってくる。その腕は生白くか細い。青い血管が浮き立っている。指もひっきりなしに動いていている。特に小指の脆さはエロチシズムを感じさせる。また彼の臀部には惇一が激しく足を振り上げ下げしている力が止むことなく伝わってくる。そうだ惇一。もっともっと抵抗しろ。もっと早くもっと激しくだ。そうして俺を興奮させてくれ。

 しばしその状態が続き、教室内を野次歓声が走る。

 カゲヤマがエクスタシーを充分に堪能したらしく、立ち上がったのを見計らってヤマトが言った。教室はカゲヤマの長い性器への愛撫にやや鼻白んでいた。てめえのせえだぞ。ヤマトがカゲヤマを睨みつけるが、彼はそれを知ってか知らずかそっぽを向いてウチタケと肩を叩き合っている。よし。だったら俺が再び盛り上げてやろう。

「おい。惇一ちゃんが疲れているってよ。そのロッカーの中で休ませてやろうぜ」

 ウチタケがナイスと叫びケイイチが「いいねえ」とヤマトに笑いかける。「早く惇一ちゃんを休ませてやろうぜ」クラスメイトたちの間に再び熱気が生じるのを感じる。よっしゃあ。カゲヤマが叫ぶ。惇一は依然として身体を丸めたまま床に横たわり、ぐったりとした様子で細かく震えている。目は半開きでその様子にきもおいと女たちが叫んでいる。じゃあ俺が頭を持つからよ。カゲヤマが言う。じゃあ俺が左に入るから、ウチタケお前が右に入れ。ケイイチは背中だ。四人は再び興奮を体内と体外に感じながら惇一を囲む。惇一は自分の身に新たなる恐怖が訪れたことを知り、身体を固くする。カゲヤマが有無を言わさぬ力で惇一の頭部を抱え込むようにして持ち上げる。そこで生じた肩と床の隙間にヤマトは腕を差し、起き上がらせる。惇一は足をばたつかせ抵抗を試みる。声を上げ動作は大きいが、だがそれはやはりヤマトたちの動作を阻むには至らず、彼らの心中の炎を煽るだけだ。こいつ本当にこれっぽちしか力がないのかとヤマトは思う。だが惇一の身体は非常に軽く、これならこの非力さも納得できる気がする。極端な非力さもさっきから続く懇願同様に時と場合によっては同情を誘って然るべきだのに、非情ないじめをする上で気分を賦活させる意味はあれど、その手の感慨が湧くことはない。惇一を四人で立たせると教室の隅に置かれている掃除道具入れの長細いロッカーに惇一を押しこんだ。惇一は最後の抵抗とばかりに両腕をロッカーの縁に突っ張ったが、ウチタケが肘を下から突き上げ敢え無く、ロッカーに入れられる運びとなった。

惇一の目は黒目がちだ。それは人間の道具として存在する愚かな犬の目を連想させる。その目玉が恐怖に更に散大し忙しく左右に動いている。その動きはどこか人をかっとさせる。ドアを閉めがてらヤマトは触発されて、思わず鼻っ柱を殴りつけた。惇一がひいっと喉の奥で悲鳴をあげて倒れこむ。鼻血を出している。いいパンチじゃんとケイイチが言い、クラスメイトがヤマトと同一化しているとばかりに歓声を上げる。

 ロッカーを中から叩く音が響く。四人は顔を見回しお互いの中にお互いの残酷性を見出し自分の行動を確認する。彼らは集団思考していた。クラスメイトたちも期待の胸膨らませている。ウチタケがロッカーを蹴っ飛ばす。「うるせえよ。騒ぐんじゃねえ」だが音は止まない。倒しちまうか。ヤマトが言ってケイイチがそれ面白そうじゃんと賛成する。ケイイチがロッカーと壁の間に手を入れた。ロッカーは思ったよりもずっと軽い。中で何かが暴れている感触が伝わる。中で暴れてるぜ。まじで。どれどれ。ウチタケがロッカーに耳を当てる。ほんとだ。しかも号泣しているみたいだ。笑いが起きる。よしよし惇一ちゃん。しっかり休めよ。ケイイチが手に少し力を込めるとロッカーは重力に薙ぎ倒され、がくんと大きな音を立てて倒れた。教室が歓声に沸く。これはかなりきたんじゃねえか。ウチタケが至福に目を潤ませている。惇一がロッカーを叩く音は失せた。結構衝撃でけえよ。ケイイチとヤマトはハイタッチをしている。

 そのとき急に担任教師の牛島が教室に入ってきた。「おい。何騒いでいるんだ」教室でいじめが行われる場合は、廊下監視役がちゃんといて教師に見つからないように目を光らせているのがいじめの常識だ。だがここではそんな必要もない。ミズノがそう言ったのだ。そんなものは不要だよ。

「おいおい。そのロッカーどうしたんだ。倒しちゃ駄目じゃないか」

 牛島の声にクラス中の者が振り返った。その中には顔を背けたり中にはさっと青くしている者もいる。だが多くの者は相変わらずのにやにや笑いを浮かべたままだ。そんな連中をぐるりと見回してからミズノが言った。ロッカーの下を掃除していたんですよ。みんなで。

「ロッカーの下をか」

 はい。ミズノがはきはき応える。だって今週の全校目標はすみずみまで清潔に、じゃないですか。

「ああ」牛島が頷く。「そうだった。先生が忘れちゃあまずいなあ」あっはっはと声を出して笑った。ミズノも笑い返す。そうですよ先生。「うん。じゃあみんなで頑張ってくれよ。でも怪我にだけは気をつけてな」牛島は機嫌よさそうに去って行った。その後姿に舌を出したりごみをぶつける仕草をしたりしている者もいる。そしてその多くはさっき牛島の登場にびくびくしていた連中だ。ヤマトはそんな連中を卑下の眼で面白そうに観察してから声を上げた。糞どもめ。

 授業が始まっても惇一が登校していないのを知り、ケイイチは舌打ちをする。ちっ。これじゃあ何の為にわざわざ学校に来たかわからねえじゃねえか。ああ。つまんねえなあ。昨日はなかなか盛り上がってよかったよなあ。一限の授業は社会科であり担当教師はこのクラスの担任である牛島である。彼は大学を出てまだ三年目の教師であるが、薄汚いどこか洗礼されていない恰好や振る舞いが生徒から嫌われている。牛島はぱっと黒板にどこのものとも知れない海岸線を描くと地名を記入し始めた。この授業は騒ぎさえしなければ、寝ていようが落書きしていようが過ごせる授業であり、集中して臨んでいる者など一部の人間を除けばいない。ケイイチはいつもならウチタケやヤマトたちとメールをやり取りして退屈をしのぐのだが、今日は誰からも着信しないし送信する気にもならない。それは普段のメールの内容の大半が惇一をどういじめるかという相談だからだ。惇一め。ケイイチはぼんやりと窓の外を眺める。西から大きな雲が流れていく。上空は風が強いらしい。しょうがねえなあ。惇一がいないんなら今日の放課後は敦子を誘ってみるか。彼は机の下でメールを打つ。

 ヤマトもやはり流れ行く雲を眺めていた。壇上では牛島がこれは岩手県の海岸線でありリアス式海岸と呼称されるものだ。ええとこのように入り組んだ海岸線が出来た理由にはいくつか説があるがとやっている。だがヤマトにはそんなことは百も承知の事項だ。それにしても下手糞な授業だとヤマトは思う。ヤマトは昨日の放課後、惇一をロッカーに押し込めた顛末を反芻することにした。今日は休みか。ジュンイチは今まで休んだことなかったはずだ。うん。いつか毎日いじめに合うのにどうして登校拒否に陥るでもなく登校してくるのだろうと誰かと話した記憶がある。あれはウイタケだったかミズノだったか。風邪でもひいたのかな。ヤマトはそこで閃く。よし明日は身体を強くしてやるといっていじめるのはどうだろう。プランナーを自認しているヤマトはにやりとほくそえむ。上半身裸にして。いや、それでは女子のみなさまからの支持が取れないかな。いやいや寧ろ最近では彼女たちはそういった事を望んでいるのではあるまいか。とすれば。

 カゲヤマは惇一が欠席であることにさして感慨をもっていない。彼にとって惇一とは間接的に性的興奮をもたらす道具であるが、道具として機能している時以外の惇一はカゲヤマにとって己の恥部のようなものだ。カゲヤマは教育によって己の女性性を意識的には恥じるようになっている。

 ウチタケは牛島の饒舌をノートしようと懸命だ。彼はヤマト同様に進学塾に通っているので本当はこの程度の授業など聞くまでもないのだが、そこがヤマトとウチタケの違いである。気の小さい誠実なウチタケは知っていることとはいえ、黙殺することが出来ない。

 授業の半ばでドアががらりと開き数学の教師が顔を覗かせた。その顔は妙に赤みを帯びていた。「牛島先生ちょっといいですか」息を切らしていた。牛島は生徒たちにちょっと待ってくれと言って廊下へ出て行った。何かあったのだろうかと誰もがぼんやりと考える。ウチタケはこの隙にと黒板を写している。カゲヤマは暖かい陽気に眠気を誘われている。ケイイチは近席のヤマトに惇一来てねえなと話しかける。

 暫くして牛島が教室に帰ってきた。妙に涼しげなさっぱりとした表情のくせに足元がふらついている。牛島は黙ったままで教卓に戻った。教室は牛島のいかにも何か重大事があったのだといわんばかりの態度にエントロピーを増大させている。最前列の生徒には牛島の額に玉のような汗が吹き出ているのが見える。牛島の雰囲気が教室に滲み行き、生徒に流れ込む。ヤマトは牛島の頬が二三度痙攣したのを見逃さない。あ。こいつ何かやばいぞ。教室はしんと発火を待っている。生徒たちは牛島に目を釘付けにしている。誰かの唾を飲み込むごくりという音が聞こえる。牛島が教卓に置かれた教科書に目を落としそのまま授業に戻ろうという素振りを見せた時、ついに堪えきれずにウチタケが叫びを上げた。「先生、何があったんですか」牛島は不意をつかれたように顔をあげ、ああと言った。「ちょっとな。鈴木惇一が死んだんだ」再び視線を教科書に落とした。どくと自分の体内の音を聞いたかのような一瞬が流れ、次の瞬間ウチタケは叫んだ。「どうして」

すぐに教室中から叫びとも呻きとも悲鳴ともつかぬ声が上がる。それに呼応するように牛島も現状をやっと把握した様に教室中をうろたえた目つきで見まし、足元に視線を落としてから叫んだ。「し静かに。静かにしろ」

 しんと静まった教室に再びゲシュタルトが崩壊しそうになりながらも牛島は口火を切る。

「今、さっき、+先生から聞いた話だ。鈴木のお母さんからの電話が学校に入ってな。鈴木が亡くなったそうだ」教室を見ますと鬱蒼とした顔が並んでいた。多くの生徒が牛島の視線を避けるように牛島の言葉をかわす様に虚ろな目つきをしている。「みんな冷静に聞くんだぞ。君たちはもう中学生二年生だ。冷静に事態を受け止められるな」よしよしよし。牛島は内心ほくそえむ。俺は今誰よりも落ち着いている。見ろ。生徒たちを。俺は冷静だ。「うん。これまでにわかっていることを話すぞ。逆に変に隠したりしてはよくないだろうからな。僕は君たちを信用して話す。だから冷静にな。死因は内臓の損傷だそうだ。鈴木は、鈴木の住んでいるアパートの屋上から落下したらしい。というのは屋上に遺書らしきものがあったそうだ」

 生徒の間でどくりと雰囲気が動いたのを牛島は感じた。自殺だ。間違えない。惇一が死んだと聞いたときから生徒の誰もが瞬時にそれが自殺であることを確信していた。そして屋上からの落下、遺書と聞いた今、もうそれは事実以外の何物でもなかった。惇一は自殺したのだ。そして惇一が自殺したとなればその原因は。生徒の多くは自我を守るべく、事態を把握しないようにしないように無意識的に操作していた。彼らの心理機構はありとあらゆる自我防衛を屈指してこの状況に立ち向かっていた。すなわち抑制、抑圧、転移、逃避、補償、投影、置き換え、否認、退行、そして知性化。教室は自我防衛の博覧会と化した。

 ケイイチは否認を選択した。彼の極度に肥大した自我にとって自分が蔑まれる一切の要因は受け入れ不可だった。これまでも相貌の豊かさによってホアグラ化した自我が傷つきそうになる度に否認を行い、その結果としてかなりななめった分節による世界を保持しているケイイチからすれば、否認はなんの抵抗もなく可能なテクニックなのだった。彼ははじめ惇一の死を否定しようとしたがその死が自分たちによって行われたいじめによる自殺であることが確信された今、それだけでは間に合わなかった。ケイイチは惇一の存在そのものを否認した。

 ヤマトは合理化を選択した。惇一の死、それは必然だ。ヤマトは思考を高速に展開させる。われわれは生物の常として全方向的拡散的にエヴォリューショを続けているのだ。その意味で弱化エヴォリューションをした者が絶え滅ぶというのが必然でなくてなんなのか。そこに人間だからという人類への特権思想は当て嵌まらないのだ。人類という種は神に祝福を受けた存在でない。ただのエヴォリューションのひとつの結果だ。もちろんそこに何らかの意思が影響しているなどということは断じてない。人類はエヴォリューションの果てに、結果として存在したに過ぎない。だから惇一の死も必然なのだ。弱化エヴォリューションの系図を断ち切ることは、言うなれば生物としての存在者に課せられた使命というわけだ。彼は自らの理論を強化し続ける。

 カゲイチは逃避を選択した。性同一性障害を抱えた彼はリビドーの潜伏期からして苦難の連続だった。男性を性欲の対象とする彼は当然他の男性とは異なった心理機構を有し、友人から阻害されることもしばしばだった。更にカゲイチの家庭は古くから続く名家であり彼が女性性を多く有することは、その片鱗を覗かせるだけで叱られた。そこでカゲイチは性器期を迎えるまで自己の女性性を過度に抑圧し、そのお陰で男性性の強い男性らしく振舞えるようになったのだ。だが、いじめを通して性欲が満たされるようになるまでの長い間、カゲイチは意識的無意識的に夢想することによって抑圧を維持してきた。だからカゲイチは虚構の創造とそこへの没入が得意であり、それ故の選択であったわけだ。彼は夢想の世界に、性などで苦しむことのない世界に羽を広げた。

ウチタケは退行を選択した。もともと社会的規範の強い彼の自我は弾力性を欠いていて、彼のゲシュタルトには普段から皹が入っているしまつだった。既に惇一の死を聴覚した瞬間から崩壊しかけていたウチタケの自我はそのエネルギーを逆転利用、惇一の死を自殺であると断定した途端に退行へと跳んだのだ。これは彼の自我が崩壊に慣れていたからこそ出来た荒技だった。ウチタケの両親は彼が男根期を迎えた時には家庭内別居の状態にあった。母は主婦業一切を放棄し外で働いていた。父もそれではと家事を行うことなく外で働いていた。ふたりはほとんど顔を合わせる事はなかった。共にウチタケに対しては親として接していたがそれでは男根期を乗り切ることは不可能であり、彼のリビドーはここに固着した。彼は性を意識することなくクランとして家庭に所属してきたのだ。ウチタケは今、男根期へと退行した。それは世界の分節化が圧倒的に不足している時代であり、特にウチタケはその時分、平均よりも分節化が劣っていたので、当然の帰着として、惇一の自殺は消失した。

「鈴木は地面に叩きつけられて亡くなったそうだ。それを近所の方が発見なさって警察に連絡、所持品から鈴木だとわかったそうだ。それで警察からお母さんに連絡が行き、学校にも知らせが入ったというわけだ」彼は言葉を切って教室を見回した。生徒たちは今にも泣きそうな表情をしている。牛島は担任しているクラスの生徒が自殺したという状況の中で、自我防衛として生徒たちにその恐怖を投影していた。牛島はもともと生徒たちを憎んでいた。自身がそれを明確に自覚することはなかったが牛島は自分の学生時代を忘却して生徒が自分を教師として敬い称えるという甘い幻想を抱いて教師になったのだが、いざ教師になるとそれが幻想であることを知り憎悪にまで行き着いていたのだ。その生徒が惇一の死に恐怖している。牛島は爆笑を噛み殺した。その恐怖を本当は自身も抱いているからこそ、牛島はその恐怖がただならぬものであることを認識していた。そしてその憎むべき対象を一層追い詰めてやろうというサディスティックな快感原則に従って牛島は話し続ける。

「ところでその遺書だが、ああ遺書らしきもか。まだ断定はされていないらしいからな。何事も正確でなくてはならんな。うん。それにはなんでもこう書いてあったそうだ」牛島は黒板に大書きする。かっかっかっとチョークが黒板を走る音が響く。「これ。封筒に入った便箋には「僕は役割を果たします」とこう書いてあったんだそうだ。それに名前な。意味深な言葉だろ。だから警察も遺書と言い切らず、また事件性を捨ててないそうだ」

ミズノには小学校のくだらなさは噴飯物だった。だが非行に走るということもなかった。そもそも何かしらへの抵抗、反抗というのは対象が自分と同等か自分以上に強大な場合になされるものだ。だからミズノは学校でどうしていじめが起こるのか理解し難いところがあったのだ。ところが中学に入って三ヶ月経つ頃にはその意味を理解しそしていじめを先導していた。くだらない教師陣からくだらない授業を受けるという反吐が出そうな生活の中で僅かなカタルシスといえば稚拙な恋愛ごっこか、いじめくらいしかない。要は需要なのだとミズノは理解している。何故いじめをするのかと問われればミズノはこう応えるつもりだった。需要あるところに供給することがそんなにおかしなことですか。

役割。そうか役割か。なかなか洒落た事を言うじゃないか。ミズノは思わずにやりと笑みを浮かべた。そうか鈴木。俺は今お前のことがよくわかったぞ。ようやく俺はお前の考えを把握できたよ。お前はそれが望みだったのか。このクラスのいじめは全てお前の差し金か。お前、なかなかやるな。あいつ笑いやがった。ミズノの笑みを偶然牛島が目の端に引っ掛けたのだ。その顔はおかしくってどうしようもないという風にパーツ全てを動員しての笑いを浮かべていた。堪えようにもあとからあとから湧き上がって来るおかしみが溢れてしまっているようだった。笑っている。牛島は自分のゲシュタルトが完全に崩壊するのではないかと危惧するまでに唖然とした。あいつは本気で、心の底から笑っているのだ。牛島の背を寒気が駆け抜けた。黙っていられなかった。足はぶるりと震えた。「ミズノ」牛島の急な怒鳴り声に生徒たちはぎくりと固まるがそれは一瞬のこと。彼らの自我の大部分は依然として防衛が頑なに掛かっていて、言葉は波動として淡く意識されるのみで、象徴としての言葉として認識されることはない。「何がおかしいんだ。ええ」牛島はヒステリックに口端を持ち上げている。「昨日まで一緒に勉強していた仲間が亡くなったっていうのんだぞ。それなのにお前は何を笑っているのか。ミズノ。お前って奴は何笑っている。いい加減にしろ」それは恐怖だった。自分の理解を超越した存在への畏怖とも言うべき絶対的な恐怖だ。ミズノミズノミズノ。「おい。ふざけるな。人一人が死んだんだぞ。それを嘲笑するとはどういう了見だ。えっ。いい加減にしろ。えミズノ。どうなんだ。え、ミズノ」

「先生」ミズノが口を開いた。牛島の肩がぴくんと跳ね上がった。それは恐るべきミズノに対する恐怖と警戒だった。「鈴木くんが自殺したのはもうわかりました」その声はいつもように澄み切っていた。静けさの中ミズノは澱みなく続ける。「でもそれは役割を果たしただけですよ。本人も言っているではないですか」

牛島はあっけにとられている。想像を超越した思わぬミズノの言葉に、牛島は妙な静けさを覚え、冷静さを取り戻した。それは頬を張られることによって冷静さを取り戻させる一種のショック療法と同じ原理だ。そして投影することによって紛らわされていた恐怖が、自分のものとして戻ってきた。マスコミ、裁判、懲戒免職、教育委員会、PTAといった言葉が牛島の頭を巡る。あらゆる可能性が今日という日に集約され、そしてここからは長く脈々とした現実性のみの世界が延びているようだった。そうか禁錮刑とは可能性を現実性に一本化する意味で罰に値するのだなと社会科の教師である牛島の思想は脇道にも反れたりする。今牛島の閉じた意識が視覚しているのはミズノただそれだけだった。そしてそのミズノとはあらゆる恐怖を具現化した存在と知覚されていた。牛島はそこにはただ静かな恐怖がごろんと横たわっているかの如く感じる。

牛島は恐怖から逃れようとおほんとわざとらしく咳払いをする。それは自身に場を区切らせる為でもある。彼はミズノから視線を外し無視して再び投影をはじめた。

「このクラスにいじめがあったという情報が先生のところに来ている」牛島としては当然そこで生徒たちが恐怖を体言化した言動、悲鳴を上げるなり視線を交し合うなりがあって叱るべきだと想像していた。しかしそれらは一切なかった。ええい愚鈍な連中だ。牛島はこの無反応さがこの年代特有の図太さに由来するものであると判断する。この。豚どもめ。「これは信じるに値する情報だ。そして私は、悲しいことだが、いじめがこのクラスにあったことは悲しいことだが、間違いないと思っている。それを把握できていなかったことが悔やまれる」牛島は生徒を圧倒する為に沈鬱な面持ちでぐるりと教室を眺め回した。生徒たちは沈鬱な面構えで俯いている。その様子に満足感を味わう中、不意にミズノの静けさを湛えた瞳が眼に飛び込んでくる。ミズノは依然として微笑みを浮かべていた。だがその笑みはさっきの至福な笑いでも、あるいは嘲笑でも失笑でもなく、哀れみを伴った微笑だった。それは愚かな小動物が苦しみもがいている姿を見つめる全能者たる人間の残酷な視線だ。またしてもミズノか。牛島はミズノへの腹立ちを紛らわし、更にミズノに腹を立てている自分に腹を立てていることを隠すべく饒舌を振るった。ミズノを見ないようにしながら、言葉柔らかに。「どうだろうみんな。私に正直なところを教えてくれないか。私はみんなを信じたいんだ。な。疑いたくなんてないんだよ。わかるだろ、@」目の合った@に頷きかける。だが@が視線を落とすように頷くだけだ。牛島はその姿を自分の言葉によるものと勘違いし充足感を味わっているがそうではない。そもそも置き換えによって防衛されている@は言葉を言葉として受け取ってなどいない。ただ現実の煩わしさを回避すべく身体が自然と動いただけのことだ。「そうだろう。さあ話してくれ。言いにくいのはわかる。だがいつかは私の耳にも入ってくることだ。私は出来るならみんなの口から直接聞きたいんだ。どうだろう。話してくれるか。みんなだって中学二年生だ。もう私の言ってることわかるよな。警察が来てやっと告白しましたじゃあちょっと情けないじゃないか。なっ。正直に。じゃあ、まず、いじめは一体いつからはじまったんだ、#」#は無反応だ。牛島から見ればそれは動くことも出来ないほどに怯えた姿だが、もちろん現実はそうでない。#は幻想の世界で母乳を口にしている真っ最中なのだった。「#、話してくれよ」そうとも知らず牛島は微笑を浮かべて言った。だが相変わらず教室はしんとしている。全員が深遠な防衛に浸っていた。

そんな中、ミズノが急に立ち上がった。鈴木、どうやらお前は大変に人がいいらしいな。それはそうかもしれん、こんなことをするくらいだ。だがな、やはり現実性に立ち返ってみろ。こうして俺はお前の仕掛けた澱の顛末を見届けているわけだが、なかなか厳しいようだよ。生徒たちにしても教師にしてもな。連中は想像以上に愚鈍だ。だから、いいだろう。面白い。乗りかかった船だ。それにお前への敬意を表する意味でも、俺がお前の仕掛けを強化して見せよう。さあ見てろよ。ぎぎぎと椅子が床と擦れて音を立てる。

「いじめいじめと仰っていますが先生。このクラスで起きていたいじめの特異性がわかっていらっしゃいますか」

 クラスメイトたちの意識が普遍的無意識に突き上げられる形で現実へと回帰し始めていた。敏感な普遍性が逃してはいけない瞬間が近づいていることを察し、強制的に自我防衛を溶解させたのだ。世界が現実性に基づいて割れる。ウチタケの主はやはり男根期に根ざした幻想に根ざしているが、その一部はさっきから教室での出来事を知覚していた。牛島は何を思っているのか虚脱した外見で教卓に凭れる様にしている。教室に渦巻く澱を攪拌するようなミズノの声が響く。

「昨今のいじめとはシステム化されたいじめなんですよ。構造に取り込まれたいじめ、つまりいじめが存在するのが当たり前のようになっているのです。これはつまりいじめがいじめとして認識されなくなっているというわけです。だからいじめ然としたいじめなんて今は稀なんじゃないですか。いじめている者もそれを目撃した者もいじめなどという意識はないんですよ。それが現代のいじめです。ところがどうです。このクラスで起きたいじめは先生も熟知されていると思いますが明確にいじめと定義されるいじめです。誰が見たっていじめとわかるいじめです。いじめている方も見ている方もいじめと認識しているんですよ。いじめているという意識の元にいじめたんです。いじめようとしていじめたんです」

 一語一語を明晰に喋ると、ミズノは補足といった口上で続けた。「ここで僕が解説めいた言辞をとることは余り僕の望むところではないのですが先生があまりに」ミズノは言葉を選別するように刹那間をおいたが、結局は直接的な言葉を使うことが最善と判断した。レトリックはこの連中には通じない。「愚かだったもので。それにきみたち」と生徒たちに視線を送った。「にもしっかりと意識しておいてほしかったからね。でないと鈴木が浮かばれない」

 惇一の名前が出ると何人かの女が再びすすり上げ始めた。びくりと身体を震わせている者もいる。牛島は相変わらず微動だにしない。そんな姿に満足したミズノはにやりと口を歪ませると、つかつかと席を離れた。教室中のまだぼんやりとした視線がミズノを追うが声を掛ける者はいない。牛島もただ阿呆の表情を浮かべているだけだ。ミズノは窓に近寄り微笑して言った。「それではみなさん。健闘を祈っていますよ」そしてするりと床を蹴り、桟を越え、刹那宙に浮かんだかと思われたが、間もなくその身体は見えなくなった。短い空白。その一瞬後にどすんという音が教室にも聞こえてきた。誰も動けなかった。だが自我防衛の世界に沈降している者はいなかった。彼らの自我ははっきりとここに存在している。何故か急速に眠気を覚えそれと必死に戦っている者、何度も何度もミズノ落下の瞬間をリピート再生する者、映画のようだ映画のようだ映画のようだとモノクロな感想を呟く者。誰もがもがいていた。受け入れがたい現実を受け入れんとする自我防衛が働かなくなった今、彼らは深い澱で、ただもがいていた。だがそこは入り口はあれど出口はない天国。セヴンスヘヴン。もがけばもがくほどに深まる蟻地獄なのだが、彼らはもがかずにはいられない存在であり、必然的にずるずると永遠の深みにはまっていく。間もなく学校中で悲鳴が起こり、暫くして救急車の音が聞こえてきたが、それでもまだ動こうとする者はなかった。

 

第一章・了

 

 

 

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