手帖 2004 V
秋元汀
私にはもともと音楽にかんしてそれほど興味もなく、食指の動くお気に入りという奴もない、趣味として嗜むほどに聞いているというわけでもない。それこそ音楽は鈴木清一郎の十八番であり、かれが私にだけ見せてくれた、ラヴェルの「夜のガスパール」(ベルトラン原詩)にかんする博覧強記のエッセイがいずれ陽の目を見ることを望むばかりであるが、今回、フランスはEPMというレーベルから出されたSELECTION PRINTEMPS DES POETESという、主に第二次世界大戦前後の詩人の手になる詩をシャンソン化してみせるという洒落たシリーズの、ジョイス・マンスールのものを手に入れたので、ここにレヴューしておきたい。
ジョイス・マンスールはいうまでもなくfemmme surrealisteの旗艦的詩人、エジプトという異郷の馨り漂う美貌の女性である。同作にはほかにマッコルラン、カルコ、ボリス・ヴィアン、サンドラールなどシャンソンとは切っても切れぬコスモポリタリズムの作家のものや、はたまたヴェルレーヌなどの象徴派、かててくわえてジュネの際どい詩をゲイのシャンソン歌手が歌って見せるといういささか自己充足的(=オナニスティック?)で自虐的なものまで、その少々無理のあるラインナップで見るものを瞠目させる。が、それにしてもマンスール! シュルレアリスムをシャンソンに? という思いがしないでもない。
とりあえず曲そのものを聞いてみたものの、わたしにはそれを一方的に託宣するほどの知識をもちあわせていないことを予め記しておきたい。詩をシャンソンにしてみたのだから、まずその曲にマッチしているかにその評価は尽きると思うが、まあそういった意味では半分をやや下まわるぐらいの割合で、成功しているのではないだろうか。
とりわけ彼女の第一詩集『叫び』Crisや、ついで刊行されることとなる『裂け目』Dechiruresなどの、エジプトの祝祭と不穏な黄昏とを読むものの眼前に聳りたたせる、背徳の馨り漂う彼女の痙攣的で生理的な語彙の特徴を、たとえばオーボエやチェロの重層低音が不吉な予兆めいた雰囲気としてみごとに醸しだし、そこにヴァイオリンの和音が折り重なるようにして、なめらかにその《肌理》を撫でていくさまはエロティックのひとことに尽き、ハープによるエジプトのエスニックな優雅さをそれらの曲はよく饗応させているように思われる。そしてその一種神妙なテンポをコントラバスの放つトレモロが一層の緊張感を与えていて妙だ。それをいささかジェーン・バーキンの影響を受けすぎているのではないかとさえ思えるクレール・デラポルテの、猥褻で湿り気を帯びた甘い囁きが、そのぬめるような《肌理》にざらついた不協和さをくわえていくさまは、よろしいとも思う。まさしく音階のあわいの《裂け目》で、それへの従属を忌避しつつ、白熱の火花ちらす超現実のだみ声の《叫び》の痙攣。或いはコントラバスのごく単調なタッチが醸しだす、(デ・キリコのそれを思わせる)黄昏時のなかで陽の光の残滓がわだかまりつつ消滅してゆくさま、そのような死の馨りに充ちたロンドが、抑えたトランペットのチープな小便臭い雰囲気をくわえられて、マンスールの《涯はて》の印象に新しい光を齎せている箇所もあり、けっして悪くはない。
しかし、たとえば唯一短編小説『それ』Caの一節を歌詞にしてみた?(と、いささか疑いたくもなるほどにひどいのだ)「Saignee、irradiante」などの全体を蔽う、むしろミュージカル的で劇画調の陳腐なテンポは、かのマンスールの臓腑にうったえかけるような、ビザールな緊迫感を弛緩させ、台なしにしているし、ファビエン・ドーラによる、むだにヴァイオリンのノイジーな旋律やピアノの不協和音のraschを垂れ流しにしてマンスールのシュルレアリスティックな言葉の遊戯のたえまない垂直的で間隙的な屹立を表現しようとして足掻いてみせる様相の一部や、調子外れのモワレはぶざまの一言に尽きる。またデラポルテの緊張感をもたせようとして発せられる異様に力強いバスや、しなびきり間延びしたCrisは、無用な老成を帯びていて救いようもなく、最低だ。とりわけて五曲目の「Le rythme de l’argent」は、冒頭で「誰かの見えない影に襲われ」ているようにに見せかけようと、はあはあと息せき切ってみせるデラポルテの息づきは、バーキンの「Je t’aime moi non plus」のあの喘ぎよりも、見せかけの安っぽさを露呈していてそれを聞くものを辟易させるし、先ほどの「Signee〜」の末尾でくりかえされる、馬鹿調子な「mon amour」の連呼は作曲上の失態にもほどがある。
また選曲自体もそのほとんどが前二詩集からのもので、他もほぼ全て初期のもの、散文にいたっては前掲の『それ』だけという非常に貧しいラインナップであり、当方が日々鍾愛している『地獄堕ち』Les Damnationsや散文作品(とりわけ「ジュリアス・シーザー」)などが欠落しているのが傷ましい。また一曲目の「Tu aimes coucher」と十五曲目「Saignee、irradiante」の冒頭がまったく同じ曲であるのはシャンソン自体がその一曲々々のオリジナリティを失って久しいものの、いったいどういうことだろう。しかもその一曲目の歌詞自体がライナーノートに附されていないという失態は目に余るものがある。
してみると、全体としてはやや不毛な結果に堕しているのはあきらかである。だが、これらのいささか無謀な挑戦による、《大いなる賭け》がマンスール、この無銘作家に一縷の光明を与えんことを祈るばかりである。もっともこの思いが、このような詩のシャンソン化という(日本が往々にしてそうであるように)片手落ちでいささか魅力に欠ける企画とお仕着せが果たしてフランスにおいてそれほどの威力があるのか知る由もない、日本の一視聴者の意固地な譫妄であることは論をまたないが。
Joyce Mansour “poete et chansons” par Ouroboros, 2003, EPM 188 (Paris tel:01 40 24 01 03)
(公開開始日・七月二十七日)
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