「安らかに」

 

清水

 

 

 

 

 

 物書きは生活時間に制約がない分、つい不規則な生活を送ってしまいがちなのだが、その点私は規則正しい生活を心がけている。

それには2つ理由がある、ひとつは朝に完全に覚醒しているかどうかが一日の創作活動に大きく影響するだろうということだ。昔は若気の至りというものか、どうしても狂った生活に陥りがちだったが、その頃に比べると倍近い時間を使えているような気がする。

もうひとつは夢を見るためである。過去の出来事の再現であったり、何もかも滅茶苦茶な世界の切り貼りであったりするこの夢というものが、私に最高の素材を提供してくれるのだ。見知ったようで少し異質なそれは、現実では得ることのできない刺激だ。

 私の本を買ってくれる方々もそういったものをお望みなのだろう。中年男の見た夢を織り込んだ奇妙な本は、とりあえず私一人が天寿を全うしたうえで墓を作っても御釣がくるほどには売れている。

 大多数の人間から見れば、なかなか気ままな一人暮らしなのだろう。

 

そうして向かえた何度目かの初夏、ある蒸し暑い夜のこと。

 一日を終えて寝床に入り込んだ私には、睡眠とい害う最後の仕事が残っているのだが、私の部屋にはあ者が侵入していた。

 暗く静まった部屋、耳元によく響く高いのか低いのかよくわからない羽音。

 私はとりあえず睡眠を中断することにした。布団を跳ね除けて、就寝中だった電気を覚醒させる。

 私は特に動体視力や反射神経に優れている方ではないので、このようなときは便利な科学兵器に頼ることにしている。リビングから持ってくるのが多少面倒だと思ったが、どうやらその必要はなさそうだった。羽音の主、黒い小さな影は思いのほか容易に捕らえられたのだ。迫り来る巨人の手から逃れようと、僅かに開いた窓のこれまた小さな網戸の隙間へ向かっている。

 しかし体が重いのか、その動きはかなり鈍い。水面に落ちた蟻が必死で水をかいているようにしか見えない、なぜ飛べるか不思議なくらい遅い飛行である。

 私は就寝のことなど忘れ、好奇心のままにそれを追尾し、捕獲した―――つもりだったのだが、勢いあまってか、それは私の掌の中で潰れてしまっていた。

 捕らえてじっくりと観察したかったのだが、残念ながらそれは原型を留めていなかった、飛び散った黒い粉はもげた羽や脚、赤い液はおそらく私から採ったものだろう、かなり吸われたのか、手を傾けると僅かに赤い線を引いて滴る。

 仕方なく洗面所に赴き、手に残ったそれを洗い落とす。見る影も無く潰れた黒い亡骸は、私の血と共に水流に飲まれて消えていった。

 

 リビングにある茶箪笥から痒み止めを持ってこようとして、やめた。

 かなりの量の血を吸われたはずなのだが、どこにも痒みを感じないのだ。

 どこか釈然としなかったが、身体に違和感は無く、既に就寝時刻を回っていたので早々に眠ることにした。

 第二の妨害者は現れない。静寂と暗闇の中に私の意識も没していく―――はずだったが・・・・・・

 

 陽光が差し込み、蝉の声が鳴り始めても私の意識は覚醒したままだ。徹夜の後のような気だるさも無く、身体も頭も不気味なほどに快調だ。

 私はベッドの上で半身を起こすが、強烈な違和感を湛えた朝にそれ以上の動きはできず、ただ固まるばかりだった。

私は起きてすぐに鏡を見た。

違和感は消えなかったが、見た目は特に目立った変化は無い。全く寝ていないにもかかわらず目に隈は無く、むしろ普段より気色もいい。

朝の支度の最中も「いったい何が起きているのか。」ひたすらそんなことばかりを考えていた。

昨日の残りの炒飯が入ったフライパンに火を入れた。一晩中起きていたせいか異常な空腹を感じる。皿には盛らずそのまま胃へ掻き込んだ。いつもならこの後は執筆の時間なのだが、とてもそんな気分ではなかった。幸い、今は期限付きの仕事は入っていないので、今日のところは筆を置くことにした。

 

気分転換を兼ねて家を出てみたが、特にすることも無いので近くの総合病院へ行くことにした。診察した医師によれば、多分不眠症か何かの症状が一時的に出ているだけだろうとのことだが、体調がすこぶるいいので、処方された睡眠薬を受け取って帰された。

朝も昼も相当な量の食をとったはずだが、どうしたものか胃が夕食まで待ってくれそうにない。日が落ちる前にファミレスへ駆け込み、胃に溜まるものをオーダーし続け、そのことごとくを嚥下した。

ようやく満足したのは秋の日が沈んでしばらく経ってからのことで、相変わらず睡魔は現れないが、昨日寝ていない分を補わなくてはならないため、早めに帰宅した。

飲みすぎて永遠の眠りに付くことがないよう、厳重に量を確かめて薬をいただく。

久々となる二日越しの安息に密かな期待を抱いて床に就くが、薬が効き始めるはずの時間になってそれは裏切られた。力が抜けていく感覚は微かにあったが、昨夜と全く変わらない横になるのさえ苦痛になる違和感はそのままで、その後も眠りへ至るための戦いを始めたが、ついに寝付けなかった。

 

普通一日24時間のうち8時間を睡眠に割く。一日の三分の一、これを毎日、誰もが皆人生の三分の一は寝ているのだ。この三分の一を他の活動へ割けると聞けば、ほとんどの人間は泣いて喜ぶだろう。しかし今私はこの上ない苦痛を感じている。

肉体は疲れを知らず、常に快調だ。しかし精神は常に疲労を重ね、休まることは無い。一日が長すぎる、いったいいつになったら明日になるのか、そんなことしか考えられない。

 

もう眠れなくなって半月が経つ。執筆に対する情熱もすっかり消え失せた。新たに何かを始めようという気も起きない。鬱病患者ですらもっとマシなことを考えられるのではないか。

私は買い溜めしておいた強い睡眠薬の入った容器を全てひっくり返し、出てきた数十の錠剤を片端から飲み込み、詰まりかけたそれを水で流し込む。

さすがにこれは効いたか、しばらくして徐々に体の感覚が無くなっていく。今日こそは、久々の睡欲を貪ることができそうだ。せめて安らかに

 

 

◎ ライブラリー「肺々」へ→