鈴原順 / トイレット喚起

 

 

 膀胱がぱんぱんに膨らんで、痛い。

 少し吐き気もする。まるで下から出ないなら上から出してやろうと言わんばかりだ。

 またもや尿意から目が覚めてしまった。最近こうやって尿意に覚醒を促されることが多い。就寝前に水分を多く取ったわけでもないのに。俺はまだ二十二だぞ、なんだってんだ畜生。忌々しい。

 そもそもが偏平足からアレルギー性鼻炎、花粉症まで俺は俺のOSに不満が多い。

 毒づきながら重い足取りで部屋を横切り、トイレへ向かった。床の羽目板がきいと俺の足の下で嫌な音を立てる。パチリとトイレのスイッチをONにしてからドアーを引いた。

 すると狭いトイレには先客がいた。

 男が便器にまたがって俺を見ていた。予期せぬ事態に、眠気でまだぼんやりとしていた頭が一気に冴え、慌てて「失礼」と言いそうになったが、よく考えてみると、ちょっと待て、俺はこのアパートで一人暮らしをしているのだ。このアパートは共同トイレじゃないし、今夜は誰かが泊まりに来ているということもない。

 それでは一体こいつは誰だ?

 不思議と恐怖心も何もなかった。ドアノブに手をかけたまま、トイレの外に突っ立って、俺はじろじろと無遠慮にその男を観察した。すると男の方でも俺をじろじろと眺めていた。
 俺がはじめに確認したのは彼の足の有無だ。うむ、すらりという形容は当て嵌まらぬが、存在は認められる。幽霊ではないらしい。

 少しほっとして彼の顔に目を移した。薄い唇に狭い額、下膨れの顔立ち、と薄暗い電球の明かりの下でも性質の悪さを漏れなく示している。俺はその顔をどこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せなかった。割りに身近な人物だったようだが。どちらにしても、あまりいつまでも眺めていたい顔ではなかった。

「あんまりじろじろ見るなよ。気色悪い」

 べっとりと喉に張り付くような、下卑た顔にお似合いの嫌な声だった。俺は吃驚して言った。

「偉そうな奴だな。それは俺の台詞だよ。一体、おたく、誰だい」

 男はにやりと唇を歪めた。「俺が誰だがわからないか」

 俺は素直に頷いたが、男はにやにやしているだけだ。再び俺は口を開いた。「大体こんな夜中に何してるんだ、人ん家の便器の上で」
 するとそれまで浮かべていた笑みを、かちりと凍らせて男は真顔に戻らせた。その口調はややヒステリックだった。

「な、なんだい、その言い方」俺はやれやれと思った。わざとらしいどもりに彼の人間としての浅さを見た思いだったのだ。しかし彼の次の言葉にその余裕さえ失うほどに驚いた。「さもこの便器がおたくの占有物みたいに」

「さもって、おい」俺は慌てた。「その便器は俺の占有物だぞ」そう言ってから、考えてみればなんて奴だろう、と俺はむっとしてきて、語気を荒げた。「この部屋の付属物として俺が大家から借りているんだ。部屋代月四万ニ千円にはその便器代だって、ちゃんと入ってるんだ。便器についておれがどうしようと他人に指図を受ける筋合いはないぞ」

「おお」彼はわざとらしく天を仰いで嘆息した。「ひどい侮辱だ。屈辱だ。便器には便器の人権があること忘れるnいk」彼は気取った調子で喋っていたのだが、上手いこと舌が回らなかったらしい、言い誤った。それはそれまでのニヒルな彼には似合わない失態であり、彼はちょっと顔を赤らめたが、すぐに咳払いをして場を区切ると、続けて言った。「ええと、そうそう。そっちの態度如何によっては便器にだって考えがあるんだ。然るべき所に出る覚悟はあるさ。なんなら法廷に出向いたっていい」

 さっきまでの自信は何処へやら、俺は相手の毅然とした態度と意外に善人らしい様子にたじろいだ。ぱっと見とは異なり、実は善人らしい彼をこんなに怒らせた、と罪悪感すら俺の心には沸き立ってきていた。

「すまなかった」

 自分の感情に従って一応頭を下げたものの、何で俺が謝らなくてはいけないんだ、なんだかおかしいぞ、と頭が混乱する中、不図、ぴんときた。

 ははあ、これは夢だな。尿意で覚醒したものと思っていたが実際のところはまだベッドの中に違いない。それにしても滑稽千万な夢もあったもんだ。俺がそう確信したとき、彼がおもむろに言った。

「言っておくがね、これは夢ではないよ」

 俺はどきっと、全身の毛穴が開かんばかりに驚いた。「なんでわかった」

 だが考えてみれば驚くことでもない。俺はわははとわざとらしく声をあげた。「いやいや、夢だね。うん。夢だ。夢なら君が俺の考えを読むなんていう不条理なことが起きても問題ないものな。わはははは。そもそも俺の考えをお前さんが知っているという非現実性、これこそ夢だっていう何よりの証拠じゃないか」

 にたり。俺がしてやったりと笑うと、彼は大げさに肩をすくめ、わざとらしくため息をついて見せた。そして彼の確信に満ちた声が俺に降り注いだ。その勢いは俺の頭をばかにするに十分だった。

「我ながら発想の貧困さに嫌になってくるね」彼はふうと嘆息して見せる。「夢という発想。おたくの発想の貧困さが露呈されるよね。想像力の重要性は賢人が口を揃えて言及するところだってのに、おたく、これでいいわけ?それに何よりも、非日常的なことが起こると夢だろうかなんて呟いてみたりするっていうの、嫌だね、あたしゃあ。目を擦るだの、頬を抓るだの。そんなに自分の既成の世界観を完璧なものだと思っているのかね。おお、嫌だ嫌だ。身の毛がよだつよ。あっ。だからって、いまおたくが自分で必死に否定しているように、俺が幽霊かっていうとそうでもないよ。確かに昔から厠に霊や妖怪は現れてきたけれど、こんなトイレに来てくれるもんかい。心配しなくても、向こうから願い下げだろうさ。えっ、ウイリアム・ウィルソンやプラーグの大学生の路線でドッペルゲンガーだろうって。ははあ。だとしたらおたく、死ぬことになりますね。あれ見ちゃうと死ぬそうだから。ご愁傷様。あはははは。でも平気平気。安心してよ。俺、ドッペルゲンガーじゃないからさ。あはははは。それにしても、ねえ、おたくさあ、ちょっと思考が安直過ぎないかい。あたしが否定するとすぐにその考えを捨てて次の考えに移っていくんだね。そりゃあ身替りの速さは吉と出ることもあるだろうけれど、凶と出ることもあるってこと、頭に入れとかないとね。大体スピードを武器にするには前提として、どっしりとした土台が必要だってこと、わかってる?常識なくして非常識な笑いをとることが出来ないのと、これは一緒。ってねえ、聞いているかい。ん。あらら、ついに放心しちゃったよ、この人。自分の既成の価値観に当てはまらなくなると、自己の喪失、思考停止って、おたくはぶつ切りの細切れ肉かっての。まっ、よござんしょ。月に叢雲、花に風。此処はひとつ自己変革と洒落込みましょうか」とにたり。

 男、便器からすっくと立ち上がると、深々と観客に一礼。にこやかな笑みを浮かべて、張りのある声でひとごと。「よければみなさん、ご一緒に」

 

 

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

無償メールマガジン「肺」では、鈴原順をはじめいさびの会専属の多数の執筆陣が様々な作品群を披露しております。

未登録の方はぜひこの機会にご購読の登録をお願いいたします。

頓首。

(メルマガ「肺」製作委員会)

 

公開開始日:平成十六年九月八日

感想などはBBSまでお願いします。

ライブラリー「肺々」の「左肺」へ帰る。