こんにちは。いつもながらに「JCL2005」です。夕日の差し込む部屋で少し切なくなりながら僕は書いています。君は何しているのかな?

僕は今ちょっぴり切ないです。僕は夕日を見ると切なくなっちゃうんだよね。それは夕日が初恋の人を想像させるからで、信じられないことに涙なんか流してしまうわけ。そしてジェームズ&ランゲの学説を思い出してしまうわけ(ジェームズ・ランゲ説については近日、僕が「百のジョームズ・ランゲ」で詳細を書く予定です)。切なくなったり、認知心理学の学説を思い出したり、忙しいさなかで書いているわけです。でもいいもんだよね、こう、記憶っていうのかな、情性っていうのかな、そういうのに浸ってみるのも。まあ、やりすぎると今流行の統合失調症っぽくなるから気をつけないといけないけどね。

さて、冗談はこれまでにして、CMは映像芸術であり、その発展に寄与することが本論の目的であるということを確認しておこう(って覚えている?)。

そこで今回はCM製作におけるひとつの方法論を考えてみた。それは常識に安住した、視聴者を侮蔑した、くだらなくってつまらないCMと奇抜で騒々しいCMのみが大局を占める現在のCM界への新たな方法論の提示である。

と、偉そうなことを書いたが平易な文体だから、みんな読んでみてね。では、どうぞ。

CMはひとつの物語であると以前書いたことがある。ところが日本のCMはとっても短いから、物語を描ききることなどは不可能である。無理に物語を描こうとすれば、詰め込みすぎて意味不明なものになるか、雰囲気を描くだけのつまらないものになるか、薄っぺらな物語になるか、あるいは有名作品・物語のパロディになってしまうだろう。どれも悪いわけではなく、中にはその性質を活かした作品もあるが、その多くはくだらないCMとなっているのが現状だ。

それではどのような手段でCMに物語を埋め込むのか?その答えが「符号」である。

有効な物語を紡ごうと思ったら「符合」を沢山作る必要がある。符号ってのは中井久夫氏の言葉だけど、それは記憶を蘇らせるようなものだ。何でもないものを見たときや何でもない匂いを嗅いだときに、不図それにまつわる記憶が浮き上がってくる経験ってないかな?一見それは関係ないことだけど、その人にとっては関連があるってことだ。例えば学校を見ると初恋の子を思い出すとか、きんぴらを食べると母を想起するとか。あるいは靴ひもを結んでいるときに不図祖母のことを思い出し泣き出してしまうっていう小説もあったね。

 そういう符号をCM中に置くことによって視聴者の記憶を喚起し、実際にCMに描かれている以上の物語を見せることが重要なのだ。

(これは文学なんかでは当たり前のこととなっているけれど、時間的規制が厳しいCMこそこれを活かす必要があると思うんだ。ようするにCMの視聴者は視聴するだけでなく、その製作者でもあるってことだ。如何に視聴者を製作者に引き込むか、それがCMの物語性を膨らますってわけ)

 CM中の符号は、CMがほとんど無意識的に視聴されていることや、その視聴者の年齢性別が想定しにくいこと、CMがあくまでも商品や企業の宣伝であることを考えると、普遍性の高さが問題となる。つまり誰もが経験していそうなこと(この経験ってのは実体験に限らず、追体験でもいいと思う)を描くってことだ。すぐに思いつくところでは「恋愛」なんてぴったりだよね。実体験はほとんどの人がしてきていることだし、映画や小説などで追体験をいやって程繰り返しているのが現代の日本人だ。

(ストレスフルな学校生活においては、恋愛といじめが唯一の暇つぶしだって、僕は以前、小説で書いたことがある・「スタイルの問題・第一章『スタイルのス』」ライブラリー「肺々」収録)

 ところがこの作法の難しいところが書き込み加減だ。あまりに描写し過ぎると符号として機能しにくくなるし、少ないと符号にならないし。

例えば松浦亜弥が出演しているポッキーのCMは松浦亜弥が高校生に扮し、告白する場面が描かれている。緊張のあまり心臓が飛び出てしまい相手の男子学生をふっとばしてしまう、というオチだ。告白っていうのは誰もが身近に感じる場面ではあるが、このCMのコミカルさは現実の告白場面に相応しい緊張感や不安を疎外し、彼女の明るいアイドル的なイメージはシリアスさを有さない。それ故に場面は告白でも、それはリアリティを持っておらず、符号としては機能していない。このCMで自らの告白やそれにまつわる記憶を連想する人は少ないはずだ。

(勿論、全てのCMの基準が符号であるわけではない。そしてこのCMはそれを狙っているようではないので、以上のことからこのCMの価値が低いというわけではないことに注意してほしい。符合っていうのはあくまでもCMにおける一スタンダードに過ぎない)

 一方、ポカリスエットのCM、こちらも女子高生ルックスの女の子が電車の脇を走ったり、同級生と思しき男子生徒からポカリスエットを奪ったりするというものだが、これはどうだろうか。さも映画のワンシーンのようなつくりになっているが、僕に限っての話だけど、符合としては機能しないな。それは僕があのような経験を持たないからであり、また僕の経験から乖離し過ぎているからである。CMの意図を鑑みて(僕なりの解釈に過ぎず、実際のものとはずれているかもしれないが)、しかも僕の符合となるような作品を提案するとすれば、「夕日差し込む家庭科室」「文化祭で演じる劇の練習をしている面々」「冬なのに汗ばむほどに熱心」「帰路と思しき道を駆けていく少女」「気になる男子生徒とその友人の脇をポカリスエット片手に走りすぎる少女」などによって構成されねばならない。

このように符号は普遍性を与えにくいが、そうかと言って不可能ではない。

 スピーディで目をひきつけるCM(オダギリジョー出演のライフカードのCMが適例。派閥争いに挟まれた主人公をコミカルに描く)や奇抜なCM(アミノサプリのCMが適例。特に「903」との合同CMはよかった。黒衣の903女性三人とアミノンジャー五人が校庭で出会うシーンは極めて目を引き、クリエイターの悪戯心が(例えそれが企業戦略だとしても)楽しい)と並んで、符号的CMの活躍を願いたい。それは恐らく現在不足している「静」的でいて心に残るCMへの筋道である。しかもそれは国際的なCM賞を受賞している海外の静かなCMとは異なった、洒落ているのではない(=時として恰好つけすぎていて、見ていて気恥ずかしくなるような)、リアル漂うCMとなるはずである。

 

と、まあ、今回はちょい真面目に書いてみたけど、どうかな?本当はサントリーのCMって素敵なものが多いのに、CM後の「SUNTORY」の表示がださいよね、白地に水色の文 字って、そりゃあ飲料水メーカーとしては爽やかさを意識して いるんだろうけど、どうなんだろう?、大体爽やかさってどうな んだろう?、「爽やか」なんて嘘っぽいものに本当に爽やかさを感じる のかな、って書こうと思ったんだけど、諸事情により中止したんだ。 実は途中までその分析を書きはしたんだけど、何を隠そう僕は田中麗奈 が好きだから、サントリーに触れているとどうしても「なっちゃん」賛になっ てしまって、結局「田中麗奈」論になりそうだったからね。

僕は好きなものを冷静に語るほど、つまらない大人じゃないってわけ。

言い訳めくけど。

言い訳にもなってないかもしれないけど。

 

それじゃあ今週はここまで。次回の内容は未定だけど、とりあえずCMを楽しんでね。私の符号ってなんだろう、って考えながら見るのも楽しいかもね。グン・ナイ。

 

 

 


最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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