秋元 汀
■手帖 2004 X■
私の山下清澄
〈スベカラク女カラ生マレタ〉、
女のしたたらせるエロスの涙、或いは乳白色と玉虫色とを、その見るものの視姦的直截さのいかんによってとりどりに炸裂させる真珠
は
伊太利亜や、希臘の、南欧の馨りただよう、およそありはしないであろう熱帯雨林の爬虫類や食虫植物、猛禽の累々をさえ、魅了させ、
そのもとにはべらせてしまう
どこにも整合性のない、むきだしの、だが雑然というか、むしろ〈嗅覚〉の形態化のごとく、時間の停止した絶対零度の生あたたかい廃苑にその身をよこたえているばかりだ。
まるで女そのものが真珠のように
丸みをおびて、やがてじくじくと偶像化する
〈彫像ノ様ナ女達〉、
魚藍めいたその肌は
たんなる腐蝕銅版画の域をこえ
あまつさえ魔術的な相乗作用にさえ嘲笑的秋波を送るばかりで
オルガスムのたえまない波濤のまにまに
ゆるやかに快楽と美貌の彼岸へともちさってくれるのではないかという、
したたかな欲望のたおやかな波打際のはたてに
くるおしげな
愛液を
分泌している。
その背には鬱蒼と繁る黝々とした森林
その絵を前にして
それが
見るものにおそるべき短絡さと白痴的快楽をもたらしてくれるから
フロイトをきどって
あろうことか陰毛の表象であるといって
なにが軽薄なのだろう。
まるで少女のあらわな裸体の穹窿状の丘にも喩えられうる下腹部のなだらかさとやや凝り固まったままでいる紡錘形のレモンという名の乳房とのあわいの葵色の宵闇の甘い果肉は
甘く、切ない、糜爛の退廃的な馨りをはなちつつ
妙に湿りけを帯びた腐葉土の上で
けっして訪れることはないという確信をもった夜の帳の埒外の
灰色の黄昏の中で
時間の処女膜によって、固いままだ。
仙人掌や罌粟、アネモネにハイビスカスに鳶尾、それらのおおきくひらけた花弁や、甘い蜜をしたたらせて元気よく突起している雌蘂をみて
それを女陰といわずして、なにが戯画めいていると断言する術をもっていよう?
いまだ吸われずにいる母乳をとどめたままでいる、二律背反のたわわな乳房のごとく
数学的緊縛によって、いままさにミニチュアールな極彩色のパルメニデスの河をのぼってゆく。
女陰も獣なら、獣もひとつの女の核なのだ。
たとえばあのもっとも稀覯な銅版画集『冬の組曲』が
画家とその愛人との痴情のもつれによって、
半数がその愛人に引き裂かれたという事実を以ってしても
a la yamashitaが〈スベカラク女カラ生マレタ〉ことを証明するには容易い
また彼が好んだ「絵文字」「数字絵」のa la
yamashita、
フロイトをもってすればオナニストの象徴である
数学的嗜好
どれもこれもが女から生まれている。
だがそれは不幸なオナニストの黄昏の幻想でなければならないのであって
たとえば終生の愛人と決めたらしい女と辺鄙な田舎に隠居して
大和絵や琳派のたぐいのたんなる剽窃でしかない
金泥襤褸と様式美にまみれた〈現代春画〉とでもいってしまいたい薄気味の悪い美化と虚栄のジャパネスクを描いてみるのは、ごめんこうむりたい。
日々の性交がもたらすどどめ色の堕落を美化するそれは
たしかに春画めいた髑髏蛸や、蝦殻天蛾、あるいはペガサス、ベヘモスのような幻獣が獣姦めいた様相を呈しつつ、不幸を告げるモノリスとして聳えていることも晩年の前でさえまま見られてはいた
だがそれはあくまでも虚栄をはいだ虚飾の灰色の性器の剥製の裏側であって
じっさいの女の愛液にまみれた
日々のそれが赤黒く爛れさせた雄蘂のまったく滑稽でしかない元気のいいさまとは様相を異にしていることはいまさら確認するまでもなかろう
ああ
どこかでまた甘い、だが腐ってしまっているがゆえに強力な甘ったるさで
眩暈をおこしてしまうほどの
a la yamashitaの馨りが、匂いが
する
いつまでも過去を愛してやまない
一匹の妄想癖が唯一のとりえである蝶を
(その絵を前にしてあまりにも凡庸な表現に頼るしかないどこかのだれかをご愛嬌いただきたいことをあらかじめここに附して)
とらえてはなさぬ
おおきくひらいた蜘蛛の巣のような網膜上の毛細血管を浮きたたす繊細な花弁のごとき女陰・・・・・・
だがそれは、今となっては、どこにあるのだろう
譫妄がもたらすここちよい眠気に身をもたれる前に
おとずれることがない夜をひとつの揶揄としてa
laという名の性器を去勢された
yamashitaに
「Bon soir」と声を掛けよう
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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